盛岡に一か月滞在
◇南部領に入る
 四月一日、岩谷堂を出発し、ここからが南部領となる鬼柳(注1)という所に出て、関東元吉とおっしゃる束ね役の家に一泊した。この人とは、水沢の善助殿の家でお近づきになった。もともと関東の人で、一晩語り明かしてしまった。
 鬼柳は南部の入口で、御番所がある。ここから一里ばかりの黒沢尻(注2)には、宿屋の鬼孫七という人がいる。先年、ここを通った時にお世話になったので、お訪ねしたのだが、鬼孫七さんはご夫婦ともすでに故人となられ、その娘さんだけが一人で暮らしておられた。
 そこから花巻(注3)という所に出て、その夜は石鳥谷いしどりや(注4)に泊まった。
 三日は、石鳥谷から盛岡城下の入口にある津志田(注5)という所を通った。三十年ほど前、江戸に佐川東幸という落語家がいて、この人は南部の出身だったが、病気で腰が立たなくなり、故郷へ引っ込んでここに遊郭を開業した。当時の津志田には遊郭が二十軒ほどもあり、東幸の女房は三味線を弾くので芸者を育て、「南部吉原」と名付けてとてもにぎやかで、東幸の店にも遊女は三、四十人、芸者も十人はいた。盛岡から駕籠で通う人もいたそうだ。我らも、東幸が故郷に帰って二十四、五年後に行ってみた時には、まだ遊郭は五、六軒も残っていた。今では遊郭は取りつぶしになって、みな普通の民家になっていたが、今でも二階に赤く塗った格子などが残っている。
 そこから川原町(注6)という所へ出た。ここには舟を浮かべた橋(注7)がある。幅三十間(約35b)の川の両岸に太い杭を打って鉄の鎖で舟をつなぎ、その上に板を敷き並べて手すりを付け、所々を馬がすれ違ええるように幅を広くして、馬も駕籠も渡ることができる橋である。大水が出た際には、この鎖が切れて、橋にしている舟が仙台領の石巻まで流されたこともあるという。

◇盛岡に到着
 昼頃、盛岡の八幡町に到着した。
 (仙台領では、金・銀の藩札(注8)が通用し、一分札や二朱札(注9)があった。一分札を「一切れ」と呼んでいて、その両替で二朱もうける商人もいれば、損する者もいた。銭は仙台通宝(注10)があるが、南部の入口からは仙台の藩札はそのままでは通用せず、銭は「仙台の浅黄銭」(注11)と呼ばれ、なんとか通用したものの、馬子なども駄賃の銭をやると一文ずつ確認し、仙台の銭が一文でも混ざっていると「これは半値だ」などと言う。仙台の一分札は六百文、二朱札は二百文くらいに換算された(注12)。この相場は時々上下し、仙台の銭は石巻で鋳造するのだが、鋳物があまり上等ではなく、古びて模様の消えかかった銭(注13)より悪いとされ、百文の中に三、四文混じっていても、はじかれて受け取ってくれない。旅の途中で取り換えればよかったのにと言われて、困った)

 盛岡では、目明しの高橋和吉殿を訪ね、和吉殿の指図で左官の鉄之助殿という方の家に落ち着いた。この前盛岡に来た時(注14)には、及川藤蔵殿という人を訪ね、その後は甚助という人の家に行ったのだが、お二人とも故人となっておられた。今回世話になった鉄之助と申すお方は江戸の人で、三十年よりもっと前にこの国へ来て婿養子になられた。今は子供もいて、盛岡のお殿様の御用も務めている。お内儀ともども本当によい人柄だ。また、高橋和吉殿は目明しとしては珍しく、書物がいたって好きで、書店も及ばぬほどの蔵書を家に積み重ねている。私が訪ねた時には、源氏物語を読んでおられた。盛岡滞在中は時々、その講釈さえ聞かせていただいた。和歌などもなかなか上手に詠まれ、まことに目明しに似合わぬ人物である。
 その息子は、肴町という所で五間間口(注15)の道具屋を営んでいる。もともと高橋和吉殿は裕福な家の息子で、「目明しは道楽で仰せつけを受けた」とのことだ。
 津志田の遊郭が取りつぶしになった後、八幡町に御免茶屋と呼ばれる遊郭が八、九軒もできた。故人となられた及川殿の家の跡地も、今は東屋という遊郭になっていた。芸者の見番(注16)もあり、鉄之助、伝十郎、松五郎などという方々が、見番をひと月交代で勤めておられるそうだ。
 芸者は、江戸から来た文字八尾という人が師匠で、その娘に歌文字という人がいる。その門人の文字八登は、源助という人の娘だ。文字八幡、伝十郎の娘の文字とわ、そのほか芸者は八、九人もいるという。
 また、盲人で、御城へさえ上がることのある名所都、菖蒲都、采女都(注17)などという人たちがいて、いずれも豊後長唄の芸人である。
 そのほか、御国浄瑠璃というのを語る盲人が数多くいる。
 八幡町には芝居小屋があり(注18)、座元は鎌倉玉左衛門、頭取(楽屋の監督)は西国伝十郎、若太夫、亀之丞と申される。黒沢尻の佐太郎という人が太夫元(注19)で、市川団之助、中村次郎三、中村粂次郎、嵐橘太郎、市川門蔵などが来ている。坂の上という所で、相撲を興行している。これは鶴ヶ峯が立元、行司は永瀬越後という人で、烏帽子えぼし直垂ひたたれ姿で行司を務めている。土俵は四角に築いている。
 八幡宮の境内はことのほか広く、八月十五日の祭礼では流鏑馬やぶさめ(注20)が行われる。一の矢は、京都まで行っていただいて来るそうだ。
 四月四日は、鉄之助殿の隣の中村屋という御免茶屋に、和吉殿、与助殿、文七殿、源助殿、松五郎殿が参られた。この方々は水事師といって、芝居や寄席の世話人である。その人たちが相談して決めた願主は、御駒太夫こと加藤京助殿といって、神主である。落語、講釈、八人芸などはみなその方々が興行許可の願いを出す。
 (浄瑠璃、豊後節、新内節などは、鈴江四郎三郎という芸者の頭役が願主となる)
 
