八戸(現青森県)から鹿角(現秋田県)へ
※図版は省略しています
◇末の松山を見物
 五月八日、盛岡を出立して、その夕方には沼宮内ぬまくない(注1)という所に着いた。
 (馬好が岩谷堂にいた頃から病気になり、国元へ帰りたいと言っていたので、盛岡から帰した)
 沼宮内では、広田屋という宿屋に泊まった。岩谷堂の清兵衛殿から「沼宮内では、近江屋駒吉という人を訪ねなさい」という手紙をいただいていた。この人は当地の富裕な方で、今は隠居しているが、俳諧などをたしなみ、いたって風流なお方だということだ。また、束ね役は喜兵衛殿と申されて、昔はしばらく江戸におられた方だ。このお二人の世話で三晩座敷興行をしてから、十一日に一戸いちのへ(注2)という所に泊まった。
 (沼宮内から一戸へ行く途中に、小繋(注3)という番所があった)
 この辺りでは七町を小道一里といい、四十八町を大道一里、または一塚(注4)といい、まことに遠く感じられる道のりだった。
 十二日は、福岡(注5)へ出るのに「末の松山」(注6)を越えた。ここにはその昔、波が越えたという跡があった。ここの松は残らず葉が三枚(注7)で、いかにも波が越えた跡に見える。ここから八戸の入口の観音林かんのんばやし(注8)という所まではずっと登り道で、ほんとうに難渋する。「末の松山」から観音林までの間には清水ひとつなく、この辺りではわらびの根を掘って「根花」という物を作るそうだ。
○波越へし昔に今はひきかへて清水だになき末の松山
※スケッチ1=末の松山の峠道

◇魚類が豊富で安い八戸
 十三日、八戸(注9)に到着した。
 (八戸には、松前の竹田甚太夫という人の子分の者が来ていた。竹田甚太夫は前々から扇蝶が心安くしていた人で、養子になって講談をやめ、この当時はよき一家の主となっていると聞いていた。子分が言うには、(甚太夫が)自分でお訪ねしなければならないところだが、松前はことのほか不景気で、その上に、旅人が船で渡るのは難しいというので、松前まで行こうと思っていたのだが、それはやめることにした)
 八戸の馬喰町の曲師屋林兵衛殿という方へ、盛岡の灯燈屋弁吉殿(文字八幡の兄)からいただいた手紙を持ってお訪ねし、二晩林兵衛殿の家に泊まり、十五日からは荒町の束ね役、清兵衛殿の家に引っ越した。
 八戸の願主は松太夫という方である。この人は、何年か前に江戸の麻布十番仲町の万屋という方の家にいたことがあり、私も心安くおつきあいしたことがある。
林兵衛殿の娘婿で河内与兵衛という方はたいへん世話好きで、座敷興行などを取り持ってくださり、そのほか、市兵衛殿の西町屋という繁盛している店へ行って、そこの番頭の惣助殿と仲よくなった。この市兵衛殿は、実は河内与兵衛殿の伯父さんである。
 鬼柳様と申されるお屋敷へも行ったが、ここには八戸藩の御家老のお身内の方がおいでになるということだった。八戸の南部様はご隠居になられてから(注10)、たびたびこの屋敷へおいでになるそうで、それはご家中の皆様も知っていらっしゃるとのことだ。
 八戸はことのほか魚類が豊富で、目の下一尺ほどもある鯛が百五十文くらいで手に入り、鯖、鰯などは一文で十尾も買えるほどだ。
 このところ夕立の日が続いていたが、与兵衛殿、そのほか市兵衛殿、惣助殿が同道して湊(注11)というところへ行った。城下から一里ほどの場所である。遊郭が多数あり、大谷屋という店に泊まった。与兵衛殿の女房はお熊さんといい、元は遊女で「あら熊」というあだ名だったとか。酒をよく飲み、三味線なども弾いて面白い女性である。ここの遊郭はみんな未亡人がやっていて、藩の御家中や町の富豪の世話になっている。
 そこから佐女さめ(注12)という所へ行った。ここにも遊郭が十二軒あるという。
 湊は鰯網を引き、油を搾る所で、藩の魚油役所がある。ここには芸者(注13)はおらず、遊女がみんな三味線を弾く。そこで「かまどがえし」(注14)という唄を歌ってくれた。道中節の類かと思うが、少し違うようだ。サビのところで琴が入る。海辺を見物したが、まことに風景のよい所だ。
※スケッチ2=八戸湊の風景

