秋田藩領に入る
◇十二所からが秋田領
 六月十一日、花輪を発って銅山越え(注1)という道筋をたどった。銅山には家が七、八十軒もあるという。神田しんだ(注2)という村へ出たが、ここには南部領境の番所があった。
 ここから秋田藩領入口で番所のある十二所(注3)へ出た。旅人を改めるというので通行手形を見せた。そこから大滝(注4)という温泉のある所へ行った。南部領の大湯よりよほど良い温泉場で、それぞれの湯宿に内湯がある。温泉街は川に面していて、川端に温泉の滝が九本も流れ落ちているという。ここで湯治して、十三日に扇田(注5)という所へ行った。
 ここには松右衛門という浄瑠璃語りがいるので、毛馬内から手紙を出しておいたのだが、留守で会えなかった。
 ここから川を越えて大館(注6)まで行き、問屋場の向かいの越前屋という宿に泊まった。足軽で目明しを務める須藤半七殿を訪ねたが、久保田(注7)へ行っているとのことで会えなかった。
 十四日は、綴子つづれこ(注8)という所から坊沢ぼうざわ(注9)、小磐(注10)という所へ出た。ここの問屋場の秋田湊(注11)船木という問屋で、番頭を務めている佐兵衛が帳付けをしていて、久しぶりに会った。たまたまここに来ていたそうだ。
 この宿場から一里、渡し場のある荷上場にあげば()(注12)という所へ行ったところで雨が降り出して、ここで泊まることにした。その夜は大雨で、近辺に水が出た。
 大館から綴子へ行く道の途中に、「しりもうさん」という山があった。これは、江戸から御巡見様(注13)がおいでになった時、秋田藩の案内役に「向こうの山はなんという山か」とお尋ねになった際、案内役が「知りもうさん」と答えたので、御巡見様は「四里毛山」と手帳に書き留めた。それ以来「しりもうさん」と呼ぶようになったということだ。
 荷上場から切石の渡し(注14)という所へ行ったのだが、昨夜の大雨で川止めだという。それでもやっと小舟を頼むことができて、富根村(注15)、鶴形村(注16)を経て能代(注17)へ行くことができた。
 (扇蝶は前々から国に帰りたいと言っていたが、これは、越後の新潟の近くの和納という所に、たいへんひいきにしてくださった割元(注18)の伊藤新助様、中原俊次郎様と申される方がいて、そこに立ち寄ってから国元へ帰りたいと言うので、能代から国へ帰すことにした。扇蝶が土崎湊から便船があれば乗って行きたいと言うから、土崎の久四郎殿、安五郎殿、団次殿への手紙を持たせてやったのだが、我々が土崎湊に行くまで、引きとめられて久四郎殿の家にいた)

