Vol.767 15年8月8日 週刊あんばい一本勝負 No.759


8月は事務所に籠城して穴暮らし

8月1日 ようやくPC基本ソフトを「8」にしたばかりなのに、昨日いきなり「10」になった。アルバイトのM君がやってくれたのだが、なるほど、「10」のほうが使いやすい。「8」になじまぬうちのヴァージョンアップで、それほど抵抗もなく移行できたのは不幸中の幸い。もうこれでPCの基本ソフトは永遠に無料になっていくのだろうか。そういう意味では画期的な出来事ともいえる。「10」の無料ダウンロードは今後のデジタルメディアの未来を占う重要な試金石になるのかも。ネット社会ではコンテンツに課金をするのは極めて難しい。はてしなく無料というビジネスモデルがこの「10」の無料化なのかな。今日から8月。土曜日だがこれから潟上市に本を届けに。真夏の果てしない行脚は続く。私の老後は遠い。

8月2日 リアル書店に行くことはほとんどない。本はネットで買う。ところが先日、用もないのに入ったコンビニの雑誌コーナーで『これでいいのか秋田県』というムックを衝動的買い。著者も版元名も聞いたことがない。表紙のデザインがヘタの域を超え下品なエロ本風、買うのに勇気がいった。でも、これが読むとんでみると至極まっとうなことを書いていた。短期間の取材で、縁もゆかりもない地方を、これだけ正確に(風聞も多いが)、書けるというのはすごい。いや実は秋田のネイティブな人間がゴーストしている可能性もなくはないのだが、これだけ辛口の視座で全体像を見渡せるバランス感覚のある論客は県内にはいそうでいない。問題の抽出力が優れている。1300円の雑誌だったが「お買い得品」。コンビニは侮れない。

8月3日 不明なことがあると、あの人に訊いてみようと思って、「あっ、もういないんだ」。そんなことが多くなった。多くのことを教えてくれた先輩たちが鬼籍に入り、今は若い人たちに「訊かれる」立場に。なのに何もわからない。知識はあっても経験がない。言葉が薄っぺらだ。特に藤原優太郎さんの不在は堪える。生前、山でわからないことがあると、すぐに相談した。わからなければ一緒に考えてくれた。山の故事来歴や自然の不思議について、資料だけではどうにもならないことについて、あれこれ憶測を交えて語り合ったのは至福の時間だった。自分の中に「死者たちの声」が徐々に大きなスペースを占めるようになっていく。死者とともに生きていくのが自然の摂理なのかも。8月は死者たちの季節。

8月4日 映画も舞台も見たことがないのに大好きな「芸人」がいる。古川ロッパだ。なぜか、この人の書く文章が大好きだ。全集物は書斎からすべて処分したが『古川ロッパ昭和日記』全4巻だけは今も大事にとってある。『苦笑風呂』という単行本がある。この書名のユニークさ、内容も噴き出すほどの面白さだ。ロッパはチャキチャキの東京っ子で無類のグルメ。でも実はソバも寿司もダメ。和食がきらいでコッテリ洋食好きのウイスキー派。1903年生まれだから、生きていれば100歳を超えている。世代的には、喜劇王としての活躍は知る由もない。男爵家の六男に生まれ、文春の「映画」編集者から喜劇役者に転身し、エノケンとともに一時代を築いた。なくなったのが1961年だから、50代で鬼籍に入ったことになる。読む本がなくなるとロッパの単行本を引っ張り出し再読する。何度読んでも面白い。

