Vol.759 15年6月13日 週刊あんばい一本勝負 No.751


知らなかったのはオレだけ?

6月6日 土曜日ですが仕事。10時からデザイナーAさんと事務所で打ち合わせ。秋田県酒造組合と国際教養大学がタッグを組んだ「酒の本」を作ることになりそうで、その準備だ。来週は能代市の料理本の入札がある。新入社員にとっては初めての「外」仕事だ。出版社と入札というのも妙な組み合わせだが、税金が使われる仕事には入札が必須。慣れない仕事だが全力で取り組むつもりだが、慣れない「外仕事」ばかりだとストレスが溜まる。通常の本作りのように、こっちで勝手に企画を立て、こちらのイニシアチブで、著者と簡単なやり取りだけでできてしまう仕事ではない。「外」というのは外部の依頼によって発生する仕事だ。新入社員にとってはいい経験だが、けっこうくたびれ、神経するへらす仕事でもある。たまにはこんな刺激があったほうが頭の老化防止には効果的なのかも。

6月7日 今日は岩手県西和賀町(旧沢内村)にある高下岳(1322m)。和賀岳と同じ登山口で高下分岐からそれぞれの峰に分かれていく。和賀岳と聞けば「遠くてしんどい上級者の山」というイメージだが、登ってみるとそうでもない。秋田側から登山口までの交通アプローチが大変なので、そう表現されるのだろう。岩手側の人たちはまるで秋田市の太平山と同じような感じで一人で気軽に登っている。高下岳もその和賀と同じような山だ。最初の1.5キロだけが急坂で、あとは稜線歩きのような穏やかで歩きやすい山道が続く。その間ずっと周辺の「絶景」を堪能できる。北東北の名峰や秋田県側の山々まで360度眺望できるのだから穴場スポットどころの話ではない。好天の中、往復7時間余の山歩きだったが、朝3時半起きだけは何年たっても慣れることができない。

6月8日 その昔、ブラジル日本人移民は「ナーボ」(大根)と小馬鹿にされた。外国人は大根を「ジャパニーズ・ラディッシュ」という。だから大根はてっきり日本原産種の野菜だと思っていた。鎌倉時代にいっきょに普及した外来種なのだそうだ。調べてみると古代から日本原産野菜というのは七種しかない。その七種というのが、フキ、セリ、ウド、ワサビ、ジュンサイ、ゼンマイ、ワラビ。毎週山で見かけ採って食っているものばかりだ。山菜を見ると東北人は異常な執着でクマをも恐れない。これは縄文時代からの先祖たちの血がなせる業、という説もあながち間違っていないのかもしれない。このところ毎日食卓に上がっていたワラビの季節が終わった。と思ったら今度はタケノコの季節だ。山に登っていてもタケノコに夢中で集中力はいちじるしくそがれる。こんな時は事故が怖いが、誰もタケノコの魅力に勝てない。行く山の「選定基準」もワラビからタケノコの有無に偏っていく。

6月9日 在庫がほとんどなくなった本を愛読者専用の「残部僅少本」としてHPやDMで告知販売している。これが好評で、すぐに売り切れてしまう。2,3部しかない本で、かつ市場流通していないから当然だが、2部の本を売るために、その本のデータや画像を作る必要がある。コストとしては赤字だ。赤字だが倉庫に数冊だけ永遠に残って忘れられていく本というのは不憫だ。売り切れるとすがすがしい気分にもなる。どこか本の葬儀を出しているような気持ちもないわけではない。

6月10日 DM注文もひと段落。毎回注文ピークの時期が短くなっている。DMを出してもなんの注文も来ない日が来るのだろうか。ところで今週末は山行も休みだ。少し疲れている。1週休んで再来週のハイライト「神室山」に備えたい。週末はいつものように雑用ラッシュだ。歯医者通いは今週で決着がつくが、メールで連絡を取っている何人かの人たちと音信不通で前に進まない案件が3つほど。どうしてメールが通じないのか、今日はその原因チェックで結構な時間がとられそうだ。来月刊行予定の本は3冊。その編集作業も頭が痛いものばかり。やっぱり週末も休めなさそうだ。

6月11日 気鋭の社会学者といっていいだろう。売出し中の岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日新聞出版)に「アチック」という単語が出てきた。アチックとは「屋根裏」。アチック・ミューゼアムは日本常民文化研究所のことだ。日本資本主義の父といわれる渋澤榮一の孫の渋澤敬三が設立した民俗学の「聖地」だ。何冊かそこ所蔵の秋田関連資料を復刻出版したことがある。仕事上も個人的にも興味尽きない研究所だ。敬三の自宅の屋根裏で開館した民俗博物館なのでこんな名前がついたものらしい。ところで岸政彦だ。前作『街の人生』(勁草書房)はゲイやホームレス、風俗嬢や摂食障害の人などの聞き書きだった。今回の新作はその聞き書き現場の舞台裏をエッセイでつづったもの。「解釈できない出来事」をめぐる思索の書でもある。劇的なことや派手なエピソードは皆無だが、読み進めるうちに中毒のように言葉が体をむしばんでいく。不思議な余韻のある本だ。

6月12日 長く生きていても世の中知らないことばかり。外に出るといたるところで仏像に遭遇する。若いころと違って仏像にも人並みに興味をひかれる年になったのだろう。あの仏様にも序列がある、ということは知らなかった。大乗仏教では仏様のランクは4つ。最上位が「如来」。大日や薬師などの名前の後にくっついているやつだ。次が「菩薩」で弥勒や地蔵、日光などの後に使われる。3番目は「明王」で不動や孔雀などの後に続く。最後が「天」で梵天や帝釈天といった具合に使われる。ランク付けの起源はインドにまでさかのぼり、最高位の「如来」は悟りを開いた人のこと。即身成仏とはミイラになることだと思っていたら、大日如来と一体になり悟りの境地に達することをいうのだそうだ。あれっ、知らなかったのは、オレだけ。みんな知ってた?
(あ)

No.751

自然をつかむ7話
(岩波ジュニア新書)
木村龍治

 文系のぼんくら頭で読んでも面白い自然科学エッセイだ。分子生物学者でエッセイストの福岡伸一さんと似ているようで、ちょっと毛色が違う。一世紀前の自然科学者である寺田寅彦を意識した本の構成になっている。「七話」の内訳が面白い。奇術、豆腐、花火、映画、生態系、茶の湯、海……理系の本とはとても思えない目次ラインナップだ。この辺からしてすでに日常身辺から自然科学の深淵に読者を導いた寺田の影響を受けているといっていいのかも。個人的に興味ひかれたのは「海」の項。海の水はなぜしょっぱいのか、知ってましたか。この年になるまで海の底には巨大な塩の岩山があり、そこから溶け出した塩分のためにしょっぱいと思っていた。これは見事に外れ。海の塩分は意外にも「川」に微妙に含まれる塩分が海で堆積したためだった。長い目で見ると、川から海に入る水の量と、海面から蒸発する水の量は同じ。そのとき蒸発するのは水の分子で塩の分子は蒸発しない。一度海に入った塩は何億年でも海水にとけたままの状態になっている。そうだったのか。惜しむらくは本書の最初の「まえがき」で1944年に芥川賞をとった奥泉光の話が出てくるが、1994年の間違い。奥泉さんはまだ現役バリバリの作家です。

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