Vol.1266 2025年4月5日 週刊あんばい一本勝負 No.1258

雨の日はレインコートで

3月29日 雨模様でうっくつの日々だったが、今日はちょっと寒いが青空だ。寒いのは風が強いからで、目には青空、耳に不気味な風の音。いつものようにあっという間に1週間は過ぎた。年寄りになると時間は矢のように過ぎていく、というが、これは本当だ。でも長く眠られず朝早く起きてしまう、という定説は信じがたい。いつも11時前後に寝て起きるのは8時過ぎ。たっぷり8時間は寝て、おまけに事務所で昼寝もする。睡眠の質まではわからないが、寝ることだけは若いころとほとんど変わらない。これはどうしたわけか。今でも早起き老人には、あこがれがある。

3月30日 TV番組「月曜から夜ふかし」が「中国ではカラスが飛んでない。すぐ食べてしまうから」という発言でもめている。リアルタイムでこの番組を見ているファンなので、この発言にはショックを受けた。もしそれが事実なら、ひと昔前、カラス対策で困っていた日本の自治体は当然のように、その中国の町に視察に行っていたはずだからだ。でもそんなニュースを聞いたことがない。秋田でも、象潟町あたりでは、本格的にカラス食糧化のための予算を組み、捕獲小屋までで作っていた時期もある。でもどう努力しても「食料」にはならなかった歴史があった。一瞬でも番組を見ながら「中国人なら本当にカラスでもおいしく調理しそうだ」と考えた自分が恥ずかしい。

3月31日 四方田犬彦『わたしの神聖な女友だち』(集英社新書)は、著者がこれまでの人生の途上で出逢った、敬服すべき女性たちの記憶をたどったエッセイだ。男女の恋愛劇とは無縁の、さわやかで読後感も清々しい「信頼関係を築きえた女性たち」との交流の物語といっていい。著者は私の4歳年下、若いころから映画関連の評論で名をはせてきた人だが、こんなにも交友関係の広い人物だとは思わなかった。登場する女性たちは、女優から作家、漫画家に学者、革命家や歌人、政治家にミュージシャンと多彩だ。ほとんどの人が名を成した有名人だが、逆に著者の高校時代や大学時代に知り合った無名の女性たちのほうが、この本では圧倒的に存在感があり、人物たちが生き生きと躍動していて面白い。

4月1日 4月に入った。新聞社の異動で新任の記者があいさつに来たりすると、ああ、新年度なんだ、と気が付いた。青空の日も多くなった。もうあの陰鬱な空も雪もない……とうまくはいかないだろうが、もう一波乱ぐらいで収めてほしいものだ。今月は3冊の新刊ができてくる。加えて週末は山歩きのシーズンだ。ワクワクするが体力は年々、目に見えて落ちている。熊の動向も気になるところだが、まあこれは共生するしかほかはない。

4月2日 意識的に何か月も連絡を取らなかったブラジル関係者にメールを入れたり、東京の出版仲間に電話をするのは、自分が閉塞感にさいなまれ、うつ状態だからだろう。新鮮でワクワクする空気を取り込むためだ。最近は、その周りの知人たちも高齢化でリアクションがいまいち鈍い。会話の最後は、最近亡くなった知人や友人たちの話になり、「お互い健康にね」と話は終わる。今も現役で仕事を続けているやつよりも、とっくに定年退職し隠居しているやつらのほうが圧倒的に忙しそうだ。これは一体どういうことなのか、私にはよくわからない。

4月3日 「私小説」に興味がないのだが、古くは阿部昭が好きだった時期もあり、あれが私小説、と頭の中では理解していた。最近、亡くなったばかりの西村賢太の遺作『雨滴は続く』(文春文庫)を読んだ。遺作である。巻末に「特別原稿」なるものが付記されていて、これを読んでひっくり返りそうになった。物語は無職の自称文学研究者・北町貫多が女性への懸想のままならぬ行方に煩悶しつつ、他者を罵倒、屈辱しながらの日々を綴ったものだ。ヒロインの地方新聞紙記者である葛山久子は悪態の限りを尽くして罵倒、凌辱される運命なのだが、そのヒロイン本人が、なんと文庫本の巻末に登場し、「親愛なる西村さんへ」という原稿を書いているのだ。フィクションではない。本物の人物である。作品の登場人物とは真逆に、このヒロインは西村と知り合って17年間、手紙のやり取りを通じて互いに信頼しあう仲のいい友人であることが明かされる。遺作だから(著者がいないので)できたことだろうが、読む側はショックに言葉を失い、「作家はウソつき」という事実の前に呆然とする。私小説は些細な日常を淡々と描いているように見せかけて、実はほとんどが作り話、という世界なのだ。私小説、恐るべし。

4月4日 雨の日が続いている。それでもルーチンは変わらず散歩には出る。レインコートを着て雨の中を歩いている人が、そういえば見かけることが少なくなった。レインコートはもう絶滅危惧種なのかも。雨の中を歩くとわかるのだがレインウエアーの丈の長さというのは重要な意味を持っている。長い時間雨の中を歩くと、腿から下はびしょぬれになる。レインコートではこれがないのだ。冷えのダメージがかなり少なくなる利点がある。
(あ)

No.1258

退屈な迷宮
(新潮社)
関川夏央
 ニュースで北朝鮮のことが報じられるたび、耳をふさいで目をそむけたくなる。嫌悪からではない。自分へのふがいなさのためだ。1986年、私は北朝鮮を訪れている。一般的なツアー事業が始まる前の「招待旅行」で、農業ジャーナリストという肩書で秋田県訪朝団の一員に押し込んでもらったものだ。その12日間は、いまも夢か幻かと思えるほど、浮世離れした、地に足のつかない、未だに総括不可能な、意味不明の日々だった。アジアや南米、ヨーロッパといろんな国を旅してきたが、この北朝鮮の旅ほど刺激的で、不可解な、旅を経験したことはない。その旅の現実を冷静に分析する能力もないまま、今に至ってしまった、というのが嫌悪の正体だ。北朝鮮はなぜ、今のような奇怪な政治体制を作り上げたのか。その端緒は毛沢東の文化革命だ、と本書では言う。紅衛兵たちから、金日成は反革命、という批判をうけ、危機感を覚えた金日成は、逆に中国に迎合するかのように「上からの文化革命」を自国で実践する。「主体思想」なるものも、古来からの朱子学に独自の幼稚な革命理論をまぶしこんだ、新興宗教に似た空疎なキャッチフレーズに過ぎない。農業政策の失敗によって経済破綻した国、というのが当時のかの国の歴史と現状だったのだが、そこをまったく見抜けなかった忸怩たる思いは、今も消えない。

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