Vol.721 14年9月20日 週刊あんばい一本勝負 No.713


本と映画と山行と

9月13日 DM注文もひと段落。庄内で美味しいものを食べまくり、六十里越街道も歩いてきた。思い残すことはない(笑)。秋のシーズンに向けて仕事三昧だ。読書の秋というぐらいだから他の季節より本は売れるのだが、そればかりではない。出版依頼もこの時期に集中するのだ。販売よりも編集に時間がとられる季節でもある。新入社員を鍛える絶好のシーズンだが、まずはともかく仕事ありきだ。仕事がいっぱいはいるよう祈るしかない。午後から小島剛一さんの講演を聴きに行く予定だ。小島さんはフランス在住の言語学者。トルコのラズ語の辞書を作るために孤軍奮闘している秋田県人だ。彼の『トルコのもう一つの顔』(中公新書)は面白い本だった。昨夜はその講演会を主催する出版社のMさんと一献。その帰りに寄った友人の店で、ボツアナから留学中という珍しい外国人女性と隣り合った。なんだか国際人になったような気分だなあ。

9月14日 開村50年を迎えて、あいかわらず大潟村が面白い。ここだけは秋田のどの地域とも、いや日本のどこの農村地帯とも異質のコミュニティを作っている。それを象徴するような出来事が2つ。ひとつは「ラムサール条約」の登録申請を住民の反対で断念したこと。環境省からの願ってもない申し出を「米で生きてる村が鳥を増やしてどうする」と拒否したためだ。鳥獣保護や自然環境保全には、以前から全国でも屈指の先進的な取り組みをしている村なのに意外な反応で、これにはちょっと驚いた。同じ日、秋田銀行が村内の農家W氏に新米を担保に6億円を融資した、と新聞が報じていた。ABL(動産・売掛金担保融資)とよばれる手法らしい。農民がコメを担保に6億ものお金を銀行から借りる、というのも大潟村的ニュース。日本の最先端の地殻変動は秋田とは全く無縁に進行しているのだが、いや、大潟村だけは確実に世界の経済や文化の動きと連動している。

9月15日 誰もが登りたがらない山がある。八峰町にある真瀬岳だ。登山道は荒れ放題、登山道がまったく見えなず、ひたすらやっかいな「やぶ」が続く「不快な」山。やぶは身長より高く生い茂り、景色はまったく見えない。やぶを進むうち喉に異変が起きるほどの人の入らない埃っぽい山なのだ。故あって(詳細は「よれよれ山行記」)その山に登らなければならなくなった。さらに運の悪いことにマムシにまで遭遇してしまった。じっとこちらをねめつけている面構えの不敵さが目にちらついている。トラウマになりそうだ。それにしてもこの1か月の山行でクマ、オコジョ、マムシと連チャンで山の動物たちに遭遇。過去10年間一度も遭ったことがない動物たちだ。珍しいものをちゃんと見せてやるから山歩きもいい加減にせえよ、という神の配分なのかしら。

9月16日 今週は火曜日からスタート。わずか1日違いだが月曜と火曜では「スタートライン」の位置も意味も重みもビミョーに違う。うまく言葉ではいえないが大切な1日を損したような気分とでもいうのだろうか。今週からは販売から編集に仕事の支点が移る。来客も多くなりだした。出版依頼も増えだした。つくづく人間の行動は正直だ。夏はどこかに隠れていた人たちが、秋と共に活発に動き出す。この地味な出版の世界でもそれははっきり見てとれる。朝夕はめっきり冷え込むので、夏掛けを秋用布団に換え、寝間着も長袖に。半そで衣類はしまいこまず、とりあえずジャケットを羽織って仕事している。短い秋を大切に過ごしたい。