 林兵衛殿、松太夫殿、与兵衛殿、そのほか十五人で石手洗という村の川原へカジカ(注15)を聞きに行った。名主の家で大騒ぎして、与兵衛殿の女房の「お熊」さん、ほかに遊女が二人ほど来て夜を徹して楽しんだ。
 その帰りにまたまた湊に寄り、佐女にも行って川口屋というのを訪ね、「山ヨ」という店に泊まった。この辺りは東回りの船(注16)でたびたび江戸へも行くといい、たばこ、茶などを江戸から持ち帰り、私の弟子、都々逸坊扇歌が作った都々逸の本があった。盛岡などよりも八戸の方がかえって江戸が近いのである。
○台所唐人までもうかれなんわがひのもとのかまどがえしに
○取り組みてさておもしろし金時も酒の相手に負けぬあら熊

◇鹿角に入る
 二十七日に八戸を発ち、櫛引村(注17)から苫森村(注18)、剣吉けんよし村(注19)を経て三戸さんのへ(注20)に出た。ここでは湖東屋利八殿という宿に泊まった。この人は近江の人で、ここに来て酒造業を始め、今は宿屋もしている。
 お代官の役人、佐藤佐仲殿と申される方は盛岡の船越助五郎様に御縁のある方で、我々のことを知っていると申されて、二、三日とどめられ、その間、三晩座敷興行をした。
 大雨で出発できかねたという事情もあって、六月一日に三戸を出発し、田子たっこ(注21)という村を経て関(注22)という村に泊まった。
 六月二日は、御番所のある夏坂(注23)を過ぎて、そこから雷幡峠(注24)という所にさしかかった。この峠は難所で、登りが六里、それから山中を三里という所に一軒家があった。そこから半里ほど登り坂で、やっとここから下り坂になった。山の中は虻が多くて、夏の日中は人の往来がなくなってしまうそうだ。我々が通った時には、雨模様で虻も少なかったとはいうものの、やはり峠越えは難渋した。
 峠からは鹿角の毛馬内(注25)という所を一望できた。この辺りは日が差していても寒く、六月だというのに綿入れを着ている。田んぼなどもやっと今頃一番草を取っている。八戸に比べると、この辺りの家は軒下が広く、巾が一間もあるという。これは雪の季節には通りの往来ができなくなるので、誰でもが軒下を歩く(注26)からだ。雨が降っても傘は不要で、傘を持っている家は珍しいという。
 この辺では、「うるい」(注27)というものを漬物にする。また「みず」(注28)という菜がある。これは蛇草うわばみそうとも言って、水清らかな沢に出るもので、これも漬物にするが、「みずとろろ」と言って、たたいてとろろのようにしても食わせてくれる。山ではいちご(注29)がたくさん採れて、売り歩いている。
 そこから大湯(注30)へ出て、ここで一泊した。ここは温泉があり、上ノ湯、下ノ湯、川原ノ湯と三か所の湯宿があるが、思いのほか荒れ果てていた。
 三日は、毛馬内の剣術師範で二百石取りの山本九市郎様というお武家を訪ねた。これは盛岡の左官、鉄之助殿からの紹介状をいただいていたからだ。
 毛馬内では、畳屋の新之丞という方のお世話で、木村屋喜兵衛という宿に落ち着いた。ここで座敷興行などをして、七日に花輪という所へ向かった。
 毛馬内から一里ばかりの所に、根勢大明神というお宮があった。ここは「今日の里」という所だそうだ。スゲで細かく編んだむしろが名産品である。
 ここから半里ほどで、歌枕の「錦木塚」(注31)がある。
 (錦木塚の由来は、あとで詳しく述べる。ここでは、ただ道筋なので書き記しておくだけにする)
 錦木塚は往来の傍らに樹木が生い茂り、その中にある二抱えほどもある大きな石で、馬をつなぐ場所があった。
※スケッチ3=錦木塚

