エラスムスの日常

「アー・ユー・エラスムス?」これは留学先の大学や授業で幾度となく尋ねられる質問である。「イエス、アイ・アム・エラスムス!」これがここ最近の私の答え方である。この私の返答は2つの意味で間違っている。1つは世界史をかじった人ならお分かりの通り、私は『痴愚神礼賛』を著してもないし、トマス・モアと友達でもない。何よりルネサンス期に生まれたネーデルラント人、デジデリウス・エラスムスではなく、平成生まれの日本人である。ではなぜ自分はエラスムスであると答えるのか。それは、明らかにエラスムスでないというこの大きな間違いの他に、厳密にはエラスムスではないという、もう1つちょっと複雑な意味合いがあるからである。
 エラスムスとはヨーロッパの大学において「留学生」の代名詞的な言葉となっている。これは欧州間の大学ネットワークの構築を目的としたEU主導のエラスムス計画に由来する。正式にはEuropean Region Action Scheme for the Mobility of University Studentsと呼ばれ、この頭文字をとるとエラスムスとなる。具体的には欧州の学生に出身国以外の欧州諸国で学ぶ機会を提供しようというのがねらい。よって、日本からの交換留学の私は厳密にはエラスムス計画による留学生ではない。ただ、毎度そんなことを説明するのも面倒だし、何より聞いた相手もいわゆる「留学生」かどうかを聞いている場合が専らなので、上述の説明をするようになったわけだ。
 今回はそんな留学生の日常を紹介したい。リトアニアで名門ヴィリニュス大学に次いで有名なヴィタウタス・マグナス大学は、所属する政治学・外交学部をはじめ全部で9つの学部を抱える総合大学。一般的な海外の大学と同じく、9月から新学期が始まり、翌年の2月からが2学期目となる。その間に、おおよそ1月の1か月間の冬休みと6月から8月の3か月の夏休みがある。
 大学は英語開講科目が充実し、留学生用の学生寮があるなど受け入れ態勢の良さもあってか世界中から留学生が集まって来ている。先学期であれば、150人程の学生が27か国から集まっていた。比較的フランス、スペイン、トルコ、アゼルバイジャン、韓国からの学生が多かった。
 学部生の最も典型的な授業は1週間に90分の1クラス(外国語のクラスは例外)。日本の大学の授業と比べれば当然少ないので、国際教養大学の単位互換をすると単位は半分から3分の2程に圧縮される場合が多い。意外だったのは1つの授業を受け持つ担当教授が2人ないし3人という授業が多かったことだ。また取得したい授業がリトアニア語でのみの開講の場合や留学生の数が極端に少ない場合はコンサルテーションといって、マンツーマンのような授業を受講することもある。成績評価に授業態度や出席率などは全く関係なく、中間試験や期末試験の一発勝負で決まる場合が多い。また客観的に言って授業態度は良くはない。日本のように教授が1人喋って生徒は黙っているのとはほど遠く、授業中は騒がしい。だがアメリカのように授業に深くコミットして議論が白熱しているのではなく、単なる私語が騒がしい。ある授業では学級崩壊に悩まされる日本の小学校のニュースを思い出した程だった。授業課題はほとんどが英語の読み物。教科書を購入する必要はなく、教授が指示する論文や記事を必要に応じて印刷するということになる。
 先学期の授業に関して、私は政治学・外交学部から4つ、社会学部から1つ、人文学部から1つ、そしてロシア語の授業を取得した。具体的には「開発政策と国際機関の戦略」「植民地主義とポスト植民地主義研究」「人権と民主化」「アジア研究概論」「現代政治社会学」「20世紀のサイエンス・フィクション文学」を取得。個人的には聴講扱いで参加していた「ソ連:協力と反抗」の授業が興味深かった。なぜなら担当教授が1970年代後半から80年代にかけて実際にソ連に潜り込んで人道援助の傍ら、反共の政治犯の収容所や刑務所の情報を西側に密かに報告していた人権活動家だったからだ。
 大学はカウナスの市街地に存在する。陸の孤島といわれる秋田の国際教養大学とはまったくの正反対である。大きな1つのキャンパスにすべての学部が集中しているのではなく、学部ごとにバラバラに分かれている。またヴィタウタス・マグナス大学以外にもカウナス工科大学やカウナス医科大学などがあり、お昼時には街の食堂やカフェには数多の若者が集う。週末の夜には居酒屋やバー、クラブに足を運ぶ留学生も多い。特に西欧人にはパーティー・アニマルと形容されるパーティー好きでタフな留学生が多い。私が翌日の授業のプレゼン準備に追われているとき、お構いなしで夜の繁華街に繰り出していく同じクラスメイトのドイツ人とイタリア人の女の子たちがいた。翌日授業に参加すると徹夜で飲んだくれてたはずの彼女たちが、飄々とレベルの高いプレゼンをやってのけた時には、そのタフさに舌を巻いたものだ。
 また毎週木曜夜には大学の国際事務課主催の「カルチュラル・ナイト」が、学生寮近くのバーの1フロアを貸し切って行われる。これは毎回2、3か国ほどの国の学生が30分ぐらいの枠の中で自国の文化をプレゼンするというもの。例えば、中国が地元の太極拳クラブとコラボしたり、ラトビアが伝統衣装を纏ってダンスを披露したり、韓国が韓国式のドリンキング・ゲームを紹介していたりした。日本は着物やアニメのコスプレを着用し、日本特有のしきたりの紹介、秋田・竿燈祭りのお囃子の披露、手巻き寿司とお好み焼きの提供を行った。
 休日は数多くあるイベント、例えば音楽コンサートやバレエ鑑賞、国内小旅行などに参加したり、学生寮でのんびりと朝寝をしたり、友人とグループでレストランに食事に行ったり、宿題や試験勉強に追われたりと留学生によって様々。
 詰まる所、エラスムスの日常はいたって平凡なものである。留学生の日常を綴るといったいかにも平凡なトピックを落ちもなく淡々とここまで書き記してしまった。読者にいい意味での裏切りを与えられない文章は駄文そのもの。これでは、エラスムス大先生に小っ酷く叱られそうだ。宗教改革期のベストセラー作家でもあるエラスムス曰く「世間は欺かれることを欲す」と。














ヴィタウタス・マグナス大学の留学生用の9階建ての寮














寮の中のキッチン。学食がないので自炊する学生が多い














人文学系の図書室。学部ごとに図書室が分かれている














チェコとフランスのカルチュラル・ナイトの様子














日本のカルチュラル・ナイト。人気アニメ「ワンピース」のコスプレをして日本文化を紹介

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●No.1 リトアニアの3.11
●No.2 世界を知らない私と私を知ってくれている世界
●No.3 キョーゲン・イン・リトアニア
●No.4 カウナスという街
●No.5 愛しのツェペリナイ
●No.6 その人の名はスギハラ

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