◇能代で七夕祭りに感激
 盛岡の源助殿からの紹介状で、能代では大和屋仕平殿と申す束ね役の家に落ち着いた。
 能代の柳町には遊郭が八軒ほどもあって、その中に三階建ての丸万八郎兵衛という遊郭があった。これは久保田城下の丸万庄兵衛殿の弟で、先年、我々が能代に来た折には、「江戸の堺町(注19)へ料理修行に行って、故郷に帰って来たばかりだ」といい、私と兄弟のように深くなじんだ人である。そのほか、羽右衛門、清右衛門、八郎兵衛殿など、江戸で言うなら奉行所の与力と同格の「差引役」という重要な役職のお手先となり、目明しを務めていらっしゃる皆さまが遊郭を営んでおられる。
 小林嘉兵衛と申される料理屋もあって、これは料理専門の店だ。
 十五日は祭礼で、踊り屋台などが出るので、近郷の村々からも見物客がたくさん来てにぎやかになり、その夜は一晩中屋台を引き回して歩き、寝つかれぬほどの騒ぎだった。
 能代に、玉屋柳勢の弟子で玉屋いろはという芸人がいて、これは三味線を弾くので踊りの屋台に乗るよう頼まれたという。十六日にあいさつに出向いた。
 秋田藩では幕府が定めた金銭(正金)が通用せず、百貫文から二十五文までの藩札(注20)が通用している。百貫というのは正金では八十文に換算され、十枚一綴りで八百文、一枚八十文で、二十五文札は正金なら二文(注21)くらいの価値になる。金札、銀札は上方から伝わったもので、久保田の御屋形様(藩主・佐竹氏)の財政方につながる久々知屋という人が発行していると聞いた。
 銭札は御町所並びに町家の富豪から発行されているという。これを「へら」という。正規の金銀と両替する時には、一両につき九貫二百文くらいが相場である。
 能代では春慶塗(注22)が名産で、お膳やお椀、硯のふた、酒杯、杯の台、そのほか印籠、櫛、こうがいなどがある。山打三九郎(注23)という一軒が有名で、ほかに偽物がたくさんあるが、それは早く色がさめてしまうそうだ。
 能代にお竹という芸者がいた。大淵彦兵衛殿と申される方の世話になっているが、この彦兵衛殿はたいへん世話好きで、木山を管理するお役人(注24)や町役人などの方々の座敷興行を取り持ってくださった。
 大和屋仕平殿のお世話で、柳町の善助殿という方の家で寄席興行をした。
 この近辺では、山瀬という風(注25)が吹く。江戸では東風になるが、この辺りではこの風を嫌う。船はもとより作物にも悪いといい、七日も続けて吹き続けるという。まことに寒い風で、人の体にもあたりさわりがあるということだ。能代へ来てから強風が毎日続くので、
○作物にあたる山瀬は大江戸の東風こちの身にまでしみ渡るなり

 七月一日から七夕祭りと言って、大狩万作と名付けた灯籠をこしらえ、五日までは町々を子供が持ち歩き、六日の夜はその年の年番の町の灯籠が出る。五つ(午後八時頃)には、高さ五丈八尺(約18b)、大きさ三間(5.5b)四方の山車に、神功じんぐう皇后の三韓征伐(注26)、加藤清正の朝鮮征伐(注27)、そのほかさまざまの形にこしらえて、一晩で五、六百本もろうそくを使うそうだ。鉦、太鼓、ほら貝などを吹きたてるが、太鼓は太さ五、六尺余、長さ六、七尺もある大太鼓をたたき、町を引き歩いて夜明けまで踊り騒ぐのである。実に珍しい祭りであるが、津軽の弘前、黒石から青森あたりにも同様の祭りがあるそうだ。
 年番に当たっていない町内からも加勢という灯籠をこしらえ、年番の町の灯籠に随行する。祭りの十五、六日前から若い衆が寄り合って灯籠に細工をし、それを段々と組み上げて地車に乗せ、曳き出す。これを「ねむた流し」(注28)という。
○みな人のねむたながしと申せども初めて見ては目がさむるなり

