Vol.694 14年3月8日 週刊あんばい一本勝負 No.687


返品地獄は去ったというものの……

3月1日 ここに書いてしまうと砂上の楼閣というか、「幻の予定」になってしまいそうで怖いが、書いてしまおう。3月は少し余裕ができそう。その時間を旅と身の回りの整理に使いたい。旅は長いものではなく暇を見つけてチョコチョコ外に出るというぐらいの意味。身辺整理は新聞スクラップや書き散らかしてきた原稿、個人的な資料類を取捨選択、きちんと整頓すること。ま、この程度のことなのだが、この半年間、そういう精神的身体的余裕がいっさいなかった。社会的にはもうリタイアしていてもおかしくない年齢で、余生を楽しんでいる友人も多いのだが、もう5年は現役で仕事をしたい。やるべきこと、やれないことの優先順位をはっきりさせ、計画的に前に進む賢さがあればいいのだが、目の前のエサに食いついて行くだけしかできない単細胞だ。いまさらスタイルというか流儀を崩せない。成行きのまま生きていくしかないな。

3月2日 中年女性から電話。母の介護で名作をコピーして大活字で読み聞かせしているが、それが病院で評判になり、そのコピー本を出版したい、とのこと。著作権の問題があるから駄目ですね、と答えたのだが、調べてみたら、あの青空文庫(無料電子図書館)の作品を紙の本として買えるサービスがあるらしい。購入時に「大活字本」も選べるという。これなら大丈夫だ。でも気に行った作家の本がテキスト化されているかどうかが問題だし印刷代もバカにならない。それにしても最近の電話は絶版本の問い合わせや引用や掲載、コピーの許諾を得るようなものばかり。本の注文よりもこうした問い合わせが多い。ほとんどスキマ産業だ。これはIT技術の進歩というよりも「コピー文化」の普及によるものだろう。コピー文化が出版の斜陽化に拍車をかけているのは間違いない。

3月3日 花瓶に生けた梅がきれいに咲きだした。ろくに水も替えてやらなかったのに、けなげだ。路上の雪も熔けた。重いブーツでなくとも散歩できるのが、なによりうれしい。軽い靴の履き心地がよくて、調子に乗って歩きすぎたせいだろう、右ひざが痛い。古傷だが、きまって使いすぎると痛み出す。それでも春の陽気に誘われて外に出る。これ以上ひざが悪化すれば、山へも行けなくなる。自重しなければ、と思うのだが、身体がいうことをきかない。車で用を足せばいいのに、いつものように歩く。歩かないと損をした気分になるのだ。

3月4日 保険会社の人が契約更新に来て、お土産に夫婦小鉢を置いていった。よくあるお約束事。別の保険会社ではお酒だし、高価な地元産のお菓子を持ってくる印刷屋さんもいる。こうしたもらい物は、もらう側にはそううれしいものでもない。邪魔になるケースのほうが多いのだ。が、今回の小鉢は観るなり気にいった。カミさんも「これいいわね」と、さっそく夕食時に酒肴入れとしてデビュー。お店に行って買うほどではないが、あれば便利で実用的で美しい、という「心遣い」を選ぶのは難しい。もらいものをそっくり他者へのプレゼントとして使うこともある無精者。自分で考えても、こればっかしは、なかなかいいものが思い浮かばない。ようするにセンスがないのだ。

3月5日 今日やる仕事は前日の段階でメモする。だから忘れたりはしないが、爪を切ったり、薬を買いに行ったり、書評用の本を確保したり、故障したドアノブの修理……といった「小さな用事」は、この日記を書いてる最中に、実はほとんど失念、夜になってやっていなかったことに気がついてがっくりする。そこで日記を書く前、コーヒータイムの後にこれらのことをできるだけ片付けてしまうことにした。のだが、これがけっこう難しい。手慣れた朝の儀式の順番を変えると微妙に生活のリズムがくるってしまう。朝は特にやることの優先順位が曜日ごとにほぼ決まっている。そこにしわ寄せがいき、あたふたして仕事へ悪影響が出てきたりする。「小さな用事」もないがしろにできない。やり残すと心に刺さったトゲのように、ずっと尾を引く。

3月6日 録画しておいた「コスタリカ横断850キロ」という10日間にわたる過酷なアドヴェンチャーレースを観ていたら、日本チーム・メンバーがボートから海にウンチをするシーンがあった。もう死んでしまったが、好きな作家だった永倉万治の作品に似たシーンがあったのを思い出した。初々しい恋人同士がボートを漕いでいる。我慢ならないほどウンチしたくなった男は湖の中に飛び込んで、ボートを押す仕草をしながら恋人に悟られないように排便。ところがボートは前ではなく円を描くように回りだし、なんとウンチは恋人の目の前にポカリと浮上した、というような話だった。この小説には笑った。次のページがくくれないほど爆笑したことを覚えている。いやいや朝からウンコ話で失礼。

3月7日 3.11が近づくと周辺がかまびすしい。私にとっては昨日3月6日がある人の命日、大切な日だ。その人の名前は工藤鉄治さん。「中島のてっちゃ」として秋田市民に親しまれた知的障害を持った放浪芸人だ。私や無明舎にとっての処女出版であり、忘れられない恩人だ。工藤さんは92年3月6日、肺炎のため市内の病院で亡くなった。享年76。そうか、生きていればもう100歳近い年になるんだ。命日は特別に何かをするわけではない。夜の散歩のときに、ずっと彼のことを考えながら歩く。その程度だ。ひとり、酒を飲んで「盛大に」酔っ払った年もあったが、いまは酒を飲むと別のことを考え込んだりするので静かに昔を偲ぶのみ。彼の本を書いて世に出たのが40年前、亡くなってからでも20年経っている。光陰矢のごとし。今度はこっちの番だよ、てっちゃ。
(あ)

No687

その峰の彼方
(文藝春秋)
笹本稜平

 正月中、カミさんから風邪をうつされ鬼の霍乱、ずっと寝床にいた。情けないお正月だったが、おかげで長編小説を何本か読むことができた。いいことも悪いことも「あざなえる縄のごとし」だ。ゴホゴホせき込みながら12時間かけ、本書を一気読み。ものすごい小説だ。今年の「本屋大賞」ほぼ当確って、余計なお世話か。本屋大賞の受賞作を読んだこともないくせに。500頁もある山岳小説で、その9割の記述がマッキンリー山中での遭難シーンに費やされている。読みながらこれはこの著者の実体験ではないのか、と疑ってしまうほど迫真のリアリティ。寝床で涙が止まらなくなった。本を読んでこんなに泣いたのは久しぶりだ。物語の力を感じた。活字っていいよなあ、と意味もなくうれしくなった。この作者の前作『春を背負って』が今年映画化されるらしい。この本も読んでみよう。ちょっと気になったのはラストシーン。細部を書いてしまうと、これから読む人に迷惑になるので、ぼかして書く。ゾルビデムという睡眠導入剤のことだ。ロバート・デ・ニーロ演じた『レナードの朝』でも使われた植物人間を覚醒される(時間限定で)薬だが、この薬を小説に使うのは禁じ手にすべきではないだろうか。南アフリカで植物人間になった患者が暴れ出したので、母親が手に持っていた睡眠導入剤を無理やり飲ませたところ男の意識が戻った、という実話があるのだそうだ。本書もこの薬をうまく使っている。

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