Vol.712 14年7月19日 週刊あんばい一本勝負 No.705


ヒマで本ばかり読んでいる1週間

7月12日 仙台に行ったついでに「モンベル」で靴を買った。ウフフフ、チョーうれしい。超軽量のイタリア製(アゾロ)登山靴で、昨夜は寝床の横に置いて寝た(冗談です)。登山靴は重いほうがいい、と神話のように言われてきた。そこで重い靴を買い10年近くはいてきた。物持ちはいいほうだ。先日たまたまハイキングシューズで山に登ったのだが、すこぶる調子がいい。靴は軽くてもいいんだ。いや軽いほうが身体も軽い。なるほどそうだったのか。明日は和賀岳だが、これはキャンセル。まだ靴がなじんでないから、というのもウソで、いまひとつ気分が載らないため。デスクワークが忙しいこともある。いろんな悩みも尽きない。やらなければならないことが多すぎる。こんな状態では山を楽しめない。

7月13日 今日は町内公園の草刈り。和賀岳登山はキャンセルだが、この行事が原因ではない。日曜の山と町内行事が重なると毎年迷うのだが新入社員のおかげで町内のほうはお任せ。でもやはり自分でなければ収まりのつかないものもある。というわけで6時起き。公園に意気込んでいくと作業はあらかた終了していた。下水ドブ掃除のときは逆で、自分がいかないと作業が始まらない。同じ町内の人と1年に1回、顔を合わせてご挨拶。これは大切な行事だ。これがなくなると同じ町内に住んでいても1年中顔を合わせる機会は失われてしまう。それにしても町内の役職に就いたのが20年前、持ち回りなのにまだ次がやってこない。引っ越しや新参者が引きも切らない町内のためだろうか。わが町内は人口減、高齢化とは逆の現象を辿っているのかな。今日は一日中、原稿を読んでその手直しの作業。1日で終わるかなあ。

7月14日 日曜はあるゲラの手直しで1日がつぶれた。仕事だから「つぶれた」はヘンか。現在、うちでは校正者不在、自分で校正をしている。このデリケートな仕事は神経がクタクタになる。最も苦手な作業といっていい。逆に得意なのが、チラシを折ったりする単純作業。意外に思う人もいるが、昔から同じ動作を繰り返す仕事は嫌いではない。やりながらずっと「もっと効率的にやるにはどうしたらいいか」考えながら仕事をするのが好きだった。それは今も変わらない。この校正作業に工夫や創意はまったく必要ない。邪魔なだけだ。もう3日も同じゲラに朱を入れ続けている。早く解放されたい。というわけで校正者募集中です。よろしくお願いします。

7月15日 チェーンの居酒屋で呑む機会がめっきり増えた。そこそこ美味いし、メニューも豊富、バイトの若者たちのサービスも悪くはない。わざわざ敷居の高い和食屋や個性的な赤ちょうちんに行く必要がなくなった。で先日、出来たばかりの秋田発チェーン居酒屋にフラリ。これが大失敗。仲居さんは秋田弁を売りにしたおばちゃんたちで、古民家炉端風田舎料理の店。県外観光客仕様だから何もかもが「過剰な秋田演出」でゲンナリ。カウンターにはナマハゲの精巧な人形まで座っていた。方言もひどい。「まってけれ」「け」「んだが」といったため口。こっちを県外客だと思っているせいもあるが、はき捨てるようなため口方言ばかりで、極めて不愉快。じゅんさいとナスがっこをタライに入れ「200円だども、どっち喰う?」などと行商まがいの押し売りも。マニュアルがあるのだろうが、もう少し穏やかにフツーにできないものか。品までは期待してないが、とても恥ずかしい。

7月16日 注文も少ないし、ゲラも印刷所からなかなか帰ってこない。今週はすっぽり「ヒマ」週間。電話も来客もない。暑さでみんな参っているのかな。こんな時はアグレッシブに街に出て……といいたいところだが暑くてやっぱり、イヤ。街に出ても楽しいことなんて転がっていない。この年になるとたいがいのことはやる前に想像がつく。となるとじっくり本でも読むか。今週に入って毎日1冊ペースで読書がはかどっている。積読本の山がみるみる減っていく。「英国一家、日本を食べる」「くう・ねる・のぐそ」「やくざと芸能と」「山女日記」「気がつけばチェーン店ばかりでメシを食っている」……いまのところ1冊も外れなし。これも珍しいのだが、とにかくみんな面白い本。今日は潟上市まで吉田初三郎という大正時代の地図書きの絵地図展を観に行く。

7月17日 「3・11」関連の本を読むことも、自舎で震災本を企画、出版することも、控えてきた。理由はまだうまく説明できないが、なんとなくイヤ、としか言いようがない。あの時、すさまじい勢いで出た震災本の多くは、いま古本屋では100円で売られている。その現実に目を向けるのも辛い。昨夜、佐々涼子『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている――再生・日本製紙石巻工場」(早川書房)を読んだ。いろんな思いが去来するが、あの震災を「日本の一大転換点」「人類未曾有の危機」とアジテーションした人たちはいま何を考えているのだろう。本を読みながらボンヤリとそんなことを考えた。自分のメシのタネである出版の紙の4割が東北・石巻でつくられている。紙がどのようにつくられるのか恥ずかしながら、この本で初めて知った。「この工場が死んだら、日本の出版は終わる」という帯のコピー。それはちょっと違うと思うのだが、紙と出版にスポットを当てたテーマの着眼点は、すばらしい。

7月18日 伊沢正名『くう・ねる・のぐそ』(ヤマケイ文庫)は、書名は穏やかだが中味はチョー過激な奇書。食う寝ることなど本文のどこにもなく全編これ「野糞」の記録だ。なのに臭くも汚くもない上質な一級のノンフィクションというのだから見事としか言いようがない。実はこちらも毎回山に行くたびに便意を催す「キジ撃ち」常習犯。これがけっこう憂鬱で、最近は山に行くのがおっくうになるほど。著者に言わせると「便意は自在にコントロールできる」そうだ。明日東京出張となれば前日に明日の分も出してしまえる、という。巻末には年間野糞回数が克明に記されていて1年間で389回なんていう記録も。話は変わるが、最近読んだ本の著者たちの多くが「中学高校の中退者」であることに気がついた。家入一真、矢萩多聞、そしてこの本の著者も。みんなすごい才能を持った人たちだ。
(あ)

No.705

偶然の装丁家
(晶文社)
矢萩多聞

 晶文社の「就職しないで生きるには21」シリーズの1冊である。だんだんこのシリーズもおもしろくなってきた、かな。実はあまり期待しないで読みはじめたのだが、おもしろくてやめられなくなった。びっくりしたと、いったほうがいいかもしれない。著者を装丁家として一躍有名にしたのは白水社の中島岳志著『中村屋のボーズ』だが、その前から春風社の本の装丁で異才は業界に知られていた。それにしてもその経歴には驚く。まったく学校に行かず、小さなころからインドに住み(それも家族で)、今もインドと日本を行き来しながら暮らしている。不登校の時代から、それを支え、個性を重視する生き方を家族で選び支えた両親の存在も大きい。こんな日本人が、というよりもこんな両親がいた、ということにも驚いてしまった(たぶん親は私と同年代だろう)。それにしても装丁によって本はまったく違ったものになる。この晶文社の本にしてからが、その見本だ。私たちの世代の人間にとって晶文社といえば平野甲賀。それ以外は考えられない。好き嫌いはあるだろうが、私たちには平野さんのイメージが強すぎる。その平野さんについての言及が本書でまったくなかったのも、おもしろいといえば面白い。

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