◇八郎潟を横目に土崎湊へ
 七月八日、土崎湊から久四郎という束ね役がやって来た。この人は、やはり「差引役」を拝命した目明しで、先年、我らが土崎湊の下酒田町という所にしばらく住んでいた時、兄弟同様にしていた人で、今回は我々に少し用事があったこともあって能代まで来たというので、十日に能代を発って、豊岡(注29)という所から鹿渡かど(注30)という所へ出て、一日市ひといち(注31)という所で泊まった。
 この近くには八郎潟(注32)といって、縦七里、横八里の潟がある。(男鹿の)山(注33)を見渡して絶景である。この潟で一尺二、三寸もの大きな鮒が獲れるそうだ。ごりという魚もいる。これを八里の潟の濁り魚と自慢している。
 ここから土崎湊へ行った。
 土崎湊では、新柳町の目明し団次殿の息子で、富次郎という方の家に落ち着いた。この団次殿というのは、市川団次という役者で、妹は小佐川常世という人の女房になって津軽に住んでいるという。団次殿はまた大内屋という遊郭を営んでいて、この土地の束ね役でもある。
 前に来た時には、遊郭は上酒田町、下酒田町の表町という所にあって、みな借地だった。万屋周助殿が我らと相談して、お上(藩庁)へ「浜近くに替地をたまわりたい」とお願いした。ところが、浜近くには稲荷町といって船乗り相手の遊女がいてだめだというので、この新柳町を替地として下されたものである。
 その節、私は江戸の母親が病気だというので急に江戸へ帰ってしまった。だからこの新しい町には、弟子の梅橋という者を残しておき、芸者の見番をするよう周助殿にお願いしておいたのだが、ほどなく梅橋も江戸へ帰ってしまった。
 その当時は大変繁盛して、丸喜安五郎、幾都という盲人の店、辰亭、萬屋、上ノ筆屋、下ノ筆屋、「山久」こと久四郎、大内屋雷助などが遊郭で、そのほか料理屋の安田屋には梅子という女役者や、千右衛門という役者などが多数いた。染吉という女芸者は、伊達様のご領分(仙台藩領)から来た源蔵という我らの弟分の女房で、源蔵が十七年前に病死して未亡人になってから揚屋を営んでいたが、今年、源蔵の十七回忌の法事をしてほどなく染吉も亡くなってしまった。
 奉行所と差引役のお手先を務める目明しが土崎にはたくさんいて、久四郎、安五郎、山嘉、梁川屋などは差引役でもあり、奉行所の町方では団次、大坂辰、菓子安などが目明しを拝命している。
 その昔の表町にも、未亡人と称して隠れ女郎がたくさんいたが、当時は取り締まりがことのほか厳しく、ちっとも商売にならなかったと聞いている。今では、表町では料半という店だけが残っているそうだ。
 船問屋(注34)は舛木、船木、川口などを頭領として、そのほかに付け船小宿(注35)がたくさんある。
 上ノ筆屋という遊郭の息子で嘉吉というのは、以前に足袋や股引の仕立てを修行したいと言って私を訪ねて来たことがある。それで江戸の芝田町の玉屋という足袋屋に奉公修行をお願いしておいたが、今は帰国しているというので、早速あいさつに行った。筆屋の旦那は後藤彦市殿といって、大番組(注36)の隠居である。とても親切に話をしてくださった。
 このように昔からなじみのある所なので、毎日座敷興行があって、八月ごろまで遊び暮らしていた。そのほか、問屋の船木、舛木、根布屋などの座敷へ行って一席うかがった。
 酒田町と表町の角に、見性寺というお寺がある。私らが土崎湊で母親同様に親しくしていた、近藤源八という人の妹の「おみん」という人の菩提寺で、お盆には寺参りをして、法事をおこなった。
 山屋敷という所に、祖師という石の仏様がある。昔はお堂も何もなくて、原っぱに石仏が立っているだけだったが、近年、一眼という信心者がこれを取り立ててお堂を建立し、最近は釣鐘も造った。たいへんにご利益があるというので、病人などはこのお堂に十七日、あるいは二十七日もおこもりしている。山屋敷というのは、問屋衆や富裕な商人の別荘がある所で、遊山にもよいというので年ごとににぎやかになっている。実にありがたい仏様である。
 (扇蝶はいよいよ国元へ帰りたいと言い出し、七月二十日に本荘という所までの便船があったので、喜安五郎殿の番頭の半次殿から庄内酒田への手紙を書いてもらい、旅立たせることにした。ところが酒田から、前に扇蝶が手紙をやっておいた馬生の門人の馬久二という者が来たという。この人は、酒田今町(注37)の亀屋四郎右衛門という人の娘を女房にして、江戸まで連れて行った人で、このほど、女房の国元に帰って来ていたという。庄内はお国替えの騒ぎ(注38)で大変混乱しており、御公儀のお役人が入り込んでいて、それで旅人は一泊しか許されないということだ。扇蝶は、酒田の馬久二に、ゆうゆうと二、三日は逗留してから越後へ出発したいと手紙に書いていたのだそうだ)
○尊さよ石よりおもき大願をきかせ玉わる祖師の御姿

