Vol.748 15年3月28日 週刊あんばい一本勝負 No.740


手帳は「あきた県民手帳」で充分です

3月21日 出版依頼は少なくなったとはいえ週に2,3本はいる。そのほとんどがいろんな事情で「不成立」に終わる。経済的な問題もあれば、原稿に問題がありすぎるケースもある。こちらも長くやっているのでハードルをかなり高めにしているせいもあるのかもしれない。つい最近、ものすごい出版依頼があった。「自分の本をそちらの出版社で出してやるが、そのまえに10万円を貸してほしい」というもの。もちろん見も知らぬ県外の方だ。ちょっとヘンな人系なら無視すればいいのだが、けっこうまじめな文面で当たり前のように企画説明をした後に借金を切りだしている。学歴や職業をみても「普通」の人。驚くよりも笑ってしまったが、すぐに「うちのような零細出版社では先生のご要望にお応えできません」と丁寧に御断りの返信をした。以前に本のチラシを観て(本を読まず)延々と自説を展開してきた女性もいた。なんだか出版の世界は自分の理解の外でまわりはじめている。

3月22日 毎週山に入るということは毎週温泉に入るということと同義だ。山の後は必ず近場の日帰り温泉に立ち寄る。年間50座登れば50湯に入っている勘定だ。だから県内の温泉はほぼ入りつくした。温泉に行くたびに思うのは、よくもこれだけ人がいるもんだという驚き。路上では人っこ一人見かけない村でも温泉にはジジババたちがあふれている。高齢者はことごとく温泉に行っているから、町では見かけないのだ。温泉の脱衣所はいつも満杯で、隣の道の駅は人であふれている。昔よくあった農協主催の農閑期温泉旅行はまだやっているのだろうか。これだけ近場に温泉があると、わざわざ遠くまで出かける気が失せるのではないだろうか。これは老婆心か。

3月23日 昨日は横手市にある保呂羽山。高度が上がるにしたがい雪がなくなっていく。ちょっと不思議な現象だが、低山では陽にさらされる山頂部のほうが早く雪が溶けてしまうのだろう。山頂直下に雪割草の群落があった。毎年、春を告げるこの花は、確か男鹿の山で初見というのが定番だったはず。男鹿三山お山掛けは来月20日ころに登る予定だ。ということは一カ月も早く雪割草を観ることができたわけだ。雪山の中で見つけた雪割草はいわく言い難いインパクトがあった。お前、誰にも言わず、こんなところに隠れていたの、という感じの眼福でした。

3月24日 天ぷらが好きなのだが、蕎麦同様、秋田市内には天ぷらを食べさせる店がない。蕎麦も天ぷらも都会の食べ物だからだろうか。こうなると自分でつくるしか手はない。鳥の唐揚げや焼き物は私の担当だが、こと天ぷらに関してはほとんど失敗の連続で、まるで信用がない。そのうえ「台所が汚れる」とカミさんは天ぷらが嫌い。それでもうまい天ぷらが食いたい。そう思い続けていたのだが救世主が現れた。またしてもSシェフである。要諦である温度管理と「油の表面積の半分しか具を入れない」という2つの具体的な指示をもらい挑戦。タラの芽、フキノトウ、シイタケ、レンコンの4種を揚げたのだが、これが……大成功。カリッと衣が仕上がり、なかはジューシーでほっこりの最高の出来。好きな具はサツマイモに玉ねぎだ。次回はそれに挑戦してみよう。

3月25日 昭和5年に制定された「秋田県民歌」のことを調べていたら、楽譜に作詞・倉田政嗣「修正・高野辰之」とあった。作曲の成田為三は県民になじみのビッグネームだが、まさか同じ場所に「高野辰之」という意外な名前が併記されているとは知らなかった。もしかしたら知らなかったのは私だけ? 高野は1876年(明治9)長野県生まれ。東京帝大を卒業後、作詞家としてたくさんの唱歌を作った人だ。その代表曲が「故郷」だ。「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川」のあの歌をつくった人だ。他にも「紅葉」や「春の小川」といった唱歌も高野の手になるものだ。当時の日本を代表する作詞家だが、お国自慢の好きな秋田県民から高野に関する自慢話は聞いたことがない。「修正」というのがよくわからない。これは歌の権威を高めるための有名税を高野に払っただけ、ということなのだろうか。

3月26日 横手城の城代は伊達盛重という名前だ。名前からもわかるように仙台の独眼竜こと伊達政宗の叔父だった人だ。秋田に転封される前の常陸国の佐竹氏は、手がつけられない暴れん坊だった政宗に手を焼き敵対関係にあった(親戚でもあったのだが)。伊達に攻撃され、やむなく近くの佐竹に逃亡した武将も少なくない。伊達盛重もその一人だ。もともと豊臣寄りの佐竹と徳川寄りの伊達政宗だから簡単に手は結べない。その伊達の親族がなぜか佐竹氏の横手城代にすんなりと収まった顛末が『政宗が殺せなかった男』(現代書館)に詳しい。書いたのは仙台の郷土史家で歯医者さん。佐竹が転封された時、徳川家康は石高すら告げなかった。これは有名な話だが、佐竹が自藩の石高を知らされたのは転封から62年後のこと。もう佐竹は2代目の時代だった。

3月27日 ここ5,6年、「ほぼ日手帳」を使っていたのだが、今年から「あきた県民手帳」に替えた。心境の変化というより、どちらでもあまり変わらない、と気づいたからだ。「ほぼ日」は「県民」よりも値段が5倍以上。それなりのクオリティや利便性があるのは確かだが、使用する側からすれば毎日3食の食事内容と体重を書き記すのが最も大切な要件だ。それだけのスペースがあればどんなメモ帳でもかまわない。だから今のところ県民手帳で何の不自由もない。逆に、10年近く毎日手帳をつける習慣を持っている自分をほめてやりたい、と思うこともある。要は毎日「記録すべきこと」があるからしょうがなく続いているだけ。このことが「3日坊主」にならない要諦でもあったわけで、手帳を毎日活用したい人のためにはおススメの方法です。
(あ)

No.740

日本史がおもしろくなる日本酒の話
(サンマーク文庫)
上杉孝久

 酒を通してみる日本歴史という発想がいい。著者の名前からもわかる通り、上杉謙信の子孫に当たる人で、仕事は日本酒プロデューサー、まさに本書を書くためのはまり役である。歴史学者ウォーラーステインの「歴史上の人々の暮らしや実態をモノや慣習などを通じて観察する」という歴史人類学の手法で書かれたものだ。世界史を砂糖の観点から描いた『砂糖の世界史』も面白かったが、本書も中学生から読める丁寧でわかりやすい「歴史本」である。目からうろこの記述も多い。酒を冬の間につくるのは雑菌が少なく、酵母などの働きが必要以上に活発にならない寒さのためだが、政治的にみれば、米経済中心の江戸時代、幕府や藩が短期間に一元管理できるように夏の新酒醸造を禁止していたから、というのは初めて知った。戦後、日本酒人気低迷の大きな要因となった 三倍醸造酒というのも戦時中の満州で生まれたもの、とは知らなかった。原料も設備も酒造りの技術も未熟だったために、満州独特の作り方として研究開発されたのだそうだ。それが戦後も米不足の中で継承され、醸造用アルコール添加酒(清酒3級)として公認されていく歴史過程が面白い。現在、日本酒は海外で人気だが、この流れを作ったのが2012年の民主党政府で、日本酒と焼酎を「国酒」と位置付けて、輸出の基幹産業に決めたのだそうだ。

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