Vol.711 14年7月12日 週刊あんばい一本勝負 No.704


頭にふんどし巻いて風呂入る

7月4日 昔は半日もあれば元に戻った二日酔いが、丸々1日以上長引くようになった。情けない。昨夜は9時半にはもう寝た。たっぷり10時間熟睡してようやく二日酔いの「欠片」は消えた。明日は駒・乳頭縦走。ワクワクする楽しいコースだが、体調が悪ければ地獄に早変わり。そのため1週間の体調管理は「日曜登山」を軸に調整、管理している。日曜日コンディションが最も良好な状態になるよう日々過ごしているわけだ。本末転倒と笑うなかれ。週末の楽しみがあるから、きついいやな仕事にも耐えられる。昨日の新入社員の釣果は鮎3匹。家族で1尾ずつご相伴にあずかった。初鮎である。小ぶりだが野趣あふれる川と緑の味がした。で、今日の土曜日は一転、新入社員ともども出舎。月末経理や、来週から新しいメインパソコンが登場するので、それへの対応など、月初めだがやらなければならないことが山積み。

7月5日 ふだんはケータイを持っていないので、緊急に連絡をとらなければならない状態をつくらないように注意している。つもりなのだが、山行のある今朝、4時起きの目覚ましを5時起きに間違えてセット、集合場所に遅れてしまった。ケータイがないので連絡はとれない。やむなく単独で登山口(駒ケ岳8合目)に向かう。駆け足で登って最初の山(笹森山)の山頂で仲間と無事合流。みんなには心配をかけ、おまけにケータイを持っていないことをなじられた。申し訳ない。平身低頭なのだが、だからといってこれからケータイを持とう、とは全く思わない。とにかく電話が嫌いだ。でも不ケータイ者はなんだか喫煙者の立場と似てきたね。そうか、喫煙者の立場って、こんな感じなんだ。

7月6日 昔に比べて暑さが苦でなくなっている。山に行くようになったせいだ。何時間もダラダラ汗を流しながら山中を漂っている経験が長くなると、真夏の散歩のうっとうしさも不快と感じなくなる。汗っかきの体質だが、山と里では汗の量が比べ物にならない。山でかく汗に慣れてしまうと、汗せんの影響なのだろうか里では汗をかきずらい体質になるようだ。炎天下でスーツを着て仕事をしている人を見ると、まるで異星人のように思っていたが、いまは夏の出張にジャケットをもって出かける。冷房用ということもあるが、上着を羽織ることと暑さはあまり関係がないことに、この年になって初めて気がついた。「風」のありがたさも山に登るようになって初めて気ついた。暑さの中でのきつい登りも、一陣の風で快感に変容する。逆に風のない夏山はつらい。冬山の風は吹雪や雷よりも「恐怖」だが、夏の風は好き。

7月7日 山の帰りは近場の温泉で汗を流す。洗い場も脱衣場も狭く暗い「秘湯」の類より、清潔で明るく近代的な温泉が好きだ。浴槽ではタオルを頭にのせてはいる。どうして頭に乗せるのだろうか。昭和40年50年代ころの映画を見ると平気でタオルを浴槽に入れている。衛生上の理由から、このあたりを境にタオル入浴が禁じられたのだろう。でもなぜタオルを頭にのせるのか。タオル置場があればいいのではないのか。前を隠すため持っている必要がある、という理由もあるか。先日読んだ本に、江戸時代はフンドシが貴重品で(レンタルまであった)入浴時は盗難除けに頭に巻いてはいった、という記述があった。ふんどしの頭まき。エッ、もしかしてこれがタオル頭のせルーツ? なんてことはないよね。江戸時代って本当に面白い。

7月8日 久しぶりの雨、気持ちいいが、沖縄は大変そうだ。冬の大雪のニュースが報じられる時、沖縄の人たちも東北を同じような気持ちで案じているのかもしれない。雪も雨も雷も、山行のなかで厳しい環境を何度か経験したが、自然災害で最も怖いのはやっぱり「風」だ。目に見えない分、恐怖感が増幅する。去年、春の鳥海山8合目付近で局地的な風につかまって身体が浮き上がり、30センチほど後ろに吹き飛ばされた。風には人間を吹き飛ばすほどの力がある。あの恐怖感が沖縄の台風ニュースでよみがえった。あの禍々しい風の「声」も怖い。家々の間を通りぬけるときの断末魔のような風の叫びを聴くたび、屋根は大丈夫だろうかと不安になり、目がさえてしまう。その癖はまだ治っていない。今日の雨はいい。風は勘弁してほしい。

