Vol.761 15年6月27日 週刊あんばい一本勝負 No.753


暑さとともに忙しくなる6月

6月20日 土曜日はもっぱら「雑用」。週日出来なかったこと、やりかけの仕事、時間がくうもの、個人的用事などは土曜日に集中してこなす。なかでも最初にやるのが翌日の登山の準備だ。道具類をパッキングして弁当の具材を用意する。慣れてきたので時間はかからなくなったが、山の大きさや険しさで準備の内容が変わる。忘れ物が一番怖いので、慎重にパッキング。翌朝は早いので散歩も早めに済ませる。山行後の入浴や着替えもチェックし早々と寝床に着く。これがいつもの土曜日のルーチンだ。だから土曜日だからといって酒を飲んだり、外出することはない。1週間で一番まじめに動き回っているのが土曜日なのだ。

6月21日 ある人物ががんの診断を受けた。どの程度のものなのか、結論まではまだ時間がかかるようだ。山行は最大の難関「神室山」だった。去年は情けないことに8合目手前で痙攣リタイア、キヌガサソウを楽しみにしていた人たちをがっかりさせてしまった。今回はそのがんになった人物に「願をかけ」ながら登った。「どうぞ悪い結果が出ませんように」と念じながら登り続けたら、体に不調の兆しは見えず8時間半の長丁場を踏破できた。自分のことでなく他者を思いやることで、自分の肉体的欠陥を超えることができたのかもしれない。それにしても神室山はタフな山。秋田県登山口からでは最もきつい山といっても過言ではない。こんな山だからこそ、日ごろ不信心なくせに、願をかけてみよう、などと殊勝なことを思い立ったのだろう。

6月22日 神室山から一夜明けた。8時間熟睡し爽快な目覚めだ。達成感が半端ではない。自分の体力ではギリギリ、いや丁半どちらに転んでもおかしくないハードなレヴェルの山だった。タフな山という形容が一番ぴったりなのだ。その難関を問題なく踏破できた満足感が、身体中に充満し筋肉痛も逆に心地よい。頭も身体もまだ壮大な自然の余韻に包まれている。でも、ここは気持ちを切り替えて仕事だ。6月になったら急にやることが出てきた。残念だが心身から自然の匂いを消し、パソコンと向き合わなければならない。炎上したパソコンは無事なおったが、肝心のハードデスクが壊れていた。まったくもうガッカリだ。

6月23日 昨日も今日も窓を開けっ放しで風を感じながら仕事をしている。いい風が吹いている。シャチョー室は2階の西日モロザシ部屋で、午後からは室温が30度を越える地獄部屋。それでもめげずに毎日外の風を入れていると、昔のように灼熱にいら立つことも少なくなった。慣れなのか、自然現象の変化で室温が下がったのか、よくわからない。はっきりしているのは年と共に冷房がきつくなったこと。最近は冷房を入れたとたん両肩にリューマチ風の痛みがある。ふだんは何ともないのに冷房を入れたとたん痛みだすからやっかいだ。勝手に冷房病と名付けているが、なにか解消法はないものだろうか。痩せたとはいえ依然として暑さにはめっぽう弱い。冷房がない夏はムリ。両肩にパットでも入れてみようか。

6月24日 著者から「ゲラを回章している」というメールをいただいた。恥ずかしながら「回章」という言葉を知らなかった。文字化けかと思って辞書を引いて冷や汗。毎日辞書を引く癖をつけて正解だった。先日はBS国際ニュースで「ミサではなく礼拝でした」とアナウンサーがお詫び。これはまあわかる。私たちの業界では最近、作家や編集者を「さん」づけする。これには猛烈な違和感がある。もともと漫画家が「編集さん」「作家さん」と呼び慣わしていた20年以上前からだ。それが活字の世界にも浸透し「さん」付けが当たり前になった。「さん」が付くと軽くて小馬鹿にした響きが伴い、上から目線であしらわれている気がする。最新の業界誌にある人がこの「作家さん」に不快感がある、と書いていた。やっぱり同じことを考えていたんだ。個人的には「編集さん」なんていうやつとは仕事したくない。でも言葉は時代とともに変化する。もう「ら抜き」は既成事実で、だれにも止められないように。

6月25日 夕食後めずらしく外出。街中で開催されたある講演会を聞きに行ってきた。終わってからひとり川反まで歩いて、なじみのバーに。静かで大人の雰囲気漂う店で、いつも閑散としているが、その静けさもお気に入り。マスターの風格というか威厳というのがすごいオーラを放ち、それが店の品格を担保している。ところが今夜は満席でちょっと雰囲気が違った。かろうじて隅っこに席を確保したのだが、次から次に客がやってくる。週末でもない。どこかでお祭りでもあったのだろうか。カウンターに見慣れぬバーテンダーも一人増えていた。安くはないし気軽に若者が入れる店でもない。なのに老若男女でギュウギュウなのだ。ウイスキーがブームというが、これがその現象なのか。満席だったが、あいかわらずマスターは不機嫌なまま、もくもくとアイスピックで氷を割り続けていた。

6月26日 今日は朝から男鹿出張。まだ頭はボーっとしている。心と体がバラバラだ。こんな時にミスが起きる。慎重に行動しなければ。昨日はあの暑さの中、県展を見てきた。いつまでも隠しておくのも不自然なので公表してしまうが、県展写真部門に「こっそり」作品を応募、運よく入選した。その自分の作品を見に行ってきたのだが、山仲間のモモヒキーズNさんは彫刻で最高賞、Sシェフは陶芸で連続入選。彼らの作品は、片手間で撮ったわがスナップ写真とはレベルが違った。私の場合はまあ今年限定のお遊び、もう応募したりすることはない。65歳、記念のワンショットである。2万円もしない山用オンボロ・デジカメで撮った作品だが、興味ある方は県展までどうぞ。
(あ)

No.753

登山と日本人
(角川ソフィア文庫)
小泉武栄

 山の本にはほとんど興味がない。民俗的な視点や歴史、動物がらみだと少しは食指が動く。ノウハウ本はどれもこれも決まりきった言説にあふれていて、つまらない。山の小説やドキュメンタリーも予定調和的で感動を無理強いするものが多いような気がする。本書は全くの別物。まずは目次をみて驚く。ほとんど歴史の本といっていいほどだ。これぞ読みたかった本だ。日本における登山の始まり、山岳信仰の由来、日本史の中の登山、仏教やキリスト教と山登りの関係を、時間軸に沿って論じている。縄文時代、動物のいない高山にも矢じりが発見されている。当時から古代人は山と親和性が高かったことが証明されている。その一方、弥生時代になると農業のために人々は山から離れ、川辺に住むようになる。山は「田の神」として信仰の対象になり、恐れ多いものに変わっていく。仏教やキリスト教と登山の関係も興味深い。本筋とは関係ないが本書で仏様にもランクがあることを知った。一番偉いのは「如来」。次は「菩薩」、3番目が「明王」で最後が「天」(帝釈天や梵天)だ。ランクの起源はインドからのもの。さらに宗教民俗学の世界では日本の山岳信仰の始まりを火山系、水分系(みくまり)、葬所系の3つに分けている。火山は噴火への畏怖、水分は「水源の山」に対する畏敬。葬所は人が死ぬと霊は高いところに行くことから。人が最後に還っていく場所が山という考えだ。

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