Vol.463 09年8月1日 週刊あんばい一本勝負 No.458


体力・書名・田中小実昌

 いやはや8月である。札幌に出張したり、「伊藤永之介を偲ぶ会」があったり、いろんな方と打ち合わせしたり、能代まで出版打診に出かけたり、ほとんど椅子を温めるヒマもないほど、外を飛び歩いた珍しい1週間だった。
 正直かなり疲れている。それでも先週の鳥海山登山は体力を温存するためにキャンセルしたのがよかった。あれを登っていたら、いまごろどこかに確実に疲労蓄積の影響が出ていただろう。

 秋に出る3冊の新刊の書名が決まらずに四苦八苦している。これまでの経験上、ある程度集中してその原稿やテーマに真正面に向き合えば、それらしき言葉はおのずと出てくるのが常だったのだが、今回はそう簡単にいかない。3冊とも小生の力量をはるかに超える実績と才能を持った方々の原稿なので、うわべをつくろうだけの言葉の羅列では、そのテーマの深さや面白さをうまく表現できない。本当に七転八倒している。誰か助けてくれないだろうか。

 そんなわけで好きな本を読む「余裕」もない。読みたいと買っておいた本は、仕事上の厄介な問題がひと段落したら、じっくり読むつもり。こんな時は短いエッセイでお茶を濁すしかない。ホテルのベッドで、事務所のソファーで、自宅トイレで、実はある作家の短いエッセイを集めた本を集中的に読んでいる。『田中小実昌エッセイ・コレクション』(ちくま文庫)である。全3巻で「ひと」「旅」「映画」と内容別に分かれている。旅で出るときは「ひと」、便所では「映画」、事務所では「旅」を読んでいる。ほとんど3冊の文庫本を同時進行で読んでいるのだが、抜群に面白いのは「映画」。ほとんど観たことのないB級映画が主なのだが、とにかく映画の評価の仕方が小実昌風で吹き出してしまう。観たこともない映画を見たいと思わせるのだから、これ以上の映画評はないのかもしれない。
 映画も本も人が簡単に殺されるものは苦手、と昔から広言してきたのだが、小実昌山も同じようで、その理由がふるっている。虚構の世界で殺人が起きるととたんに「物語が甘くなる」のだそうだ。なるほど、そうか。
(あ)

No.458

藤田嗣治――「異邦人」の生涯
(講談社)
近藤史人

 藤田嗣治の作品が多数展示されている秋田市の平野政吉美術館が、いま移転問題で揺れている。財団法人であり、県の権限がおおきな美術館だが、もともとの絵の所有者であった平野家側と県の見解の違いが移転問題の根っこ横たわっているようだ。それはともかく、私には長年消えない疑問がある。所蔵作品を描いた世界的な画家・藤田嗣治の名前の読み方である。これは世界的にも国内メディア的にもすでに結論が出ている。藤田の名前は「つぐはる」と読むのが正しく、画集のネームも、海外の表記も、自伝も出版物も、すべて「つぐはる」と表記されている。ところが秋田県だけはメディアも県民もいまだに「つくじ」と呼び習わしている。秋田ではこの世界的高名な画家の名前はあくまで「ふじたつぐじ」である。本書には秋田側のこの呼び方への言及はない。藤田と平野政吉は、この秋田市の美術館をつくる段階で決定的に決裂した、と本書では藤田の妻の証言から断言している。両者は犬猿のなかのまま永遠の別れをしてしまったのだ。大宅賞をとったこの作品のなかに平野政吉について触れた部分はわずか3ページほど。読み方はもちろん「つぐはる」で統一されているが、秋田の美術館そのものの存在を、藤田は認めていない、というのが事実のようだ。

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