 花輪(注32)では、東屋新助殿と申されるお人の家へ行った。この人は、盛岡の宮両助様のお手紙によると銅山(注33)の支配人であらせられる。
 専正寺という寺で三晩座敷興行をした。
 花輪は、赤根染、紫根染(注34)が名産で、それぞれの家で染物をして、鹿子、らせん絞り(注35)、そのほか無地などいろいろと染めるのがまことに見事だ。
※スケッチ4=赤根染、紫根染

 花輪滞在中は、毎日のように夕立が降り続いた。

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注1 沼宮内=奥州街道の宿場。岩手郡岩手町の中心部。

注2 一戸=奥州街道の宿場。二戸郡一戸町。

注3 小繋=一戸町小繋。盛岡城下から北の奥州街道で最初の番所があり、旅人と物資輸送を監視していた。今は番所跡の標柱がある。なお「奥のしをり」ではもっと後に小繋の記述があるが、道順に従ってここに移した。

注4 一塚=「塚」は1里塚のこと。江戸時代の1里は通常36町(約4キロ)でこれを「大道」、6町(655メートル)で1里を「小道」という呼び方があり、仙台領内ではこの距離だったが、盛岡以北ではもう少し長い道のりを大道、小道の1里としていたのだろう。48町で1里は5`をはるかに超える道のりだから、次の1里塚までを語佛師匠が「まことに遠く感じられる」と言ったのも無理はない。

注5 福岡=奥州街道の宿場。岩手県二戸市の中心部。戦国時代末、豊臣秀吉に反旗を翻した九戸政実が九戸城に立てこもり、10万人とも言われた討伐軍のために、籠城した5千人が皆殺しになった悲劇の地でもある。市街地中心部から少し南にその城跡がある。

注6 末の松山=歌枕。『古今集』の「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山浪も越えなむ」(あなたがいるのに、ほかの人に心が移るようなことがあれば、末の松山をさえ波が越すでしょう)という、固い契を約束した歌に登場するが、この歌を本歌とした清原元輔(清少納言の父)の歌、「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは」(互いに泣きぬれながら固く契りあったあの時のことをお忘れではないでしょう。末の松山を波が越えるなどという恐ろしいことは、私に限ってけっしてありません)によって有名になった(清原元輔のこの歌は百人一首にも採られている)。
ただし、「末の松山」と言われる場所は2か所ある。
1か所は、宮城県多賀城市で、末松山宝国寺に、海辺に近いが決して波をかぶらないと言い伝えられている松の木があり、芭蕉も『おくのほそ道』の旅でここを訪れている。
もう一カ所が、「奥のしをり」の旅で、語佛師匠が通った一戸から二戸の境にある峠道。美しい縞模様の地層が露出していて、それが波のように見えることから「浪打峠」と呼ばれる。地質学上はこれを「浪打峠の交差層」といい、また「末の松山層」とも言われる。歌枕ができた平安時代には、都の歌人には未知の地だったはずで、いつ、だれがこの地層から「末の松山」を連想したのかはわからない。しかし、奥州街道が整備された江戸時代には、浪打峠を「末の松山」とする説が一般化していたのだろう。浪打峠は今も自動車の通れる道があって、峠の頂上近くに、盛岡城下から15番目の1里塚が現存している。

注7 松は残らず葉が三枚=松の葉は通常2枚ずつ出るが、高野山の空海ゆかりの松はまれに3枚の葉があり、見つけると縁起が良いと言われている。浪打峠の松の葉が残らず3枚というのは、非常に珍しい。

