その人の名はスギハラ

 海外で道を歩いていると、不意に子供たちから挨拶される時がある。そのとき残念ながら「ニーハオ」か「アンニョンハセヨ」のかけ声を頂くことが多い。しかし、リトアニアでは「こんにちは」を頂けることがしばしば。特にカウナスに来てからというもの、「こんにちは」という元気の良い挨拶と巡り会うことが多いのである。それはなぜか。それはある偉大な日本人外交官の存在のお陰なのである。
 彼の名は杉原千畝。高校の英語の教科書の題材として取り上げられたこともある人物である。杉原は日本のシンドラーと呼ばれている日本の外交官で、約6000人のユダヤ人の命を救ったといわれている。
 杉原千畝は1990年の元日、岐阜県八百津に生まれる。外務省に入省した後、杉原は満州領事代理やロシアやフィンランドでの日本大使館通訳を務める。 そしてヨーロッパが第二次世界大戦に突入した1939年に、首都となっていたカウナスに日本領事館領事代理として赴任。そこで彼は歴史的な決断をすることとなる。
 当時カウナスにはポーランドからナチスドイツに追われた12000人ともいわれるポーランド系ユダヤ人が戦争と迫害の惨禍を逃れてやって来ていた。彼らは安全な土地を見つけるために、日本大使館にビザを求めて押し寄せて来た。なぜ彼らが日本大使館へ助けを求めたかというと、アメリカ大陸に逃れるにはシベリアを経由して日本から出国するのが唯一の手段であり、そのために日本が発行するビザがどうしても必要だったからだ。しかしご存知の通り、当時日本はドイツの同盟国であり、ドイツが併合したポーランドから逃げて来たユダヤ人にビザを発行することは外交問題に繋がる恐れがあった。杉原は本省からビザ発行不認可の電報を受けていたが、大使館を囲む大勢のユダヤ人のために独断でビザ発行を決意。1600ものビザを昼夜兼行で発行し続け、結果的に6000人ものユダヤ人の命を救ったといわれている。なぜ6000人といわれているかというと子供は大人のビザがあれば通過できたからだという。それだけ家族で命からがら逃れて来たユダヤ人が多かったということなのかもしれない。
 現在、杉原が領事代理を務めていた旧領事館は杉原記念館となっている。記念館にお邪魔すると杉原千畝に関するビデオと千畝の妻・幸子が記念館の庭に桜を植樹した際のビデオを鑑賞することができる。また杉原がビザを発行した机が再現されていたり、彼に関する数々の展示品を見たりすることができる。毎年約7000人の日本人がこの記念館を訪れるらしい。言ってみれば、ほぼ100パーセント、カウナスに来る日本人観光客集団はここに来るためにカウナスに来たと言ってもいいぐらいである。
 私が留学しているヴィタウタス・マグナス大学の東アジア研究センターが記念館に隣接する杉原ハウスと呼ばれる建物にある。そして2000年に設立された大学の日本文化クラブである「橋クラブ」が毎週金曜日に、この杉原ハウスでイベントや日本映画の鑑賞会、日本文化を紹介するプレゼンテーションを行っている。私もほぼ毎週参加させてもらうのだが、毎回30人を超えるくらいの日本に興味のある学生で教室は埋め尽くされる。これまでに節分の豆まきや巻き寿司作り、水引や盆栽、日本のドラマやアニメのプレゼンテーションを行っていた。「橋クラブ」の中には日本への留学経験者もいて、彼らと会話する時はふつう日本語で会話する。
 たった1人の日本人の英断が今なお日本とリトアニアをつなぐ架け橋となっている。リトアニアに来るまで正直ここまで日本に興味があるリトアニア人がいることを想像もしていなかった。それはひとえに杉原千畝という人の偉大な功績によるものであると言っても過言ではないだろう。そして彼の存在による日本とリトアニアを結びつきの中に自分の充実した留学生活があると思うと、杉原千畝という人物へただただ感謝があるのみである。
 余談になるが、ヨーロッパで政治外交の勉強をしていて思うことは、常に学問の中にナチスを生み出したヨーロッパの民主主義への反省と挑戦を感じるということだ。それとともに人道主義の難しさと重要性も多く語られているような気がする。
 寒さの残る4月13日にポーランドを訪れた際、負の世界遺産として原爆ドームと並んで有名なアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所を見学した。そこではアウシュビッツの唯一のガイドである中谷剛さんと共にナチスのユダヤ人迫害を真剣に見つめ、考えることができた。中谷さんはユダヤ人差別に関して、決して賛成者が多かったのではなく反対者が少なかったのだと、おっしゃっていた。ナチスを生み出した民主主義の悩ましさと傍観者の危険性を考えさせられ得ずにはいられなかった。正直、アウシュビッツ見学で人間であることのやるせなさに絶望的な気分になった。しかし、見学終わり際に中谷さんが杉原千畝について独り言のようにつぶやいた言葉が今でも忘れられない。それは人間にはホローコーストのような悲劇を起こしてしまう部分もあるが、一方で杉原のような類希なる決断ができる「不思議さ」も持ち合わせているという言葉だった。
 杉原千畝の名を世の中に知らしめた本『六千人のビザ』のなかで、著者の幸子夫人はこう述べている。「夫は『戦争』や『闘争』という人間同士の痛ましい場面を最も嫌っていました。人間にいちばん大切なのは『愛と人道』だといつもいっていました。」そして彼女は「世紀末の混乱した今の時代に強く思うことは、異なる民族意識を超えて、新しい方向で気持ちを結び、1つの地球上に仲良く住む、人間家族でありたいということです」と結んでいる。
 夏になり杉原記念館に足を運ぶ日本人観光客が増えて来た。改めて杉原千畝が過ごしたカウナスという土地に留学していることを強く意識する今日この頃なのである。














カウナスの杉原千畝記念館。門柱に「希望の門。命のヴィザ。」と記されている














杉原千畝ビザ発行の机の再現。館内すべての展示に日本語の説明書きがついている














アウシュビッツ第一強制収容所の入り口。ドイツ語で「働けば自由になれる」と書かれている














収容所のガス室。ユダヤ人を計画的に効率よく殺害するために作られた

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●No.1 リトアニアの3.11
●No.2 世界を知らない私と私を知ってくれている世界
●No.3 キョーゲン・イン・リトアニア
●No.4 カウナスという街
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