Vol.967 19年7月13日 週刊あんばい一本勝負 No.959


妄想の日々

7月6日 ドイツ語ではリュックサックだが、若者たちが街で背負っているデイパック。最近、東京に行くたびにこれを背中でなく腹にかけている人を多く見るようになった。30年ほど前、サンパウロの若者たちは10中8,9、このデイパックを腹掛けしていた。背負うと泥棒に背後から根こそぎ盗られる危険があるためだ。今は誰も腹掛けしてなかった。泥棒が減ったからではない。誰も現金を持ち歩かず、カード一枚で水もコーヒーも支払う「泥棒対策」が徹底したためだ。東京で腹掛けデイパックを見るたびに、外国人が多くなりひったくりが多くなったのかな、と思ったが、単なる流行なのだろう。昔のサンパウロでの日々を思い出してしまった。

7月7日 知らず知らずのうちに疲労が蓄積。今日は真昼岳山行で、数日前から張り切っていたのだがキャンセル。2日前からまるで意欲がわいてこないばかりか全身が怠くて眠い。昨日今日とずっと「動かず」「食べず」「横になって」いる。ヤバいなあと思うのは食欲がないこと。便通がないのと同じようにこれは怖い。何かの予兆シグナルなのだ。疲労も立派な病気だ。

7月8日 「頭の芯に鉛」状態で何もする気が起きず、2日間ひたすら横になっていた。それでも夜になるとや熟睡できる。過労による体調悪化とみて間違いないだろう。朝、起きてみると頭の鉛がするりと消えていた。夢も見た。ちょっと自慢気でワクワクする楽しい夢だった。友人たちと飲んでいると、ヒョイとやってきたのがハーフで美人の「親戚」で、みんなに「えっ、こんな有名な人と親戚なの」と驚かれる。その娘はタレントの森泉のようなキャラクターで、場が一気に華やかに……というだけの夢。お粗末です。

7月9日 近所の雑貨屋さんに急に行列ができた。若い女性たちだ。テイクアウトの飲み物(タピオカ?)が人気らしいのだが、オジさんには理由を尋ねる勇気もない。その先にある広面ラーメン・ロード(かってに命名)もとんでもない事態に。「一球」という店と「マシンガン」という店がラーメン・ロードの覇権を競っていたが異変が生じていた。「一球」有利の展開だったのだが、そこに突然、「多むら」という店がオープン。店内は無茶苦茶混んでいた。驚いたのは「一球」のほう。なんと店内に閑古鳥が鳴いていたのだ。食べたいとは思わないが、この戦いの結末はしっかり見届けたい。

7月10日 ブラジルに旅立つ直前、新聞に「折り曲げられる麦わら帽子」の記事。アウトドアのノースフェイス製なので買った。アマゾンの強烈日差し用である。狙い通りアマゾンでは1日中この帽子のお世話になった。今回の旅の一番の功労品かもしれない。これは山歩きにも汎用がきく。今年の夏はこの麦わら帽子でどこにでも出かけるつもりだ。

7月11日 フランスの別荘地で燐家の雄鶏の鳴き声が「騒音」だとして、別荘に夏の間だけ住む夫婦が雄鶏の飼い主を訴えたそうだ。飼い主は「鶏は田舎で歌う権利がある」と主張して裁判で譲らない構えだ。先日アマゾンで泊まった宿もまったく同じ状況だった。朝4時ころからけたたましい鶏の鳴き声が2時間半続き、それが終わると今度は犬がまるで耳元で吠えたてるようにキャンキャンうるさい。でもこれはその土地のあるがままの暮らしの一部だ。旅人は我慢するしかない。犬だって飼い主以外には必ず吠えるようしつけられている。泥棒社会なので吠えない犬は「生きる資格がない」とみなされるのだ。

7月12日 朝ごはんが済んで出舎するまでの30分ほど、書斎でロッキングチェアに揺られ、ボーっと考え事をする。これが最近の「至福の時間」だ。仕事場に入るととにかく目の前に起きていることに反応するのが目いっぱい。とてもじゃないが広く深く物事を考える、なんて芸当は無理になる。だから仕事場に入る前の「何もない空間」で過去・未来・現在を区別なく自由に妄想を羽ばたかせる。よしっ、これで今日一日がんばろう、と仕事場に向かうまで、この妄想の楽しみは続く。
(あ)

No.959

へろへろ
(ちくま文庫)
鹿子裕文

 おチャラけた書名なので、てっきり小説と思って手に取る人も多いかもしれない。サブタイトルの「雑誌『ヨレヨレ』と『老所よりあい』の人々」がなければ、新人作家の小説のタイトルと勘違いされてしまうのも無理はない。立派なノンフィクション作品であるが、個人的には書名にちょっと違和感もある。福岡の街で特別養護老人ホームを開設しようと努力する人たちの姿を描いた実録ルポである。著者はこのホーム実現のための広報(通信)編集を依頼された縁で、この介護施設と関わりあうようになった福岡在住のフリーライターだ。文体もなんとなく小説っぽいし、ユーモアのセンスも抜群だ。よく読むと本書の核心を担っている村瀬孝生と下村恵美子の二人こそが、この物語の主役であることがわかる。というか、この2人の存在があまりに大きいため、著者は自分の立ち位置が定まらないまま、右往左往している姿もちょっぴり想像できる。当事者でない分、著者は自由に対象と距離を取りながら、ある程度の客観的な観察も可能になったのかもしれない。だとしても最後まで著者の立ち位置はふらついたまま、というのが読者としては気になってしまった。でも下村か村瀬のどちらかが書いたとしても、これほど面白おかしく、ことの顛末は描けなかっただろう。本を書くというのは難しい。

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