Vol.775 15年10月10日 週刊あんばい一本勝負 No.767


秋は、カメムシと新米と栗駒の紅葉から

10月2日 東京4日目。メール送信がうまくいかない。秋田とは電話連絡だが、これもうまく繋がらずイライラ。今日は二ツ井で豪風関と能代市長の対談の日。ムック本のための対談だ。新入社員が担当しているのだが粗相なく進行できるか心配だ。事務所にはアルバイトのM君が留守番、彼ら若者に任せるしかない。夜は乃木坂・東京ミッドナイトタウンにあるホテルの45階で「京懐石とウイスキー」の食イベントに出席。同席したのがウイスキーの神様・輿水精一さんなので緊張する。それにしても京懐石のお料理が出るたびに、その料理に合ったウイスキーが出てくる。これには驚いた。メインの魚料理ではお猪口で燗酒。メインは日本酒かと思い口に含んだらウイスキー。白だしでウイスキーを割って燗をしたものだった。さすがの輿水さんも目を白黒。このイベントのため1日出張を延ばしたのは正解だった。豪風の対談はつつがなく終わったようだ。

10月3日 東京5日目。神保町周辺の古本屋や画材屋さん、銀座の伊東屋やギフトショップを回り、今度出す「おしゃれな写真集」の装丁資料を探し回る。これはというものになかなか出会えず、装丁の方向転換を強いられる。そんなこんなで東京の5日間が終了。朝早い新幹線に乗り込み北村薫『中野のお父さん』読了。秋田に着き、国際教養大での「美酒王国秋田」出版パーティに出席。ものすごい雷雨だったが会は和やかに進行。多くの酒蔵の社長さんたちとお会いし、8時ころに家に帰った。うまい具合に「きりたんぽ」の名店「お多福」からきりたんぽセットが届いていたので、体重のことも忘れ、夢中で「爆食い」。

10月4日 秋田に帰還しデスクワークに勤しんでいる。「勤しむ」とは「垂れ込める」と同義。ひたすら机の前のパソコンに向き合っている行為のことデス。出張中はこれができないのがつらい。それにしても昨夜の雷雨はすごかった。国際教養大構内のパーティルームは3方向がガラス張り。雷のたびにその3方の風景が闇の中に突然浮かび上がる。幻想的というか、ほとんどハリウッド映画か、ライトアップしたイベントを観ているような雰囲気。そういえば一昨日の乃木坂のホテル45階から見た夜景も素晴らしかった。東京の夜景が一望でき眼下には神宮の黒い森が広がり、隣の神宮球場のヤクルト優勝に熱狂する観客までがくっきりと見えた。2晩続けてすばらしい夜景を観られたわけだ。

10月5日 天の戸の杜氏Mさんから自家製「あきたこまち」が贈られてきた。市内の料理屋「お多福」のきりたんぽがも届いた。この2つが我が家に秋の到来を知らせてくれる。新米もきりたんぽも堪能。あとは冬を迎えるだけ、って気が早すぎるか。2日前、東京のホテルで着替えようとしたら、いきなりものすごいカメムシ臭。手に持ったパンツを放り投げてしまった。東京でカメムシ……2つは結びつかない。頭はパニックに。山に行くようになってカメムシとは仲の悪い友達関係。だからその臭いには敏感だ。秋田からパンツにカメムシをつけて移動してしまったのだろうか。パンツをはくときカメ公に触り、その瞬間に臭気攻撃を受けてしまったのだ。それとも東京のホテルにもカメムシはいるのだろうか。

