Vol.507 10年6月26日 週刊あんばい一本勝負 No.501


快楽と病いの間で

日、月、火と3日間、仕事を休んで山に登ってきた。長野と新潟の県境にある雨飾山(1963メートル)で長野の小谷のキャンプ場から登り、下山は梶山ルートで糸魚川に下りてきた。行きはヨイヨイ、帰りはヘロヘロだったが、ケーレンに悩まされることもなく、翌日の筋肉痛もなかった。なんだかひとつ大きな山を越えた感じである(シャレじゃなく)。

3日間、仕事の連絡が取れない場所にいたのだが(ケータイがつながらないし、ケータイそのものを持っていないから)、秋田に帰ってきたら2件、友人の不幸なニュースが入っていた。一人はうちの著者で、親しくさせていただいてる仙台の人。くも膜下で倒れ、即手術、幸いなことに軽症なので後遺症はひどくなさそうなのが救いだ。もう一人は学生時代の後輩。昔から無明舎によく出入りしていた人で、秋田市で暮らしていたのだが、生まれ故郷に里帰りしたとき、心筋梗塞で倒れ、そのまま亡くなってしまった。

2人の友人の不幸を通して、考えてしまった。山歩きはいいのだが、ケータイを持っていないから誰とも連絡が取れなくなる。これはまずいなあ、と深く落ち込んでしまったのだ。ケータイ電話を持たないのは別に深い意味はない。今のままで不自由していないし、基本的には電話が嫌いなだけ。発売されたばかりのiphoon4 なんか音楽も聴けるしデジカメ代わり、PC替わりにも使えるので、いいなあア、と素直に思っている。が、実際に持ってしまった自分をシュミレーションすると道具に振り回され従属していく自分がくっきり見えてきて、とたんに億劫になり、ま、いいか、となってしまうのだ。

山を歩くのは大いなる快楽だ。その快楽を求めて遠くの山まで歩いていける自分の健康にはいつも感謝している。そのいっぽう同年代の友人たちが次々と病に倒れていく。快楽と死、いつもこの2つの間を、振り子のように揺れ動いている複雑な心境のなかにいる。自分の山行や健康を誇らしげに書き連ねれば連ねるほど、いわくいいがたい虚しさの闇に吸い込まれてしまう。
(あ)

No.501

東京島
(新潮文庫)
桐野夏生
書名がいいので新刊が出たとき買おうと思ったのだが、なぜか止めた。それから何年かたち、文庫本が出たので、ためらわず買い、読んだ。新刊が出た時になぜためらったか、本を読んでわかった。孤島に流れ着いた日本人や中国人たちが救出の見込みのない日々を東京島と名づけられた空間で繰り広げる物語だ。
あまりにシチュエーションが「おもしろすぎ」だし、日常からかけ離れている。ぶっ飛んだ非日常の物語は、こちらが嫌いなホラーと同じ。好きな作家なのだがそのへんでためらいがあり、買わなかったことを思い出した。日常のリアルから遠ざかれば遠ざかるほどフィクションの魅力は低くなる、というのがこっちの勝手な思い込みだ。まだ「幼稚な小説読み」なのだ。こちらの事情を言わせてもらえれば小説を読むのは「いま世界で何が起きているのか」を知りたいためだ。実利的な理由である。だから何も事件が起きない、淡々とした家庭物語は大好きだ。小津安二郎の映画のような小説が好みなのだ。それとはま逆の無人島群衆物語なのだが、女性作家がこうした舞台をどのように描くのか、そこが最も興味のあったところ。やはり重要な登場人物は女性に落ち着くことになる。

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