Vol.758 15年6月6日 週刊あんばい一本勝負 No.750


衣替え、初夏の風に産直本

5月30日 暑さにぐったりしながらも衣替え終了。すべて夏モードに。半袖の季節がやってきた。汗っかきだが山歩きをするようになってから汗の量は格段に減った。衣替えついでメガネも替えた。仙台のJINSで買ったものだが、もう細身のメガネは時代遅れ、といわれ昔風のぶっとい黒縁メガネに逆戻り。本当にこれでいいのか不安を隠せない。暑くなって脂肪がつきにくいのか体重も少しずつ減少中。これを夏バテという人もいるが私の場合はダイエット。お酒はもっぱらウヰスキーの水割り、朝のコーヒーも近くのコンビニからテイクアウト。古い衣を脱ぎ捨てるように、わが日常も細部から少しずつ変化が起きている。最近は衣替えのたびに大量の古い衣類を捨てる。物を捨てられないタイプだが、この年になると「プラス(ため込む)」よりも「マイナス(捨てる)」で生きていくのが自然。あと何年衣替えできるだろうか。

5月31日 前夜からの雨。この程度なら問題なく決行である。仙岩峠の真上にある貝吹岳は1000b弱の高い山だが、昔から岩手と秋田をつなぐ街道の山だ。レインウエアーに長靴での登山になったが、雨の山もまた趣きがある。事故は下山中に起きた。急坂で左足のレインウエアーの裾が木の根っこに引っ掛かり身体が空中に放り出された。1回転して谷側にたたきつけられ、メガネは飛び、左肩とひざを強打。仲間たちはタケノコ採りに夢中で先頭を歩いていた。誰にも見られなかったのは幸いだった。高く空中に放り投げられたので、見られれば大事故と大騒ぎになっていた。それほど見事に「飛んだ」のだが、歩くのに支障はない。裾は鋭利な刃物で切り裂かれたように破けていた。下山して身体をチェック、左ひざと左腕から出血、が痛みはない。絆創膏を張り、温泉に入り帰宅。パンツを長靴の中にたくし込まず、かぶせていたのが原因だ。とすれば登山靴でも同じく起こった事故だが、長靴の場合は裾を靴の中にたくし込んでいれば事故は起こらなかった。敗因はそこにある。猛省。

6月1日 今日から6月だ。ものすごいスピードで墓場に向かう特急列車に乗っている。朝起きたら昨日の下山空中散歩で左半身に痛みがある。あれだけ飛んでしまうと無傷とはいかない。ところで、このところ2冊続けて面白い本と出あった。『私と、妻と、妻の犬』(新潮社)はノンフィクションライター杉山隆男の私小説。不倫で火宅と化した夫婦と犬の物語だ。夫婦の危機を描いたものなのに犬が加わると家族の物語になるから不思議だ。もう1冊は『登山と日本人』(角川ソフィア文庫)。スポーツとしての登山ではなく山岳信仰や暮らしの中の山の歴史や意味を知るには絶好の読み物だ。縄文と弥生で日本人にとって「山」の意味は激変する、なんて初耳だ。日本史の中の登山の意味をひも解いてくれるこんな本を待ち望んでいた。それにしてもこの本、270ページの文庫本だが定価は880円(税別)。講談社学術文芸文庫並みの値段。その価値はある本だから文句はないが、これから文庫はどんどん高くなっていくのだろう。1500円の文庫本が当たり前の時代はすぐそこまで来ている。

6月2日 歯医者通いが続いている。上の2本の歯がダメになり「差し替え中」。通うといっても1週間に1回治療が歯科医院側のルール。最低1週間は間を置く。そうしないと早く治そうと毎日通ってくる客がいるからだろう。医者は嫌いだが歯医者は嫌いではない。もう何年も通う手慣れた常連客なのだ。歯の治療は痛くない。医療技術は昔とは比べ物にならないほど進歩している。痛い場合は事前に「ちょっと痛いかもしれません」と医師のエキスキューズがはいる。それでもあのドリルでギーギーガーガーやられると不安で身が細る思いだ。それは今も昔も変わらない。治療が終わると背中に汗をかいている。いつドリルが神経に触るか恐怖心はなかなかぬぐえない。歯医者通いのおかげで65歳を過ぎても入れ歯ではなく自分の歯でものを食べられているのはありがたい。

