Vol.802 16年4月16日 週刊あんばい一本勝負 No.794


言葉は生きもの

4月9日 新刊『秋田の村に、移住しました。』が今日の日経新聞夕刊に紹介される予定だ。取材した記者から昨夜遅くメールがあった。日経は田舎ではあまりなじみのない新聞だが、その影響力は抜きんでて大きい。経営者たちは本をよく読むのだろう。だからこれは慶事なのだが、「夕刊」というのがひっかかる。地元紙の夕刊がなくなってから、どのくらいたつのだろう。生活の中の語彙から「夕刊」という言葉はと死語になって久しい。思わず新入社員に「夕刊はどこに行けば買えるの?」と訊いてしまった。コンビニには売っていないから秋田市にある日経の支局に直接行けば読めるのだろうか。けっきょくは本社から送られてくるのを待つしかないようだ。

4月10日 今日の山行は男鹿三山「お山かけ」。「お山かけ」というのは真山、本山、毛無山の三山を走破して一人前、という地元の謂れからきた行事用語。去年だったか、埼玉県庁の市民ランナー川内選手がここを一時間ちょっとで走破したことで話題になった。我々はゆっくりと五時間半かけて踏破。無事に大人になって帰ってきた。山行にはいつものモモヒキーズの年寄メンバーのほかに20代の女性二名も初参加。ヨレヨレ・オヤジたちのテンションもいつもより高めで笑い声の絶えない山行になった。カタクリは満開だったがフクジュソウは影が見えず(終わったのか)、シラネアオイはまだ早かった。

4月11日 先週は新入社員がインフルエンザで、いろんな予定が狂ってしまった。逆に言えば、新入社員とはいえ日々のルーチンがけっこう重要な役目を果たしているという証明でもある。おかげで週末の金曜日、何年かぶりに注文発送の梱包作業をやる羽目になった。さて、今週だが重要なアポは何も入っていない。いい機会なので外をフラフラしようかと思っている。でも最近は外泊に対して苦手意識が芽生えてきた。前は外泊なんて当然だったが、今は「日帰り」が基本だ。ホテルのベッドでは快適な睡眠が保証されない。よく眠れないとその日一日が楽しくない。睡眠こそライフサイクルの重要な核。年をとって自由になったら日本中を旅したい、なんていう輩もいるが、年をとればとるほど外には出たくなるものだ。これは年をとらないとわからない。

4月12日 忙しさは抜けた。自由にどこへ出かけても大丈夫ななのだが、あいもかわらず机の前に垂れ込めている。どこへも出かける気にならない。事務所にいて「仕事にならない仕事」をボソボソと片づけている。資料庫に入って意味もなく文章類をひらいたり閉じたり。資料をみていると、かならず「何か」を思い出し、しばらくそのことを追想し、時間があっという間に立ってしまう。本にするために集めた資料だが、九割は陽の目をみないまま眠っている。宝の山になり損ねたゴミの山だ。そのゴミがある日突然お宝に化けるから油断大敵だ。気になる文庫本があったのだが見つからない。ネットでユーズド(古本)を買ったほうが早い。でもその本には大切な個所にアンダーラインが引いてある。買いなおせばもう一度最初から読み直さなければならない。さて、どうしたものか。アンダーラインを引いた本は捨てられない。でもそれを探せなかったら元も子もない。う〜ん。

4月13日 春の飲み会や旅行の「予約確認」の連絡が増えてきた。ズルズルと予約を延ばしてきたこちらに非があるのだが、理由もある。94歳になる施設に入っている義母の体調がすぐれない。何があってもおかしくない状態がこのところずっと続いているのだ。身体に巨大ながんの塊を抱えながら90歳を超えて平常通り暮らしているというだけでも信じられない「肉体の神秘」だが、わずかな異変でもあれば、もうどちらに転んでおかしくない。以前から決まっている予定はそのままだが、新しい約束は「もしかして」というエキスキューズをつけることになりそうだ。「もうそろそろ」といわれてから何年も生き続ける老人もいるというが、そう楽観的な状況ではなさそうだ。

4月14日 プロ野球が始まったせいかDVD映画をみなくなった。どうのこうの言っても我々世代は野球が好きだ。夜の読書タイムも大変化に見舞われている。このところモーレツに「村上春樹ワールド」1色に読書が染まり始めている。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』がおもしろかったので、そこから一挙に『海辺のカフカ』『ダンス・ダンス・ダンス』『1Q84』と毎日彼の長編小説を読破中である。そうかこんな作家だったのか。いやはやおもしろい。たぶん夏が来る前に彼の全長編小説を読破することになりそうだ。ユーズドであらかたのき既刊文庫本はすでに買い込んで「備蓄」。よほど大きな「挫折」でもない限り本といえば村上春樹という状態が続きそうだ。

4月15日 言葉は生きものだ。時代とともにその姿を変えていく。だから「チョー」とか「マジ」とか、そんな言葉を使うことに抵抗はない。でも「学び」とか「「気づき」という動詞の名詞化した言葉はダメだ。違和感ばかりか嫌悪感すらある。動詞を名詞化して計量化したいのだろうか。名詞化すると実在感が増すのは確かだが、あざとさや小賢しさも倍増する。この2つの言葉を使った文章を目にすると続きを読む気が起きなくなる。こんな言葉を使う人間と友達になりたくない。手首に数珠のようなものを巻いている人間と同じだ。でも「走り」なんていうのはもうスポーツ界では定番の言葉だし、日常で使われている「ふれあい」なんていう言葉も、もともとは「ふれあう」という動詞を名詞化したものだ。「学び」も「気づき」も同じように当たり前の日本語になっていくんだろうな。ああ〜いやだ。
(あ)

No.794

学者は平気でウソをつく
(新潮新書)
和田秀樹

書名は扇情的で、出版社側の売らんかなの気持ちが露骨に出すぎている。でも読んでみると実にまじめで誠実感あふれる本だ。「学問」への根源的な問題提起があるし、学問の外にいる人たちの素朴な疑問にも丁寧に解説している。著者は精神科医だが、TVに出てくる出たがり医者とは違う。TVやメディアに対して批判的な位置をキープしているから説得力がある。気になる記述があった。降圧剤である「レセルピン」という薬について、当時(1970年代)、脳卒中多発地帯である秋田県でこの薬を多用し脳卒中を激減させたのだそうだ。がその反作用で自殺者が急増し、重篤な抑うつ症状を多数招く副作用が確認された。以後、この薬は使われることはなくなったという。自殺率日本一の秋田では、その原因を巡って今もいろんな議論が交わされているが、こんな事実は知らなかった。毎年、秋田県内のみでノーベル賞候補として話題になる遠藤章さんのコレステロールを下げる薬「スタチン」は欧米では心筋梗塞による死亡を大幅に減らしたが、実は日本ではほとんど効果が確認されていないのだそうだ。ノーベル賞が取れないのはこんなところに理由があるのだろうか。本を読んでいて突然「秋田」に関連したことが書かれているとメモをする癖がある。このメモを集めて「誰も知らない、意外な秋田」なんていう本をつくったら売れるだろうか。

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