Vol.715 14年8月9日 週刊あんばい一本勝負 No.708


ヒマなのに、いつもどこかが緊張している夏

8月2日 「なくても困らないでしょ」と揶揄されているケータイだが、やっぱりどこかに置き忘れていると思うと寝覚めが悪い。ケータイを持ち歩く習慣がないので、まちがいなく家か事務所のどこかに紛れ込んでるはず。なのだが、ちょっと視点を変えることにした。この1週間で外出した先を洗い出してみた。出不精の私が唯一外出した先は、S&S(ストレッチ&スパ)に出かけた「ユフォーレ」だ。さっきそこに電話をしたら、「お風呂の脱衣場にあります」とあっさり言われた。珍しくケータイを身につけて外出し、そんな身につかないことをしたために、しっかり忘れてきた、というわけだ。これからとりに行ってくる。ついでに風呂にも入ってこよう。

8月3日 今日は真昼岳。それも峰越林道コース。普通の登山コースは赤倉口で、ここからだと3時間以上かかるのだが、峰越は1時間半もあれば楽勝のハイキングコース。と、油断しきっていたのだが、猛暑で熱中症を疑われるほどフラフラになってしまった。大木や森のないカンカン照りの尾根歩きは太陽の絶好の餌食だ。下山途中にはほとんどの人の水が尽き、夢遊病者のように。ハイキングコースと侮って、水も余分を持っていかなかった。夏山は怖い。いい勉強になったが基本的には暑さの中の登山は苦痛が多い。今回のように下界も山中も同じように30度を超えているのだから、何のために山に行くのかわからない。今朝は昨日の山の行動食として残ったおにぎりが朝飯だった。その具が暑さんためかヘンな臭いがするので、食べるのをやめた。

8月4日 竿灯がはじまった。これまでの半生で竿灯を見たのは3度くらいか。大曲の花火も一度も観たことがない。観たいとも思わない。いまもって祭りが好きではない。興味がない。それにはいくつかの理由がある。子供時分、湯沢の大名行列には小さな子供がお殿様に扮して馬に乗る決まりがあった。自分にもその番がいつか回ってくると心待ちにしていたのだが、まったく話しすららなかった。子どもながら納得できない不満が残った。お殿様になるにはそれ相応の寄付や大人たちの裏工作が必要で、お金のない家の子ははなっから問題外、ということを知ったのは高校生になってからだ。祭りって大人の商売の駆け引きの道具なんだ、という刷り込みがいまも抜けないのだ。

8月5日 還暦近くまでビールをほとんど飲まなかった。お付き合い程度ならいいが、2杯3杯となると苦痛以外の何物でもない。早々と焼酎かワインに切り替え最後は日本酒というコースだ。ところが山登りをするようになりビールのうまさに目覚めた。今年の夏は毎日のように500ml缶ビール1本を飲むのが日課。どこの銘柄がどうのこうのいえるレベルではないが、いまはエビスのシルクビールを呑んでいる。うまい。昔は身体から滝のように汗を流すような体験をしていなかった軟弱者だったから、ビールのおいしさを理解できなかったのだ。先日、炎天下の真昼岳で水がなくなり、里へ下りる途中で見つけた山水(延命水)の冷たくて甘くて美味しかったこと。あれは忘れられない。山を下りて温泉にはいり、どこにでもあるような大衆食堂で定食を肴にビールを呑む。この年齢に達して初めてわかった至福のひとときだが、この大衆食堂もほとんど消えてしまった。

8月6日 連日の猛暑にグッタリ。昨夜からの雨でカサカサだった心にもしっとりとしたお湿りが。夏の夕間暮れの庭先にうち水をしたような気分だ。たまの雨は、いい。竿灯期間中と関係あるのかどうかわからないが、来客、電話、注文はなし。静かなもの。暑くて外に出る気も失せ、事務所でひたすら本を読んでいる。勢古浩爾『定年後7年目のリアル』は前作に劣らずおもしろかった。香山リカ『リベラルじゃダメですか?』はまっとうで説得力のある論考だった。寝っ転がって短時間で読了。面白い本に当たると時間はあっという間に過ぎる。「なにもしない」静かな生活はコシヒカリのような滋味がある(by勢古浩爾)。なるほど。

8月7日 通販の健康食品の9割はインチキ、とある週刊誌が書いていた。いや、たぶんインチキ度は95パーセント以上だと思う。騙される側がちょっと頭ワル過ぎ、と思っていた。そのあたりの庶民と自分は違う、とけっこう自惚れていたのだが、よく考えてみると「ふくらはぎ」の本は買ってしまったし、炭水化物ダイエットへの信頼はいまも揺るがない。そればかりか毎日黒酢まで呑んでいる。おまけに最近は通販広告で煽っている腹筋マシーンや足マッサージ機にも食指が動く。科学的に見て、いや常識さえ持っていれば、「そりゃないよ」とわかりそうなものだが、年のせいか誇大広告にまで丁寧に耳を傾け、反応してしまう。ああしたバカっぽいTVCMにすら引き寄せられてしまうのが、「老いる」ということなのだ。情けない。

8月8日 仕事や家で寛いでいる時でも両足の指だけはギュッと丸まって力が入っている。「あれっ、緊張してるんだ」とそこで気がつくのだが、すぐに指を伸ばすように脱力してやる。あら不思議、身体全体のこわばりがスッと消えていく。リキんだり緊張しているつもりはないのに、足指は正直なのだ。まるで唇をかみしめるように不意の敵に備えてギュッと身を固くす。最近このことに気がつき、事あるごとに足指の緊張を解いてやる。夏場で靴下を履かないので余計に足指に敏感になっているのかもしれない。覗いてみることのかなわない心の裡のストレスやプレッシャーが、足の指を使って形あるメッセージを送っているのだ。リラックスしなさい、とはよく言われることだが、そう簡単にできることではない。身体のどこが身構えているのか、そのどこかを特定できれば、もう少し楽に生きられるのかもしれない。
(あ)

No.708

コーヒーが廻り世界史が廻る
(中公新書)
臼井隆一郎

 これは名著だと思う。コーヒーと砂糖は世界史のなかで(比喩としてではなく)重要な意味を持っている。そのことを具体的に解き明かしてくれる、実に為になる歴史の本だ。コーヒーはその昔、「イスラームのワイン」と呼ばれた。サブタイトルには「近代市民社会の黒い血液」と記されている。コーヒーは東アフリカ原産の豆を原料としイスラームの宗教的観念を背景に誕生した。もうこのへんからドキドキハラハラ、コーフンする。お酒を飲めないイスラームが、大切な夜の祈りの時間に眠らずにすむコーヒーを愛飲した。これががはじまりだ。そして近東にコーヒーの家が誕生し、ロンドンに渡り「コーヒー・ハウス」になり、近代市民社会の諸制度を準備することになる。エッ、なんでコーヒー・ハウスがそんな大役を担うの。コーヒー・ハウスはコーヒーを呑む場所と同時に、当時の株式取引所であり情報図書館であり保険屋も兼ねた、17世紀後半のロンドンの最新鋭多目的ルームだったのである。さらにコーヒーはパリでフランス革命にたちあい「自由・平等・博愛」を謳いあげる。これも比喩ではない。ナポレオンの大陸封鎖によって、ポルトガルがブラジルに王室所在地を移したことからコーヒーと砂糖はブラジルの特産品になる。ナポレオンは19世紀の砂糖とコーヒーの世界史的意義に決定的な変化をもたらした人物なのだ。その後、コーヒーはドイツで市民社会の鬼っ子ファシズムを生むに至る。おもしろくてやめられなくなる本だ。

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