6月3日 DMが読者のもとに届き始めたようだ。昨夜からポツポツと注文が入りはじめた。書店が姿を消し、図書館で本を読む人が増え、知識はネットからという急速な本離れ状況が進む中、「産直」で本を売る意味と意義は年々大きくなっている。読者と出版社が直接つながる形は流通の一形態というより、本と出あうための「本流」になる日も遠くない。どれだけの数の良質の読者を持っているか、それが出版社の盛衰を決める時代がすぐそこまで来ている。とはいってもこの産直、けっこうコストがかかる。DMの制作、印刷費、郵送料は売り上げの半分以上を占める。書店が消え、取次が機能しなくなっても、読者さえいれば出版社は生き残れる。そんなことを信じて、今日も老骨にムチ打って産直仕事に向き合っている。

6月4日 半袖半パンで仕事をした次の日は長袖にブレザー。10度近くも温度差のある日々の体調管理はナーバスになる。暑くても冷たいものは飲まない。寒いときはためらわずモモヒキをはく。この10年、大きな病を得ずに過ごせたのは毎朝飲む「黒酢」の効果もある。東日本の人は酢を食べる習慣が薄い。私も小さなころから苦手だった。そこで意識して酢を飲むようになった。グレープフルーツジュースで割って飲むのだが、晩年父親は酢卵をよく食べていた。あんなにデブでも長生きできたのは酢卵のおかげ、と母親がよく言っていた。健康食品に対しては不信感のほうが強いのだが、酢だけは別。自分からは食べようとしない「栄養素」を意識的に毎朝身体の中に取り込んでいる。信じる者は救われる。

6月5日 よほどの人生の難問でない限り身辺で起きている「謎」の正体は調べると初歩的な理解を得ることまでは可能だ。でもいくら考えてもわからないこともある。うちの近所の寿司屋はなぜ潰れないのか、というのもそのひとつ。ほとんど客が入っていない店でも何十年と営業を続けている。手形鉄橋沿いには昔から営業している寿司屋が8軒もある。交差する金横線のロードサイドには全国チェーンの回転ずし屋が同じくらい乱立状態だ。広面地区だけでこうだ。市内の全寿司屋の半分が広面にあると思いたくなるほどだが、これで小さな個人営業の寿司屋がつぶれないのは、どんなからくり故なのか。余計なお世話といわれそうだが、まじめに考えると夜も寝られない。広面には個人病院も多い。近くに大学病院があるせいだろう。これは分かりやすいのだが病院も増えるだけでなくちゃんと淘汰されている。けっこう厳しい世界のようだ。少なくとも寿司屋よりは。
(あ)

No.750

変わらないために変わり続ける
(文藝春秋)
福岡伸一

 最近著者をテレビで見かけないと思ったら13年から15年春までNYのロックフェラー大学に2度目の留学していた。本書はそのニューヨーク滞在時期に書かれたエッセイ集。『生物と無生物のあいだ』は文系の才覚ある人の手によって理系の面白さの真髄を伝えた、画期的な名著だった。本書もその延長線上にある。テーマはより身辺雑記風だが、あいかわらず、わかりやすく理科や科学を解説してくれる分子生物学者の今風随想である。特に興味をひいたのが「記憶は遺伝するか」の項。キリンの首はなぜ長いのか。少年時代、私たちが生物の授業で学んだ「獲得形質」(ラマルク説)は全くの誤りであり、キリンの首が長いのは「あくまで突然変異」だそうだ。キリンの学習の成果や鍛錬や努力の結果ではない。というのも記憶は次世代に継承されない、というのが最新のDNA研究から判明した結論なのだ。だから東大卒同士の両親からは優秀な子が生まれる、ということも科学的にはあり得ない。分子生物学的には証明できない事柄に属するものだそうだ。本書を読んで初めて知ったことがある。ウナギを食べる「土用」の起源だ。土用とは古代中国の自然哲学五行(木、火、土、金、土)に由来し、季節の変わり目の「立」(りつ)の手前18日間のこと。このとき「土」の気が盛んになり、土木作業や土に関する殺生を避け、土を休ませた、という農耕思想だそうだ。これは全く科学や生物とは関係ない。

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