注8 観音林=岩手県軽米町。福岡の少し先の堀野から八戸へ通じる「登り街道」が分岐している。福岡から見れば「八戸街道」だが、八戸藩主が参勤交代で江戸へ登る道筋だったので、通称としてこの名が明治以降も使われた。二戸市と軽米町の境界の猿越(さるごえ)峠を過ぎて最初の集落が観音林で、すぐ手前に一里塚が残っている。「登り街道」は、ここから現在の八戸市に至る。
 ここで気になるのは、「ずっと登り道」で、 「末の松山から観音林までの間には清水ひとつなく」と語佛師匠が書いていることだ。浪打峠から福岡までは下り道だし、浪打峠を過ぎて少し下った所に、明治天皇が野点に使ったという「山下清水」が今もあり、その先の二戸市村松地区には「桜清水地蔵」がある。つまり、語佛師匠の一行は、一戸から2里弱の福岡宿には寄らず、ずっと東側の山道をたどって猿越峠を目指したので、登り道が続き、途中にのどの渇きをいやす清水もなかったのではないかと考えられる。そして、八戸に着いたのは13日なので、一戸を発った12日はどこかに一泊したはずだが、それはどこなのだろう。八戸藩主が江戸へ登る時の御仮屋(おかりや)があった観音林だろうか。

注9 八戸=八戸藩の城下町。八戸藩も南部氏だが、盛岡藩の支藩ではない。盛岡藩10万石の2代藩主、南部重直は寛文4年(1664)、後継者を決めないまま死去した。幕府の法に従えば「無嗣断絶」とされても仕方なかったが、名門南部氏の名跡を惜しんだ幕府は2万石を取り上げ、重直の弟、重信に盛岡藩8万石を継承させた。そして取り上げた2万石を、その下の弟で母方の姓を名乗り、わずか2百石の藩士だった中里数馬に与えて新しい大名に取り立て、八戸を領地として与えた。これが八戸の初代藩主、南部直房である。ところが、「直房がいなければ、盛岡藩は10万石だったはず」という、奇妙な逆恨みを持つ盛岡藩士のために、直房は2年後、暗殺されてしまう。
こうした経緯から、八戸藩は盛岡藩に追従しない独立心が強く、名君が続いたこともあって、戊辰戦争の際には秋田藩に攻め込んだ盛岡藩と距離を置き、最後まで戦争に参加しないなど独自の領国統治を続けた。

注10 ご隠居になられてから=八戸藩の歴代藩主で、「奥のしをり」が書かれた時期に隠居として該当する人は見当たらない。2万石の小藩なので藩主と家臣の距離が近く、隠居してからは気軽に家臣の屋敷を訪ねた藩主がいたということなのだろう。

注11 湊=八戸市湊町。新井田川にいだがわ河口の高台は、江戸時代は、回船や漁船が出港する際に沖の天候を見る日和山ひよりやまだった。ここから海寄りの現在の八戸港一帯は、埋め立て地だ。

注12 佐女=八戸市鮫町。湊から海岸線を東へたどり、ウミネコの繁殖地として知られる蕪島かぶしまのある辺り。江戸時代は佐女とも表記されたのだろう。蕪島は昭和18年に埋め立てられて陸続きになった。

注13 芸者=これまでも何回か「芸者」が登場しているが、踊り、三味線、唄を生業とする芸人のこと。遊女ではない。八戸の湊には専門の芸者がいなかったので、遊女が三味線も弾きこなしたのである。

注14 かまどがえし=「かまどを返す」とは、財産を失くすということ。「道中節の類か」と言っているが、どんな歌詞、メロディかは不明。内容は、民謡「会津磐梯山」の合いの手で「小原庄助さん、朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上しんしょうつぶした」と謡われるのと同じように、財産を失くした間抜けさを面白おかしく物語ったものかと思われる。