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注1 銅山越え=花輪から大館へは、盛岡から来る鹿角街道を通るのが普通だが、それは米代川の右岸を錦木塚の方へ行くことになる。花輪からすぐに米代川を渡り、西の尾去沢銅山の方へ向かうのが銅山越えの道筋で、米代川の左岸を北へ向かう。

注2 神田=鹿角街道の宿駅で、この辺りから街道は西へ向かう。銅山越えで尾去沢まで行くと、そこから藩境の最後の集落である土深井どぶかいへ通じる道があるが、神田へ出たということは、尾去沢までは行かずに北へ向かったと思われる。神田も土深井も現在は鹿角市。

注3 十二所=鹿角街道の宿場。秋田藩の境番所があり、茂木氏の所領だった。大館市。

注4 大滝=古くからの湯治場で、佐竹藩主が湯治に来た記録もある。大館市。

注5 扇田=羽州街道の宿場。陸路では、銅山のある阿仁方面への分岐点だが、50石積の舟が発着する川港があり、水運の基地としても繁栄した。大館市比内町扇田。

注6 大館=佐竹四家のうち、西家の城下町。江戸初期の「一国一城令」で秋田藩内の戦国時代の城は次々に破却されたが、戦国大名浅利氏の居城だった大館城は、秋田藩領南部の横手城とともに、存続を許された。「一国一城令」への佐竹氏の迅速な対応に感心した2代将軍、徳川秀忠の配慮と言われている。大館は、北の弘前藩(津軽氏)への備えという意味もあり、佐竹氏の一族を城代とした重要地だった。

注7 久保田=秋田藩庁のある、佐竹氏の城下町。現在の秋田市。

注8 綴子=羽州街道の宿場。津軽氏の参勤交代の際の本陣が置かれた。北秋田市綴子(旧鷹巣町)。

注9 坊沢=羽州街道の宿場。北秋田市坊沢(旧鷹巣町)。

注10 小磐=小磐という地名は見当たらない。坊沢宿の次は小繋。原書を解読する際に「繋」を「磐」と読み間違えたのではないか。次の荷上場宿までは米代川を舟で行くこともでき、その間が1里あったので「一里の渡し」と言われた。能代市二ツ井町小繋。

注11 秋田湊=雄物川の河口、土崎湊のこと。

注12 荷上場=羽州街道の宿場。米代川と、支流の藤琴川の合流点に位置する。小繋宿から行くと、荷上場は藤琴川を渡った所で、「渡し場があり」と書いていることから、語佛師匠の一行も舟で荷上場に着き、そこで大雨に遭遇して泊まることになったのだろう。能代市二ツ井町荷上場。

注13 御巡見様=幕府巡見使のこと。将軍の代替わりの時、各地へ派遣され、大名領を視察・見分して幕府に報告する臨時の役職。この報告によって治政の乱れをとがめられて所領没収となった大名もあり、巡見使は恐れられた。しかも藩主や家臣とは接触せず、村役人や領民から直接訴えを聞くため、視察を受ける大名側は対応に苦慮した。あらかじめ想定問答集を作って村役人に渡しておき、それ以外の質問には「知らない」と答えるよう指示していたことが多く、盛岡藩の馬の放牧地で、「冬の間は馬をどうしているのか」と尋ねられて「知らない」と答え、さらに馬を指して「あれはなんと申すのか」ときかれたのにも「知らない」と答えたとの笑い話が記録されている。語佛師匠が書き残した「四里毛山」も同様の逸話である。

注14 切石の渡し=米代川の渡し場。これを渡ると羽州街道は米代川の左岸を進む。能代市二ツ井町切石。

注15 富根村=羽州街道の宿場。能代市二ツ井町富根。

注16 鶴形村=羽州街道の宿場。能代市鶴形。

注17 能代=米代川河口の港町。『日本書紀』にも記録が残る古い港で、豊臣秀吉に献上する秋田杉をここから船積みするなど、木材の集散地として栄え、江戸時代には奉行所が置かれた。鶴形から羽州街道をそのまま進むと、南下して秋田へ至るので、語佛師匠の一行は米代川左岸に沿う道をたどって能代に入った。
現在のJR奥羽本線は東能代で五能線に接続し、次の駅が能代だが、江戸時代の羽州街道はずっと南の森岳(三種町)に近い金光寺で能代街道(津軽に入って大間越街道と名が変わる)が分岐し、羽州街道よりも日本海に近い道筋で秋田と結ばれていた。

