Vol.816 16年7月23日 週刊あんばい一本勝負 No.808


ショートメールはじめました。

7月16日 今日こそは仕事をしないで外に出よう、と思っていた。寝る直前、気が変わった。外に出て起きることを想像し「いつもと同じパターンにしかならないな」と思い至り考えを変えた。やり残している仕事が山ほどある。後ろ髪ひかれながら外でリフレッシュするより、マンネリの仕事の海を泳ぎながら後悔のため息をつく方がいい。気になっていた和室の障子の貼替えもある。自宅の障子はずっと小生が張替えを担当。いつかはやらなければならない仕事だ。障子の貼替えをしながら、夜はささやかなつまみで晩酌、夜に散歩に出て、慣れた寝床で熟睡。これに勝るルーチィンはない。

7月17日 事務所2階保管庫はシャチョー室横にあり8畳ほど。主に資料や本が雑多に押し込められている。ここを5年ぶりに整理整頓した。5年前、本類の3分の2をあるサークルに寄贈した。その時点でずいぶんすっきりはした。でも少し油断をすると紙ものはすぐに増殖する。とりあえず文庫(新書)と単行本に分け、それをさらに大雑把にテーマ別、著者別に分類した。家で使うものは家に移動した。文庫、新書、料理本や好きな作家、図録系も家に移した。これで保管庫はすっかりスカスカに。本の背表紙が読めるようになると意外なことが判明。同じ本が何冊もあるのだ。数えただけでも23点が同じものを2冊以上(ひどいのは4冊)購入していた。

7月18日 今日は有志で太平山・宝蔵岳コースだったが前日、中止を決定。雨模様だったからだ。モモヒキーズなら決行したかもしれない。最近、修行のような山登りはやめようと思い、無理に雨の中を歩くのが急におっくうになった。これで3連休は事務所から一歩も出ず仕事をする羽目に。でも鬱屈しているわけではない。やることはいっぱいあるし、なによりも書斎もシャチュー室も整理整頓が終わったばかり。いるだけで気持ちいい。きれいに並び替えられた本棚をみているだけで、いろんなアイデアが浮かんでくる。整理してみると本の数もそうだが読書量の質、量とも限定的で偏狭だ。もっと広く深く自由に本を読む必要があるなあ。

7月19日 けっきょく3連休は仕事をしているうちに過ぎてしまった。連日雨模様だったのでフラストレーションは思ったほど溜まらない。今週もなんだかバタバタになりそうだ。これから本荘で打ち合わせひとつ。帰ってくると改修工事関係の書類提出、今週が最後になる仙台私大の講義録をつくらなければならない。やろうと思えば仕事は無数にある。でお、そのおかげで犠牲にしていることもたくさんある。そのことは極力深く考えないようにしている。いまの愉しみは「ダイエット」。台湾で2・5キロ増えた体重がようやく元に戻った。毎朝体重計に乗るのが楽しみだ。

7月20日 朝の食卓での話題はもっぱらTV アナウンサーのでたらめ日本語をあげつらうこと。いや私自身は相槌を打つ程度だが、カミさんのそれは激烈で恐ろしい。どうやらこれがフラストレーションの解消になっている。元アナウンサーと言うせいもあるのだろうが、最近当たり前になった「××を行った」という、行為の後になんでも「行う」を付けるのはヘン、と毎回おかんむりだ。敬語の使い方にも厳しいが、「出生(しゅっしょう)」を「しゅっせい」と読もうなら確実にゴミ扱いだ。私も「喧々諤々(けんけんがくがく」という言葉は許せない。侃々諤々(かんかんがくがく)か喧々囂々(けんけんごうごう)と正しく使い分けてほしい。昔、議論を呼んだ「いきざま」は、どうやらすっかり市民権を得たようだ。これは明解国語辞典がはっきりと「間違った日本語ではない」と断定。「ざま」は「ざまを見ろ」の「ざま」とは違う言葉です、と徹底援護。辞書によって語釈も違うのだ。市民権を得てテレビは大手を振って「いきざま」を連呼している。

7月21日 もう10年以上前の話だが平井堅がカバーした「おじいさんの古時計」を、さらに秋田弁バージョンで歌った「ジッコの古時計」というシロモノがあった。おじいさんのことを「ジッコ」というのは秋田で侮蔑的な言葉だ。尊敬をこめて「ジサマ」とか「ジっちゃ」と言う。「ジッコ」というさげすんだ言葉を選んだ人間の感性は貧しい。歌の内容と正反対のイメージを喚起させるし、知性のかけらも感じられない。過去にこうした方言批判を新聞コラムに書いたこともある。先日、本荘出身で横浜在住の洋画家G先生と話しをしていたら、「あの歌は教科書にまで採用され、本荘の人間として恥ずかしい」と言う。うたったのは由利本荘市の人で、秋田弁のテキストとして掲載されているのだそうだ。G先生は、屈辱的なばかりか誤解がひどいと教科書販売会社に抗議の手紙を書いたそうな。同じことを考えている人がいるんですね。なんだかひと安心。

7月22日 ケータイは外出の時しか持ち歩かない。そのため回りからは連絡がつかないと大不評だが、電話は昔からきらい。その理由を述べている紙枚はないが、持っている電話はいまだPHS。田舎に行くとほぼ通じない。先日、後輩Sさんからショートメール発信のレクチャーしてもらった。パソコンのメールは日常業務だが、ケータイのショートメールもことのほか便利でビックリ。昨日は仙台出張だったが、おもしろくなって15通くらい旅先からショートメール出しまくった。パソコンよりレスポンスが早く、短く要点のみで伝わるのが自分の波長に合っている。Eメールだと言い訳や余計なことを書きすぎる。そうかケータイってこんな利便性があるのか。見直したなあ。
(あ)

No.808

都会の空はにごっていた
(毎日新聞社)
三木賢治

「集団就職」の本である。サブタイトルは「終戦っ子87人の軌跡」。由利郡大内町立上川大内中学校を1961年(昭和36)に卒業した1945年(昭和20)生まれの「終戦っ子」の人生を克明に追ったルポである。集団就職列車が初めて走ったのは1954年(昭和29)4月5日、中学卒業生622人を乗せ青森駅から21時間かけて上野駅に着いたのが始まりだ。その長い歴史に幕がおりたのは1975年3月。やはり青森発の臨時急行「八甲田」が1975年(昭和50)に岩手の中卒者358人を乗せて上野駅に着いたのが最後だ。以後、集団就職は行われていない。私は1949年(昭和24)に生まれた。中学生のころ、毎年3月末になると集団就職列車に乗る先輩や同級生を駅に見送りに行くのが慣例だった。高校進学できる自分の境遇を子供心にも「恵まれている」と強く意識した。それもこの集団就職列車見送りの儀式があったからだ。ネットで検索すればわかるのだが集団就職の資料は驚くほど少ない。あっても大学の先生たちの社会学的な論文がほとんどで、本書のような当事者の追跡レポートというのほとんどない。この本を書いた著者は、私と同年代で博多生まれの東京育ち。秋田県人の性向をデータで炙り出した『無重力の風土』(絶版)という話題本も書いた、70年代に秋田に赴任していた毎日新聞の記者である。

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