8月5日 公文書館や農業科学館に複写しなければいけない資料がある。でもフットワーク軽く出かけて複写してくれるカメラマンがいない。いずれ印刷するものだからPCスキャンするのが手っ取り早いのでは、という意見もある。でもスキャンでは対応できない印刷物もある。どうしても「人力」というかカメラマンの技術が必要になる。スキャンは誰にでもできるが、カメラマンを半日拘束するにはそれなりの費用が発生する。昔に比べればずいぶん費用(撮影料)は安くなったとはいえ、曲がりなりにも職人技術の対価。カメラマンのプライドもある。スキャンが一般化するとカメラマンの仕事は制限されていく。そうなるとカメラマンのなり手がなくなり需要も先細りする。出版社や編集者にしたところで立場は似たようなものだ。昔は身近に余るほどカメラマンがいたのに、いつのまにか淘汰され消えていった。スキャンかカメラマンか、悩ましい。

8月6日 暑い。極力外に出ないようにして事務所で1日中ダラダラ。打ち合わせは1件。Sシェフからナスガッコの差し入れ。夏といえばナスガッコとトウモロコシだ。散歩もこの時期は夕食後、外が暗みがかってきてからでなければ危険だ。それにしても1日中2階シャチョー室でノラクラしているというのも一昔前なら考えられなかった。西日がもろに差し込み、室温が40度近くまで上がる「危険部屋」だったからだ。遮熱二重窓にし、朝から窓を開け放ち、午後からはクーラーを入れっぱなし。この戦術でどうにか人間が棲めるように改造した。人が住み、風を通すと熱気もこもりにくくなる。一昔前の灼熱地獄が嘘のように風わたる居心地のいい空間になった。一日中、この部屋でダラダラ過ごしても、ノーブロブレム。

8月7日 まとまった休みが取れないのは毎日なにかしらのアポが入るため。仕事もあれば個人的な用事もある。「事務所に伺います」と言われると、その日はもう何があっても「居る」必要がある。2泊3日の小旅行など最近は遠い日の花火だ(ちなみにこの名コピーは元資生堂の小野田隆雄?)。打ち合わせはひっきりなしだが幸い体調はいい。誰からももらった覚えはないが元気ダ。ちょっと気になって「元気」という言葉の語源をしらべたら意外な事実がわかった。中国由来の言葉で、もともと国家の活力などを表す政治用語なのだそうだ。昔は個人の健康などに対しては「減気」と言っていた。「病気が治る」という意味だ。これが政治用語の元気と混同され、いつのまにか元気のほうに統一されるようになった。面白いなあ。もともとは減気だったんですよ、ご同輩。
(あ)

No.759

足軽目付犯科帳
(中公新書)
高橋義夫

 サブタイトルに「近世酒田湊の事件簿」とある。書名だけではお堅い中公新書とは思われないのだが、内容は原典を多く引用した、史実にのっとった歴史読本だ。足軽目付という職制は、現代の行政機構にあてはめれば巡査長と市の職員を兼ねたようなもの。この目付が記録した『御用帳』を読み解いたのが本書である。秋田と近い地域で起きた事柄なので親近感がある。意外な新発見も多くあった(自分が知らなかっただけなのだが)。どさまわりの「どさ」とは奥州なまりで「東北人」を意味する言葉、というのは知らなかった。河村瑞賢が開いた西回り航路(いわゆる北前船のルーツ)が酒田を起点とする航路であることも、江戸の飢饉が発端だったことも初めて知った。酒田から出荷される天領地の年貢米(御城米)を江戸まで廻送するルートは、業者によって一部西回り航路と陸路の福島(阿武隈河口の荒浜そこからは船)経由の二つがあった。この陸路の効率が悪く、考えられたのが西回り航路だ。当時の良質米は圧倒的に最上地方、そのため瑞賢の航路開拓は幕府にとって大きなものだった。さらに幕末動乱の中で庄内藩酒井家は13万8千石から2万7千石加増されている。江戸市中見回りの功績に寄ったもの。江戸取締りの役割は秋田藩にも要請があったが、なぜか秋田藩は辞退を申し入れている。このころから庄内藩は本間家をスポンサーにプロイセンとの独自の関係を築き、戊辰戦争の武器の調達もプロイセンを通じて行っている。

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