9月17日 午前中は休みをもらって自宅横にある倉庫の整理。本来の倉庫(物置)機能のほか、ここにはアウトドア関係の遊び道具類も収納してある。ここ1年、いろんなことがあったので倉庫はほったらかし、荒れ放題だ。山靴から落ちた泥も地面に溜まっている。何とかしなければ、とプレッシャーを感じていたのだが、やるなら今でしょ、と昨夜、突然決めた。一番厄介なのは「帽子」。山用だけでもいつのまにか10種類以上ありスキーや散歩、川やトレーニング用まで入れると40個近い数の帽子がある。形も大きさもバラバラで場所塞ぎの厄介なシロモノだ。こうなればもう使わないものは片っ端から捨てようと思うのだが、仕事関係の書類ならバサっと捨てられるのに、遊び道具は「いつか使うはず」と雑念が優先してしまう。

9月18日 忙しさは抜けたのだが、夜長にじっくり映画鑑賞という気分にならない。映画は好きだがWOWWOW会員になってまで観たいとは思わない。会費が惜しいのではない。プログラムの奴隷になるのがイヤなのだ。自分の意思に関係なしに見せられてしまう、というのが怖い。自分の時間を他者に勝手に奪われているような不快な気分になる。映画を観るという行為は、何の映画を観たいか、という自分との対話でもある。映画なら何でもいいわけではない。こんなことをクドクドとブータレているのも最近、面白い本と出会わないから。今日は本屋にでも出かけてみるか。いや、それよりも家の中にあるうほこりをかぶった「積読本」を、もう一度見直してみるほうが命中率は高いか。

9月19日 最近、新聞の出版広告を見ても「本当にこれ出したかった本なの?」と首をかしげたくなるものが多い。そんな中、『目でみることば』(東京書籍)は、普段使っている言葉の由来を撮った写真集で出色。編集者が造りたくてたまらず造ってしまいました、という意思が伝わってくる珍しい本だ。「灯台下暗し」にはロウソク台とその台下の影が鮮明に写っていて、「海にある灯台ではありません」のコピー。「玉虫色」の玉虫の羽色も初めて見た。こんな色だったのか。「あこぎなやつ」の阿漕が地名だなんて知らなかったし、「瀬戸際」は航空写真でなければ撮影が難しく掲載を断念。「ルビコン川を渡る」も海外取材が必要なため無理、と正直に文章で申告している。収録した40の言葉すべてをカメラマンが現地入りして撮影している。いい本だ。
(あ)

No.713

石の虚塔
(新潮社)
上原善広

 今年度感動ベストワンはこの本かもしれないなあ。サブタイトルは「発見と捏造、考古学に憑かれた男たち」。相沢忠洋、芹沢長介、藤村新一の3人の人生にスポットを当てたノンフィクションだ。久々にコーフンと感動で読後金縛り状態になってしまった。読みはじめる前はてっきり藤村が主役の本と思っていたのだが、まったく違った。「神の手」藤村はこの世界ではピエロにもなれない端役にすぎなかった。このことがまず驚きだ。どう考えても我々庶民レベルでは下世話なニュースバリューは藤村にあるからだ。著者にとってもそこが狙い目だったのかもしれない。意外性というやつだ。そしてこの設定が本書のテーマの深さと切実さを演出する大切なモチーフになっている。本書を読んでいると、「世紀のペテン師」といわれた藤村がまるで純粋無垢な「幼稚園児」に見えるのだから、すごい。著者の魔術にすっかりはまってしまう。それほど考古学の世界は悪鬼夜行、魑魅魍魎の世界なのだ。エピローグとプロローグに当たる分のみに藤村はまるで狂言回しのように登場する。それだけだ。それ以上の意味も、それ以下の批判も、まったくなし。このへんの構成は見事としか言いようがない。藤村を徹底的に脇役に回すことで、相沢、芹沢、明治大学関係者の行為の輪郭を際立たせることに成功した。佐野眞一なきあとノンフィクションの未来を案ずる向きもあったが、この上原善広がいれば、だいじょうぶ、とすら思いたくなる作品である。

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