……リトアニアの3.11……

 3月11日は忘れられない重要な日である。それは日本人にとって東日本大震災という悲劇を思いおこし教訓とするために、そしてリトアニア人に取っては独立回復という悲願を祝福し心に刻むために。 いずれもそれを同時代的に経験しなかった未来の世代に伝えるべき国民的記憶として、その日に人々は集い、語り合い、思いを共有する。たとえ時の流れがその日に集う本質的な思いを薄れさせ、形骸化の波に飲み込まれることになっても、その後の世代の歴史は確実にその重要な出来事に遭遇した先人の生々しい記憶なしには語れない。忘却は悪い事でなく必然である。なぜなら人々は今を必死に生きているからだ。今を生きる人々に騒々しい過去の記憶の訴えは意味をなさない。今を生きる人々がふと足を止めたときに静かにそこにある、当たり前の国民のメモリアル・デイこそ、強い意味を持ってくるのだ。
 私は現在リトアニアに留学中の国際教養大学生である。ご存知の方もおられるかもしれないが、秋田県の公立大学法人・国際教養大学は独特な教育方針で知られ、その最たるものが1年間の留学義務付けである。私ももちろんその例に洩れず現在リトアニア第二の都市にあるカウナスのヴィタウタス・マグナス大学に留学している。リトアニアという国はおそらくほとんどの日本人には馴染みがなく、バルト三国の1つというくらいの認識ではないかと想像する。無論1年前の私もそのような状態だった。リトアニアはラトビア、エストニアとともにバルト海に面した国である。歴史を紐解くと過去に広大な版図を誇るリトアニア大公国として名を轟かせていた時代もあったが、近現代におけるリトアニアは周辺の大国に翻弄され続けた。ロシアやドイツによる占領から解放されたのも束の間、第二次世界大戦の混乱の中、モロトフ・リッペントロップ秘密協定によりソ連に併合され、約50年間ソ連の支配下に下る。しかし人々のリトアニア人としての意識と誇りは再独立への原動力として働き続け、バルト3国の独立への動きは最終的にソビエト崩壊という大きな歴史のうねりを生み出す事にもなる。
 留学中は大学の寮に居住している。2月16日の昼下がり、寮の自学ルームに一人座って、熱の入らぬ宿題にぼんやりと取り組んでいた。穏やかな日差しが窓から部屋に注ぎ、眠気を誘う。うとうとしかけた私はかすかな太鼓の音ではっと我に返った。音は次第に大きくなるとともに、笛や人々の声も聞こえて来た。窓から寮に面する通りを覗き込むと街の中心へ向かう群勢の姿が目に入った。数分もするとリトアニアの国旗や国章、垂れ幕を掲げた老若男女の集団が行進していた。1918年の独立記念日の行進だった。
 リトアニアには2つの独立の記念日がある。その数は学校嫌いの無邪気な子供たちにとっては単なる休講日だが、2回も国の危機と悲劇を経験したという事にほかならない。2月16日に見た行進はリトアニアにとって最初の独立を祝うものだった。
 そして3月11日。私は7時間の時差を考慮に入れながら寮の最上階から黙祷を捧げた。目を開けたとき窓から見えたのは薄らと雪の残るカウナスの町並みが独立回復を祝う数多の国旗で飾られている光景だった。奇しくも3月11日は2つの国のメモリアル・デイなのだ。
カウナス















2月16日の独立記念日のパレードの様子