イグナリナ原発に行ってみたら 前編

 「この町のアイデンティティを形成する重要な役割を担っているのは現在でも、未来でもなく、過去なのである。人々は未来に疑問を投げかけたり、未来を心に描いたりすることはなく、不確かさから象徴的な逃避として堂々たる過去へ回帰する。そこには社会主義の遺産という難解な実情が残存している。」(“Post-Soviet transitions of the Planned Socialist Towns: Visaginas, Lithuania” より引用、筆者訳)。
 これはラサ・バロチュカイテ教授(ヴィタウタス・マグナス大学)がヴィサギナスというリトアニアの町について考察した論文の一節。ここでいう「過去」とはヴィサギナスがソ連時代の社会主義を色濃く反映した、原子力発電所の町だった歴史的背景を意味している。
 ラトビアとベラルーシとの国境線に隣接するウテナ県の町、ヴィサギナス。この町の中心から10キロメートルほどの場所、リトアニア最大の淡水湖ドルークシェイ湖の隣にイグナリナ原発がある。イグナリナ原発の第一号機が運転を開始したのは、まだリトアニアがソ連時代にあった1983年。2号機はチェルノブイリ原発事故が起こった翌年1987年に運転を開始する。当時ヴィサギナスはリトアニアの共産党リーダーの名前を冠してスニエツクスと呼ばれており、主にイグナリナ原発の労働者とその家族が生活していた。彼らの多くがロシア語系住民だった。
 1990年にソ連からの独立を宣言したリトアニアはラトビアやエストニアとともに急速に西側諸国との連携を強化していった。そんな中イグナリナ原発という大きな壁がEU加盟の前に立ちはだかる。イグナリナ原発の原子炉は事故を起こしたチェルノブイリ原発と同じ黒鉛減速型(RBMK)であったため、EU側は原発停止を要求。リトアニアはデコミッショニング(廃炉)の資金援助をEUから受けることを条件に停止を約束してEUへの加盟を果たす。2004年に1号機が、2009年に2号機が停止し、リトアニアから原子力の火が消える。
 それに対し失業を恐れるヴィサギナスの労働者はもちろん、原発停止に伴う電気料金の値上げに苦しむ国民からの原発停止反対の声も少なくはなかった。もともと暖房用の電気料金が安く設定されていたヴィサギナスでは電気料金が5、6倍に跳ね上がったという。そして日本に留学していたあるリトアニア人学生は「原発は火力発電などと比べて環境に優しい。それにリトアニアは日本と違って津波もなければ地震もないからね」とも語っていた。
 その上リトアニアはEU加盟後もロシアからの「エネルギーのくびき」から逃れられないばかりか、むしろエネルギー依存が強まったという印象さえ受ける。というのは停止前に原発の燃料となるウランをロシアから主に輸入していた。そして停止した原発の電力分を補うための石油やガスの輸入もロシアに大きく依存しているという現状がある。
 イグナリナ原発で廃炉作業が着実に行われる中、新原発建設のムーブメントが次第に大きくなり始め、周辺諸国(バルト3国とポーランド)の電力会社との共同出資でプロジェクトが開始。しかし出資額の比率をめぐり調整が困難を極め、原発の技術力の高い海外出資者を公募する方向へ舵を切る。そして最終的に日立製作所と東芝傘下の米ウエスチングハウスが一騎打ちとなり、日立が優先交渉権を獲得するに至る。それは東日本大震災と福島原発事故の悲劇から半年も経っていない2011年7月14日のことだった。 

 雪が薄らと積もりはじめた2013年12月13日。私は眠たい目を擦りながら朝7時にカウナス発ヴィサギナス行きのバスに乗り込んだ。夜が明けるのがめっぽう遅くなった最近であったが、日の出後もこの日はやけにぼんやりと朝靄がかっていた。
 到着後とりあえず、ヴィサギナスの地図を入手しようと、あたりを見回すと赤煉瓦のホテルを発見。正面玄関には「ヴィエシュブティス」「ホテル」「ガスチィニッツァ」とご丁寧にリトアニア語、英語、ロシア語の3カ国語で標識が掲げられている。しかし、驚くべきことにホテルのレセプションは2カ国語対応。英語が全く通じないのである。そこで同じ建物内にあるバスチケット売り場のスタッフに話を聞くと、カタコト英語で「大きな白い建物のインフォメーション・センターに行きなさい」とその場所を説明してくれた。
 指示に従って辿り着いた場所は想像していたインフォメーション・センターではなく、コンクリートのドでかい市役所風の建物。とりあえず正面玄関の窓口にあたってみたが誰も英語を話せるものはおらず、すべてロシア語で返された。それでも図を描いて何か別の場所を教えてもらったので、その指示通り歩いて行く。
 しかし今度は市民会館のような場所で、受付の年配の女性からは案の定ロシア語で話しかけられる。英語ができるという若い女性に仲介してもらったものの「アイ・ドント・ノー」の一点張りでこちらもラチがあかない。最終的にインフォメーション・センターどころか、人っ子一人いないヴィサギナス湖付近の松林に迷い込んでしまっていた。湖畔のベンチで遠くを眺めていて、ふと我に帰った。「何をやってんだろう。今回の旅の目的は湖畔の森林浴でもなければ、ヴィサギナス観光でもない。そう、目下話題のイグナリナ原発を訪問するのだ。」



イグナリナ原子力発電所




















ヴィサギナスの集合住宅




















ヴィサギナスの市役所らしき建物。気温は2度




















ヴィサギナス湖

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