注15 カジカ=カエルの1種。漢字では「河鹿蛙」。 鳴き声が良く、鑑賞のために飼育されることもある。石手洗は城下の南、新井田川の近くで、一行が前日にいた鮫の海岸からは直線距離で7`以上ある。当時の人の足でも片道2時間の距離だが、新暦では6月下旬の梅雨の頃だから「カジカがよく鳴く」と聞いて、風流人たちが足を延ばしたのだろう。

注16 東回りの船=太平洋岸を江戸まで行く航路の船。江戸から見て東から来るので、東回りという。海防のために寛政11年(1799)、幕府が東蝦夷地(北海道東部)を直轄地とし、航路を開拓してから東回りの回船が頻繁に航行するようになった。北海道や下北半島から日本海を経て瀬戸内海、太平洋を通って江戸に達する西回り航路の方が歴史は古く、北前船はこちらのルートだった。

注17 櫛引村=今は八戸市内。八戸市八幡に南部一宮の櫛引八幡宮がある。八戸から鹿角(秋田県鹿角市)へつながる道は三戸鹿角街道と呼ばれ、現在の南部町、三戸町、田子町を通る国道104号とおおよそ重なる道筋だ。

注18 苫森村=「とまもりむら」と読めるが、この地名が見つからない。旧福地村(南部町)の中心地、苫米地とまべちのことではないかと思われる。

注19 剣吉村=旧名川町(南部町)。今はJR東北本線剣吉駅がある。

注20 三戸=南部氏宗家の居城があった。八戸鹿角街道と奥州街道が交わる大きな宿場でもあり、三戸町同心町にその分岐点を示す追分石が残っている。

注21 田子=三戸町を過ぎれば、秋田県境までは田子町。田子中学校のある高台は、盛岡藩初代藩主の南部利直が生まれた田子城跡だ。

注22 関村=田子町関。本陣跡、関所跡があるので、近辺では大きな宿場だったことがわかる。

注23 夏坂=関から少し秋田県寄りで、元は関にあった御番所が慶安元年(1648)、夏坂に移された。その跡を示す標柱がある。

注24 雷幡峠=「らいまんとうげ」と読むのだろう。青森県田子町から秋田県鹿角市へ、現在の国道104号・103号は北の十和田湖方面へ大きく迂回しているが、江戸時代の八戸鹿角街道は直線的に深い山の中を通っていた。古来、3本のルートがあって、それを総称して来満峠と言う。語佛師匠が「雷幡峠」と書いているのは、当時はそう表記していたのか、当て字なのか不明。江戸時代は、最も北の大柴峠(標高731b)が主として使われた(明治26年に廃道)。大湯温泉を通る国道103号から東へ入った杉林の中(鹿角市十和田大湯字下折戸)に、「中の渡一里塚」が残っていて、当時の道筋がわかる。

注25 毛馬内=八戸からの街道の終点。中世、毛馬内氏が城館を築き、戦国時代は、檜山安東氏(後の秋田氏)の侵攻を跳ね返した南部氏の最前線基地となった。現在は鹿角市十和田地区の中心で、戦国時代から続くという毛馬内の盆踊りで知られる。

注26 軒下を歩く=「こみせ」と呼ばれる自然発生のアーケード。鹿角市の中心地、花輪に残っている。雪国では各地にあり、新潟県では「がんぎ」(雁木)と呼ばれている。

注27 うるい=ユリ科のオオバギボウシの若い葉。独特のぬめりとうま味があり、秋田県では人気の高い山菜。

注28 みず=イラクサ科のウワバミソウ(語佛師匠は「蛇草」と書いている)。水気の多い所に生えるので「みず」と呼ばれる。山に入らなくても容易に採取でき、天ぷら、汁の実、おひたし、和え物と用途も多彩な山菜。