7月9日 今年はなぜか出版依頼が多い。毎週2,3本、というペースは異常と言っていい。依頼は多いのだが仕事として「成立」する確率は低い。10本のうち1本が決まればめっけものだ。こんな出版不況なのに、なぜ出版依頼が多いのだろうか。不況だから行き場のなくなった原稿が、うちのような零細田舎出版社にも集まってしまうのだろうか。原稿のなかには労作としか言いようのない優れた論考も少なくない。が、ビジネスとして考えると100%採算はとれない。大手は書名をみただけでボツにする。それもわからないではない。高額な本でも300人の買い手がいれば出版は実は成り立つ。そういわれた書籍市場が根っこからほころび始めている。どんな本にも最低300人の読者がいる、という神話が消えたのだ。依頼が多くても成立しない背景にはそうした激変した読者(買い手)環境もある。

7月10日 仙台の私立大学で「東北再発見」という講座を持っている。そのためにだけ仙台に行くのだが、行き帰りの車中は貴重な読書タイム。最近はまとまった読書はほとんど車中で済ませる傾向にある。今日は『コーヒーが廻り世界史が廻る』(臼井隆一郎著・中公新書)を読みながら仙台へ。昨夜からずっと読んでいるのだが面白くてあっという間に仙台に着いてしまった。もっと遅くていいよ新幹線。コーヒーの発祥の地では「イスラームのワイン」と呼ばれていた、というのは初耳だなあ。ヨーロッパの近代市民社会の「黒い血液」という言い方もする。うまいなあ。世界史のなかで砂糖とコーヒーは比喩でなく決本当に定的な役割を果たしている。「ニグロの汗」「黒い革命」そしてコーヒー史のなかで重要な役回りをすることになるナポレオン将軍。いやああ止められまヘン。

7月11日 仙台からの帰りは北村薫『八月の六日間』(角川書店)。昨夜、大学関係者と深夜2時近くまで飲み、眠られなくなりホテルで3分の一読んでしまった。はやく続きを読みたくてワクワク。40代の出版社勤務の女性が、ひとりで北アルプス周辺の山を静かに黙々と歩くだけの物語だ。ただそれだけなのに、さわやかでジンワリと心にしみてくる物語だ。山も小説も好きだが、新田次郎や深田久弥といった人たちにはまったく食指が動かない。以前からこんな何も起きない山の物語が読みたかった。「槍ヶ岳なんて自分には観るだけの山」なんてさらりという主人公はめちゃくちゃかっこいい。こんな小説なら私、毎日1冊ずつ365冊読めます。
(あ)

No.704

山形ガールズ農場!
(角川書店)
菜穂子

 サブタイトルに「女子から始める農業改革」とある。朝日新聞の「ひと」欄で著者の存在を知った。興味をもったので、お隣の山形まで会いに行こうかと編集者魂が揺り動かされたが、ぐっと我慢。とにかく1,2年様子を見てみようと思った。というのも、あの手この手の「あざとい」ネーミングや派手なパフォーマンスで、農業を持ち上げ一時的にメディアで話題にし、ナニガシかの利益を生もうとする輩が後を絶たないからだ。こういう連中はすぐに消えていく。秋田県内でも数多くそうした例を経験した。たとえば「渋谷米」なるものがあった。ガングロの渋谷ギャルが大潟村で米作りをし、収穫したコメを「渋谷米」として売り出した。このギャルたち、広告代理店かプロダクションに言われ「営業」しているだけだ。農業を続けるとか、土が好きでしょうがない、ということはまったくない。ただの芸能活動の一環なのだ。こうした話題づくり農業は短期間に消えていくのだが、逆に農業へのイメージは確実に悪い方向へと導かれていく。実は本書にも、わずかにだがその影はかすかに感じる。著者自身は農家なので「飽きたから、もうやめた」とはならないだろうが、農業組織として彼女の試みが継続するかどうかは問題が山積みである。その予想が外れてくれることを祈るばかりだが、農業と組織というのは永遠のテーマかもしれない。

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