注18 割元=数カ所の村を支配する大庄屋で、行政の末端に位置し、年貢や諸役の割り当てを行う役目。武士に準ずる身分を与えられていた。

注19 江戸の堺町=日本橋の近くで、歌舞伎の中村座があり、中村座に所属する大小の料理茶屋が並んでいた。このうち16軒あった大茶屋は一流の割烹店の格式で、大名の江戸留守居役や、大店の旦那衆を客にしていた。能代の丸万八郎兵衛が「堺町へ料理修行に行った」というのは、どこかの料理茶屋で修行したのだろう。
堺町には人形店も多く、また操り人形芝居が近辺で行われたこともあって、後に人形町の名ができたが、天保12年(1841)10月7日、堺町の中村座と隣町の葺屋(ふきや)町の市村座が火事で焼け、天保の改革の余波で翌年7月、芝居小屋は浅草猿若町へ移転させられた。
「奥のしをり」の道中記は仙台に到着した天保12年10月28日から始まっているが、江戸から仙台までの日数を勘案してみると、中村座の火事の後に江戸を出発したと思われる。さらに想像をたくましくすると、中村座や市村座のある通称芝居町には見世物小屋や寄席も多かったので、それが火事でなくなり、何かと息のつまる天保の改革にも嫌気がさして、語佛師匠は懐かしいみちのくへの旅を思い立ったとも考えられる。

注20 藩札=秋田藩で藩札を発行したのは4回。語佛師匠が手にしたのは、天保の飢饉を救済するために天保11年(1842)3月に発行した2回目の藩札である。この藩札は、秋田藩の御用商人である大坂の久々知屋吉兵衛を秋田に呼んで発行させ、嘉永4年(1851)8月まで使用された。

注21 二十五文札は正金なら二文=百貫文が80文という換算率からすれば、2文は安すぎる。「20文」と書くべきところを間違えたのではないか。
なお、銭1貫文は1000文が正規だが、秋田では銭100枚にひもを通してまとめた形(百貫文)で流通していた。余談だが、秋田には松の枝に10文か20文を指し連ねたものを「ヤセ馬」と称して、正月に子供にやる風習があったという。百文でまとめるのが通常なのに、10文、20文でひとくくりなのを「痩せた馬」と言ったのだろう。

注22 春慶塗=ウコンの根から採る黄色い汁で木地を下塗りし、その上に透明の漆を塗り重ねて、木地の木目を見せるように仕上げた漆器。ちなみにウコンは、スパイスの名としてはターメリックで、カレーの色となる。

注23 山打三九郎=能代春慶塗は飛騨の工人、山打三九郎が始めたという説がある。戦後の無形文化財に指定された石岡家の伝承では、越後から来た石岡家の祖、越後屋庄九郎が宝永年間(1704〜10)にこの技術を完成させたとされている。ほかにも能代春慶塗の起源説があるが、「奥のしをり」で山打三九郎の名を出していることは注目される。

注24 木山=米代川流域をはじめとして秋田藩内には、杉の美林が広がっていた。この林務を監督するための役所を木山方(きやまかた)と言った。その公式記録を「以来覚」(いらいおぼえ)と言い、「能代木山方以来覚」など各郡単位の記録が現存している。

注25 山瀬という風=「ヤマセ」は、岩手県の三陸地方に冷害をもたらす北東の風として知られる。秋田県では奥羽山脈を越えて来るので風が弱まり、必ずしも冷風とは限らない。東風だしとも呼ばれ、田沢湖の辺りでは豊作をもたらす風と、民謡「生保内節」で歌われる。