注29 いちご=江戸時代から栽培されている石垣イチゴなどのストロベリー類ではなく、梅雨の時期に熟す野イチゴ。秋田県では、黄色い実のモミジイチゴの人気が高い。

注30 大湯=鹿角市十和田大湯。米代川の支流、大湯川の川岸に温泉がわき出していることが古くから知られていた。縄文時代後期の遺跡である国の特別史跡ストーンサークル(大湯環状列石)が有名だが、発見されたのは昭和6年。語佛師匠の時代に見つかっていれば、必ず立ち寄っただろう。

注31 錦木塚=歌枕。謡曲「錦木」でも知られる悲恋物語の地。この辺りは古くから「狭布けふの里」と言われ、都から来たという美しい姫君が、毎日、幅の狭い布を織っていた。この姫に恋した若者が、楓など美しく紅葉する5種類の木(錦木)の枝を束にして、姫の家の門前に立てた。女がその木の束を受け取れば2人は結ばれるという風習があったのだが、姫を養う翁はそれを許さなかった。若者は999夜、錦木を立てたが願いはかなえられず、自ら命を絶った。姫も病んで、若者のあとを追うように亡くなった。翁は悔やみ、2人の遺体を一緒に埋めて塚を築いた。これが錦木塚で、JR花輪線の十和田南駅の近くに、その塚とされる巨石がある。
錦木は立てながらこそ朽ちにけれ今日の細布ほそぬの胸あはじとや(能因法師『後拾遺集』)の歌が知られている。

注32 花輪=鹿角市役所がある、鹿角地方の中心地。盛岡藩では花輪通り代官所を置き、30人の同心を住まわせていた。盛岡と大館(秋田藩)を結ぶ鹿角街道の宿場でもあり、幕末の記録では、家が3百軒も並ぶ大きな町だった。宿屋は、馬も泊まれる旅籠と、人間だけを泊める旅人宿に区別されていたという。

注33 銅山=鹿角には尾去沢をはじめとして、相内、白根など数多くの銅山があり、盛岡藩の大きな収入源だった。東屋新助を訪ねたのが花輪だったので、この人は花輪鉱山の支配人かもしれない。ただし花輪鉱山は盛岡藩時代の詳しい記録がなく、明治以後は硫化鉄、石膏、黒鉱などを産出した鉱山。語佛師匠は「銅山の支配人」と紹介しているので、この人が鹿角地域一帯の銅山の支配人だった可能性もある。

注34 赤根染、紫根染=赤根染は植物の「アカネ」の根から、紫根染は植物の「ムラサキ」の根から採った染料を使う羽二重(純白で肌触りのよい絹織物)の草木染。茜色も紫色も下染に1年を費やし、本染も10数回かかるという手間のかかる染物。盛岡藩では、これを幕府や朝廷へ献上していた。

注35 鹿子、らせん絞り=どちらも絞り染めの模様。


※スケッチ1=末の松山の峠道。鳥瞰図のように、浪打峠の街道を上空から描いている。言葉書きには、「末の松山は仙台の奥にもある」とか、「松は三葉」などとあり、街道の両側が高く、その上に松の木が連なっている。
 語佛師匠は絵心もあり、「奥のしをり」の旅では、たくさんのスケッチを残している。

※スケッチ2=八戸湊の風景。左下に「城下より一里」とある。新井田川が右から左へ流れているのがわかり、河口近くの左岸には「魚油役所」、右岸には「ふね番所」とのメモがある。「舩番所」の背後の山が日和山(現在の館鼻公園)だろう。この絵も、空から見た図柄だが、日本画の手法としては珍しくない。

※スケッチ3=錦木塚。現在と同じように、周囲に柵をまわした巨石を描いている。右下には「毛馬内より花輪へ出る道のかたわら」と、場所を紹介している。

※スケッチ4=赤根染、紫根染の染物を干している情景。これが花輪の名物で、鹿の子、らせん絞りなどいろいろあると解説している。子供が仕事中の親にまとわりついていて、「家々で染物をしていた」雰囲気をうまくとらえている。
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