10月6日 疑問が氷解した。東京ホテル・カメムシ事件は自宅の洗濯干し場で付いたパンツを払わずにそのまま収納したのが原因だった。やつは秋田市のネイティブ・カメムシだったのだ。もうひとつは左足親指の内出血。これは登山靴に敷く中敷きの爪の部分が変形していたため指に圧力をかけていた、と判明。おまけにもう一つ。プロ野球巨人軍の野球とばく事件で福田と連座した形の笠原将生投手。この投手、中継TVを見た時から「いやな男だなあ」と彼が出てくるとTVのスイッチを切るほど嫌いな人物。なぜなのかは自分でもよくわからない。生理的嫌悪感である。後出しジャンケンのような理屈だが、この男の立ち振る舞いに犯罪者の臭いを感じていたのだろうか。いろんな疑問が解けてすがすがしい朝。

10月7日 水曜日なのだがお休みをもらって栗駒縦走「紅葉」登山。今週末では遅すぎる、という理由で週日登山となった。朝4時起きだが帰ってきたのは6時。日が落ちるのがめっきり早くなった。去年は台風の影響で、栗駒には行っていない。リベンジというか2年目の正直。期待していたのだが今年は紅葉が早い。紅の部分がすっかり色を失ない、全体としてくすんだ印象。でも年を取ると豪華な色彩の錦衣をまとった山よりも、少し格落ちの落ち着いた山のほうが、それはそれで美しさを感じる。もうこれで今年の紅葉は見納めだ。

10月8日 栗駒縦走登山でピークから秣岳に向かう途中、左足親指の根元あたりがモーレツに痛くなり昼飯ものどが通らなくなった。どうにか下山して、仲間に足を診てもらったら即座に「魚の目」と断定されてしまった。この1か月間ぐらい、ずっとかすかな痛みがあった。今朝早く近所のT皮膚科へ。ペディという「魚の目」削り器で患部を削った。治療はこれだけだ。圧迫された患部が固く大きくなったら、また削りなさい、と医者はいう。てっきり液体窒素かなんかで根治治療してもらえると思っていたので拍子抜け。患部が直接靴底に当たらないように「中敷きをくりぬきなさい」ともいわれた。登山靴の中敷きってけっこう高いんだよなあ。

10月9日 皮膚科で削り取られた足指の「まめ」は魚の目ではなく「たこ」と判明。魚の目なら医者は削らず何らかの治療を施したはず、と知人に言われた。ネットで調べたが魚の目を治療もせずに削り取ることはありえない。お恥ずかしい。そうとわかったら現金なことに痛みも消えた。山から下りた後はまともに歩けないほど痛かったのに。それにしても何やかやと身辺はにぎやか。過労、痛風、魚の目騒動に突発的なトラブルもひっきりなし。こういうのもひっくるめて「忙しい」と騒いでいるのだが、仕事だけ抽出すると、そんなたいした仕事はしていないのだから情けない。月末にある年1回の健診に向け、もう2キロ体重を落とし体調管理を万全にしたい。穏やかな日々にならんことを。
(あ)

No.767

昭和残影――父のこと
(角川書店)
目黒考二

これまでの著者の作品とは異質の「父の青春」を追いかけたノンフィクションだ。目黒の父、亀治郎は寡黙で書物をこよなく愛し、八十二歳で物故している。戦前、非合法政治活動で投獄され、十九歳から六年余、獄中生活を送っている。父はなぜ政治運動に身を投じたのか。それが背中を追いかけるきっかけだった。若き父は何を考え昭和という時代を生きたのか。父は私たち家族を本当に愛していたのか。そこを出発点に近親者に取材し、膨大な資料から時代背景を読み、父の足跡を丁寧にたどる。終戦後、亀治郎は家を建てるために池袋に四十五坪の土地を手に入れる。その時の購入資金は四万円。うちの三万円余りを手持ちの辞書を売って調達している。辞典が土地に姿を変えたのである。さらに亀治郎は五十歳で勤めていた会社を辞め自宅で孔版印刷業を始める。印刷機は二十五万円(昭和34年段階)もしたのだが、その費用も「たった一冊の辞書」を売ってあがない、おつりまであったという。書物が何よりも輝いていた時代に生きた亀治郎は、それだけでも幸せな人生を送ったと言えるのかもしれない。

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