Vol.769 15年8月22日 週刊あんばい一本勝負 No.761


好事魔多し

8月15日 駅前ビルで開催されている写真展「ツキノワグマ」を観てきた。秋田市在住のアマチュアカメラマン加藤明見さんが秋田市仁別のクマたちを撮ったもの。秋田市郊外の里山で本当にこんな光景が繰り広げられているのか、にわかには現実味が持てないほど衝撃的な別世界。よく撮ったものだ。20年以上前、この加藤さんが撮ったハタハタ漁の写真に心動かされ「本にしませんか」と持ち掛けたことがあった。その時は先方の事情で実現には至らなかったが、会場で20年ぶりの再会を祝しあった。ハタハタからカモシカそしてツキノワグマと、表現者として加藤さんは進歩し続けている。彼の作品に共通しているのは動物たちへの愛だ。画面が明るく、深刻ぶらず、シャープながらもぬくもりが満ちている。

8月16日 年金だけでは暮らしていけず、早く死にたいと願う老人たちをルポした本を数冊読んだ。具体的に言うと『下流老人』と『老後破産』の2冊だが問題はNHKスペシャル取材班編『老後破産―長寿という悪夢』(新潮社)。編者も版元もビッグネームで、TV「NHKスペシャル」の書籍化というのだから文句のつけようがない。期待に胸膨らませて読みは始めたが、これが面白くなかった。番組をただ活字に移し替えただけで、深みもなければ、問題点がどこにあるのかもさっぱりわからない。同じような環境の人物が繰り返し出てくるだけで、登場人物にヴァリエーションがない。意外性も汎用性も普遍性も感じられなかった。NHKや新潮社のレヴェルを疑いたくなったが、本も競争がある。一刻も早く出して類似本に差をつけておきたかったのだろうか。こういう本を読むと昨今の「ノンフィクションの不在」を強く意識する。金と時間のかかるノンフィクションは、もうお金持ちの特権になりつつある。

8月17日 まだお盆休み中で、しかも日曜日だというのに午後から3つ立て続けに「打ち合わせ」。一人はうちの仕事をしていただいているデザイナー、あとの2人は現在制作中の本の著者で、お2人とも大学の先生だ。印刷所や取次や同業者が休んでいるこの時期、山登りの高度を稼ぐように、こっそり仕事をするのは昔から好きなアマノジャク。能力も才能もないから、人が休んでいるときに差を縮めたり引き離しておきたい。小心者特有の小賢しい知恵が働く。

8月18日 子供たちが夏休みに入るころから「職場訪問」の依頼が多くなる。今年は特に中学高校からの問い合わせが多かった。生活学習という言い方もするようだ。秋田では出版が珍しい職業なので、うちのような零細企業にも白羽の矢がたつ。例年と違って今年は小さな予定がいっぱい詰まっているため、子供たちのために半日開けることが難しくなってしまった。断り方が難しい。子供たちを傷つけないように、やんわりとこちらの事情を理解してもらう。

8月19日 毎年性懲りもなく書いているのだがトウモロコシが好き。今年も青森の印刷所から箱いっぱいの「嶽キミ」が送られてきた。早速ゆでてみると甘くて味が濃い。うまい、やった。いうことなし。実は去年は全くおいしくなかった。印刷所に正直その旨を言うと「長雨で不作のため育ちの悪いものしか出荷できなかった」とのこと。嶽キミのようなブランド物ですらダメな時はダメなのだ。先日、市民市場でオバちゃんが「このキミ、うまいのでまた買いに来た」と言っているのを横で聞いて同じものを買った。凡庸な味で腹立たしかった。あのオバちゃんは桜だったのかも。

8月20日 今日明日で仕事の大きな山を越す。1年半ぶりに更新する新刊案内、秋DMの制作、9月に出る2冊の新刊……これらに2か月近くずっと悪戦苦闘していたのだが、それも今週でほぼ終わる。うれしいし。少し休みたい気分だが、これからは冬に出す企画出版の撮影や折衝、打ち合わせといった新しい仕事が待っている。それまでのつかの間、一人でささやかに祝福でも上げよう、と思っていたのだが、タイミングよく今日の夜はモモヒキーズの「暑気払い宴会」。久しぶりにたっぷりうまい酒が飲めそうだ。

8月21日 NHKの番組でナレーターが「能ある鷹は爪隠す」ということわざを「難しい言葉ですねえ」と感嘆したように話していた。えっ、このことわざはもう現代では死語なの? とカミさんと見つめあってしまった。小中学生でも知っていると思っていた言葉が、「難しい」「意味が分からない」「古臭い」と一蹴される。どんどん時代に取り残されていく気分だ。とはいいながら最近、「好事魔多し」ということわざの「好事」は「こうず」ではなく「こうじ」が正しいことを知った。半世紀以上「こうず」としか読まないと思い込んでいたのだ。口に出して言っていたら怪訝な顔をされたかもしれない。でも中学生のころ確かに「こうず」と習った記憶があるのだが、辞書関係は圧倒的に「こうじ」。う〜ん記憶違いだったのか。
(あ)

No.761

シベリア抑留
(新潮選書)
長勢了治

 本書によれば「抑留」の犠牲者たちは戦争で死んだわけではない。あくまで戦争後の悲劇だ。だから「捕虜」ではなく「抑留」なのだ、と言う。
 敗戦後に拉致されソ連やモンゴル各地に抑留された日本の軍人や民間人は約70万人。彼らは「シベリア三重苦」と呼ばれる飢餓・重労働・酷寒(マロース)のなかで、約10万人と言われる犠牲者を出した。一般人抑留者はそれでも5年以内に帰国(ダモイ)できたが、11年間も監獄や収容所に拘禁された人たちもいた。その内実は「抑留」というよりも「強制連行」に近い。世界各国でも捕虜の管理は陸軍省というのが相場だが、シベリア抑留の場合、共産国家の弾圧機関といわれる内務省というのも象徴的だ。そのため待遇は囚人と同じ劣悪さで国際法の捕虜保護などは無視された。
 本書の大きな特徴は、「シベリア抑留」をヨーロッパとロシアがアジアに進出した500年という大きな流れの中に位置づけたことだろう。16世紀以降のロシアの東方進出、満州や北方四島での日本との接触、さらにロシア革命とソビエト共産主義の歴史的意味にまで遡る。シベリア抑留の悲劇を大航海時代から説き起こすことによって立体的に考察する。正しい歴史認識はそこからしか得られない、というのが著者のスタンスだ。著者はロシア語のエキスパートでもある。ロシア側の抑留資料にも目を通し、日本で私家本として出版された抑留者の体験記も渉猟し、本文に効果的に引用されている。

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