36.  廃道になった登山道
 これから紹介する登山道は、一昔前はしっかり整備されていて安心して登れたが、今は荒れ放題、人間の手が入らなくなって登れなくなった登山道を紹介しよう。
 太平山の山々は秋田市内の山岳会や麓の集落の人々、営林署や県や市、高校山岳部の顧問たちによって、実によく整備されていた。
 1966年ごろの話だ。現在より50年前と現在とを比較してみると、その社会の変化には恐ろしくなる。例えば1966年、高校教師をしていた私の年収(手取り)は62万円だった。現在の8分の一くらいだろうか。車など使える人はいなかった。元気な子供たちが多かったのは大人たちにも将来の夢があったからだろう。さらに日本中が登山ブームに沸いていた。世界中に未踏峰や岸壁がいくらでもあったから登山に夢があった時代でもあった。
 生活が豊かになり一人一台の車を所有する時代になって、廃道の登山道が増えはじめた。

【皿見内口】
 秋田市太平の皿見内集落から中岳と鶴ケ岳をつなぐ稜線の中間に出るルートだ。
 野田口の無知志沢を沢登りしていくと最後の詰めはこの皿見内口とぶつかる。
 土地の炭焼きの人々が踏んでいるうちに道になったものらしい。中腹にある鶏鳴滝(290m)まではハイキングコースとして使われていたし、途中に牧場もあって牛がのんびり草を食んでいた。道は緩やかで登りやすかったので奥岳や中岳に登るルートとしてよく利用されていた。私が所属する秋田山岳会でも上部の雪渓を利用して、春になれば雪上講習会をおこなったものである。
 登山口から稜線まで3時間はかからなかった。
 1966年10月に秋田高校で第1回太平山全校登山を行なった。全校生徒が参加するのである。当時秋田高校は1500名以上の生徒がいたから学年別にコースを変えて登った。皿見内口は2年生が登った。私も頼まれて同行したのでよく覚えている。
 500名もの人間が一気に登ると、どんなに注意しても山道はすぐに壊れてしまう。旭叉口中腹にある御手洗の水も、大勢に踏みつけられ、すぐに濁ってしまったほどだ。
 私が赴任した米内沢高校では森吉山、秋田工業高校時代は太平山、秋田中央高校ではやはり太平山全校登山を企画した。生徒・職員には歓迎されたが、大人数登山で一挙に山道は荒れるので、以後こうした企画はしないことにした。
 それにしても当時の高校生は元気そのものだった。米内沢高校では1963年に第1回の森吉山全校登山を実施したが、現在の内陸線の比立内駅で下車、戸鳥内集落の登山口まで4km歩き、それから森吉山に登り、下りは森吉山ダムで沈んでしまった桐内集落まで平気で歩いた。20kmはあったと思う。今、高校教師がこんな山歩きの企画を立てたら父兄から訴えられるのは間違いない。
 
【寺庭口】 
 寺庭口は、太平の寺庭集落から仁別へ通ずる狭い車道を小黒沢川沿いに走り、途中で右手の山道に入る。
2007年発行の2.5万地図「太平山」にも登山道の鎖線が記入されているが、現在このルートは廃道になって久しい。
 この登山道は1965(昭和40)年、秋田市の矢留山岳会が創立5周年を記念して拓いたルートである。中心になったのは鈴木定男というユニークな山男だった。ほとんど彼と仲間たちによって整備されたといってよい。
 小黒沢沿いに道をつけ、途中に小屋まで建てていた。沢は大雨のたびに荒れるので誰でも登れるようにハシゴ、ザイル、巻き道などを作り導標もつけた。
 1966年9月には、このコースを使って県民体育大会山岳競技も行なわれている。
 標高380mの地点からは沢を離れ、中岳まで距離2kmのブナ林の急坂を登っていく。この急坂はきつい。沢の部分の距離を入れると登山口から中岳まで6km近くあるルートだ。
 鈴木さんが早逝したこともあってコースの整備もままならず、次第に登山者の足も遠のいてしまった。こうした「ルート拓き」に情熱を持つ山男はもう出ないのかもしれない。

【白子森】
 太平山系の最高峰は白子森(1179.1m)である。この山へのアプローチも長い。岩見ダムから阿仁合の比立内に通じていた林道を走ると、井出舞園地に着く。おいしい水が湧き出ているところである。
 ここから左折して井出舞沢の左岸につけられた林道に車を走らせる。この林道はおよそ9km延びているが途中4kmほどのところまで車が入れる。あとは人一人がやっと歩ける林道だ。標高650mの地点から右側の尾根に取り 付き急坂を300m登って950mの稜線に出る。
 ここから比較的なだらかな稜線を登るがルートは分かりにくい。途中、遭難慰霊碑が立っている。白子森に山道を拓くために努力した当時の国鉄職員のものだ。
 白子森頂上は平らな地形になっていて2等三角点がある。
 車を置いた地点が330mなので歩いた林道部分も入れて頂上まで距離6km、標高差850mである。
 稜線まで登れば見事なブナ林に迎えられる。動物の姿も多い。このコースを使って2001(平成13)年6月に全県高校総体の山岳競技が行なわれた。
 それから5年後に登ったときも登山道はまだ利用できた。最近は登山道もヤブ化して、一般の人が登るのは難しい。
 1985年9月、この山にははじめて一人で登ってみた。当時は車も林道部分をまだ走れた。歩いていると上からザザッと石が落ちてきた。なんだろうと見上げると、クマだった。
 
【萩形口】
 上小阿仁村の萩形集落は県内でも最奥の人里である。もっとも近い八木沢からでさえ8kmある。
 1822(文政5)年、阿仁の萱草・根子から11世帯が移住して拓かれた集落だ。
 江戸時代はここを通って太平山に登拝する人が絶えなかった。1962年ころは38戸、分校にも34人の子供たちがいて、元気に勉強していた。無人になったのは1970年だ。
 秋田市から登山口までは国道285号を走って上小阿仁村に入る。すぐに右折し八木沢、萩形ダム、萩形集落跡を通り抜け、萩形沢沿いの車止め(450m)まで行く。秋田市から75kmもあり、285号を離れてから27kmも林道を走らなければならない。
 ここから萩形沢に下りていく。沢を5ケ所ほど徒渉して、3km歩くとキンカ沢(660m)。ここから沢を離れて土地見平(850m)まで1.5kmを登る。笹森までは緩いブナ林を登ること2.1km。
 車を降りてから笹森までは標高差600m、距離6.6kmの行程である。
 かつては道もよく整備され、山菜も豊富で、静かな山旅を楽しめたルートだった。
 笹森から奥岳までは2kmほどの尾根歩きとなる。このコースを日帰りで奥岳まで往復するとすればハードな山行となる。
 毎年、初夏に行なわれる太平山の山開きに参加する上小阿仁の山人たちは、いまではこのコースを使えないので車でわざわざ旭叉まで来て赤倉コースを使い、笹森を踏んで奥岳に至るのだそうだ。

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