ブラジルへの切符を求めてやってきたボスニアのムスリムの話 後編

 10月15日の日中、カウナスの目抜き通りであるライスヴェス通りはいつもとは全く異なる、何かただならぬ空気、そして青と黄の2色で満ちていた。ボスニア・ヘルツェゴビナ国旗のシンボルカラーの青と黄色の帽子やタオル、ユニフォームを身につけた中年オヤジや若者グループ、あるいは家族連れのサポーターたちが通りにたむろしている。
 サポーターの多くはボスニア・ヘルツェゴビナ、あるいはスウェーデンなどの北欧諸国からやってきているらしい。中にはアメリカからわざわざやってくる熱狂的なファンも。
 秋に入り水が抜かれ物悲しかった通りの噴水の周りには、溢れんばかりのサポーターの雄叫びが聞こえる。あるものは大声で国歌と思われる歌を歌い、またあるものは爆竹のようなものを鳴らして狂気めいている。まさにボスニア・ヘルツェゴビナによるオキュパイ・カウナス・ストリート状態。フーリガンを思わせるような熱狂ぶりに、カウナス市民は至って大人の対応という感じで、集団を横目に通り過ぎる。そしていたるところで警察がパトロールしている。
 これではどちらがアウェーのゲームか分からない。欧州サッカー連盟のニュース記事では総観客数の80パーセントがボスニア・ヘルツェゴビナのサポーターと予想されているというのだから、いかに同国がこの一戦に命をかけているかがわかる。逆に言えば、いかにリトアニアが力を入れていないのかということなのかもしれないが。
 試合はカウナスのステポナス・ダリウス・イル・スタシス・ギレナス・スタジアムという舌が絡まりそうな会場で午後8時キックオフ。「日中にこんなにエネルギーを浪費しすぎない方がいいのでは」という心配をしつつ、ふと思った。「この数のサポーターがカウナスに来ているということは、彼らのうち比較的マジョリティーはイスラム教徒であろう。とすれば敬虔な彼らが犠牲祭の祈りを捧げないわけはないだろう。さすがのサポーターもスポーツに熱狂し過ぎて信仰を忘れるなんぞということは考えられない。つまり公園のモスクで何かが起こる。」そう確信した私は、ジャーナリズム精神という名の野次馬根性を引っ提げてモスクへ向かった。
 公園に着いてみると、そこにはいつもと変わらない落ち着いた雰囲気しかなかった。人の声も聞こえなければ、人影もない。黄色く染まった葉で埋もれた道を踏み分けてモスクへ向かう。しかし、そこにあるのは秋の静寂を背にした荘厳なモスクだけであった。「ラマダーンで飲食の欲求さえも克服してしまうイスラム教徒たちはサッカーの持つ魅力の前には我を忘れてしまうのか。こんなことが果たしてこりうるのか。」スポーツが信仰を超える瞬間を目撃してしまったと信じた私はこの驚愕としかいいようのない現実に静かな公園で1人、熱狂していた。
 後から分かった事だが、スポーツは信仰を超えてはいなかった。より正確に言えば、私の浅はかな熱狂に対して、サポーターのイスラム教徒たちの熱狂はより用意周到で、スポーツと信仰の見事な両立を果たしていた。彼らは事前にスタジアム近くのホールを貸し切り、試合前に犠牲祭の祈りを捧げていた。考えてみれば200人が最大収容人数とされるカウナス・モスクに収まるはずもないサポーターの人数が事前に予想されていたわけである。
 ボスニア・ヘルツェゴビナの日刊紙DnevniAvazが伝えるところによると、リトアニアには約5000人のイスラム教信者がいるとされる。リトアニアのモスクではでは通常ロシア語により説教が行われるらしいが、「この日はリトアニアの歴史の中で最大人数のイスラム信者が集う犠牲祭が、ボスニア語による初の説教とともに開催される」と報じている。そして「皆がこの宗教的祝祭日がブラジルで開催される2014年ワールドカップ出場を決めた日となることを願っている」と締めくくっている。
 そして試合の結果はいかに。翌日の欧州サッカー連盟のニュースによれば、両国はお互いに一歩も引かぬ攻防を続けた後、ボスニア・ヘルツェゴビナがゴールを決め、1対0でブラジルへの切符を手にした。まさにボスニアのイスラム教徒たちの願いが結実した瞬間だった。リトアニアまで応援に来るサポーターたちのサッカーへの熱い情熱とイスラム教への厚い信仰心にただただ拍手を送りたい。そして今回またしても本大会出場を逃したリトアニア。4年後はリトアニアの初のワールドカップ出場を期待したい。








左上がボスニア・ヘルツェゴビナ国旗(コンパクト世界地図帳より)




















秋の公園




















夕暮れ時のモスク

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●No.1 リトアニアの3.11
●No.2 世界を知らない私と私を知ってくれている世界
●No.3 キョーゲン・イン・リトアニア
●No.4 カウナスという街
●No.5 愛しのツェペリナイ
●No.6 その人の名はスギハラ
●No.7 エラスムスの日常
●No.8 検証:リトアニアの噂 前編
●No.9 検証:リトアニアの噂 後編
●No.10 プラハで出会った哲学男
●No.11 魔女の丘、そして悪魔の館へようこそ
●No.12 お後がよろしくないようで
●No.13 ブラジルへの切符を求めてやってきたボスニアのムスリムの話 前編

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