注26 神功皇后の三韓征伐=夫である仲哀天皇が急死したため、これに代わって朝鮮半島の新羅に攻め入って新羅王を降伏させたと『記紀』に記されている伝説上の人物が、神功皇后。その時、妊娠していて、帰国後に応神天皇を産んだという。史実ではないが、4世紀ごろの日本と朝鮮半島の関係から作られた物語という歴史学者もいる。この説話に基づいて、神功皇后は航海の神である大阪の住吉大社の祭神とされている。

注27 加藤清正の朝鮮征伐=豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、最も激戦を演じた武将の1人が加藤清正。その豪勇ぶりが「虎退治」などの逸話を生んだ。

注28 ねむた流し=青森のねぶた祭りと同様の七夕の行事。能代では、坂上田村麻呂が米代川に灯火を流して蝦夷を誘い出したとの起源説がある。巨大な楼閣を作って市中を引き回すのが呼び物で、最終日には灯籠の上のシャチ飾りをおろしていかだに乗せ、米代川に流す。「奥のしをり」では「ねむた流し」と表記しているが、現在は「ねぶり流し」、あるいは「能代のねぶながし」と呼ばれている。また、「奥のしをり」で引き回す楼閣の高さを約18bと書いているが、これは現在のものよりかなり高い。

注29 豊岡=羽州街道の宿場。三種町豊岡金田(旧山本町)

注30 鹿渡=羽州街道の宿場。三種町鹿渡(旧琴丘町)

注31 一日市=羽州街道の宿場。八郎潟町の中心地。秋田県3大盆踊りのひとつ、一日市盆踊りで知られる。

注32 八郎潟=かつては琵琶湖に次いで、日本で2番目に大きな湖だった。昭和32年から20年をかけた干拓事業で約8割が陸地となり、大潟村が誕生した。

注33 山=男鹿の山(寒風山)のこと。八郎潟の向こうに見える。

注34 船問屋=寄港した回船と商品を取り引きする問屋。

注35 付け船小宿=回船の船乗りが宿泊し、彼らが個人的に持ち込んだ小口の商品売買も行う。

注36 大番組=武士の役職で、戦になれば藩主の本陣を固める軍事職だが、平和な時代にはほとんど名誉職となっていた。そのご隠居が遊郭の旦那となり、落語家と親しく話すというのは、さばけたものだ。

注37 酒田今町=一流料亭が並び、お得意様の北前船の船頭を迎えた回船問屋が、「入船祝い」と称してどんちゃん騒ぎをやったといい、「花の今町」と言われていた。江戸時代の料亭「相馬屋」の後継である「相馬楼」のある、酒田市日吉1丁目辺り。

注38 お国替えの騒ぎ=天保11年(1840)1月、幕府(内実は天保の改革を実施した老中・水野忠邦)が突然に発した三方領地替えの騒動。庄内藩14万石の酒井家を越後長岡へ、長岡藩7万石の牧野家を武州川越へ、川越藩15万石の松平(大和守)家を庄内へ移すという命令だった。理由は不明で、石高を半分に減らされる庄内藩では、領民が江戸へ上って直訴するという反対運動まで起きた。反対運動には酒田の豪商、本間家の尽力があったという。この領地替えには幕閣内にも異論が出て、天保12年7月、将軍徳川家慶(いえよし)が水野忠邦に幕命の撤回を指示して収束した。
しかし「奥のしをり」の旅は、領地替えが撤回された後なのだが、水野老中は、庄内藩主・酒井忠器ただかたの江戸城内での格式を下げ、庄内藩の預かり地としていた2万7千石を取り上げて天領に組み入れ、多額の費用がかかる印旛沼干拓工事の手伝いを命じるなど、あからさまな報復措置をとった。また、領民の反対運動の実態を探るために隠密を派遣するなどの策謀を続けた。庄内藩でも、藩と反対運動の領民との関係を示す資料が幕府に知られることを極度に恐れた。つまり、幕府隠密を防ぐために、領内を通過する旅人には1泊しか許さなかったのである。ちなみに、この騒動の詳細が史書に登場するのは大正時代になってからだ。
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