 八幡町の木戸をひとつ越えて、生姜町の神明様の境内は土手を築いた弓場になっていて、十五日間と限って興行が行われる。この弓場は、和吉殿の弟で、ふだんは寿司、小料理を営む人が、興行の際には寄席に建て替える(注21)。いつでも大入りになり、昼間は芝居、相撲があって、寄席は七つ(午後四時)過ぎから行いたいと願ったところ、昼の八つ半(午後三時)ごろから客が集まり始め、定刻の七つ時分には前座咄(注22)が済んでしまった。日が暮れるころに最後の咄(注22)にかかり、五つ(午後八時)には高座を終えてしまった。
 文字八尾をはじめとする芸者衆からご祝儀をいただき、芝居の役者の中にもご祝儀をくださる方がおられた。八幡町の若い衆からは水引(注23)をいただき、御免茶屋の方々からは高座の後ろ幕(注24)をもらった。
 寄席が大入りだったので興行の延長を願い出たが、少々差支えがあって日延べはできなかった。それで残念ながら、当初の予定通り十五日間でおしまいとした。
 それからは、文字八尾の世話で、連日お座敷を務めた。
 金山かなやま(注25)のお役人で、宮両助様、加藤新助様、そのほか船越助五郎様とおっしゃられる方々は、昔からひいきにしてくれていて、次々にやって来るので、盛岡に長々と逗留することになった。
 私が江戸で弟子にした虎橋というのがいたが、これは盛岡の人で、その妹が訪ねて来た。また、音羽屋吉(注26)という芝居の道具師……これは江戸の人で音羽屋の身内だったのだが……冬の雪の中を津軽で山越えした際に、足の指が残らず落ちてしまい(注27)、与助殿の世話になっている者で、毎日私のところへ話をしに来た。

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 注1 鬼柳=現在の北上市鬼柳町。奥州街道の宿場で、盛岡藩の関所があった。その直前に、宿場ではないが仙台藩の相去(あいさり)番所(北上市相去町)がある。豊臣秀吉の大名再配置で隣り合うようになった伊達氏と南部氏は境界争いを繰り返し、江戸幕府の仲介で藩境が確定するまで50年もかかった。境界線は奥羽山脈から太平洋までの130`に及び、大小合わせて460か所もの藩境塚を築いた。その中でも奥州街道が通る相去と鬼柳は、両藩とも最も重要な関門と位置付けていた。

 注2 黒沢尻=現在の北上市の中心街。和賀川を舟で越えた所にある奥州街道の宿場。和賀川はすぐ下流で北上川に合流していて、黒沢尻は舟運の基地として栄えた。

 注3 花巻=花巻市。奥州街道の宿場。南部氏の家臣、北秀愛(きた・ひでちか)が城代を務めた花巻城があった。

 注4 石鳥谷=花巻市。奥州街道の宿場だが、花巻から石鳥谷を経て現在の紫波郡紫波町までの14`は、江戸中期に整備されたほとんど直線の道路で、「奥州新街道」と呼ばれていた。語佛師匠は触れていないが、見事な松並木が続いていたという。また、江戸初期に南部領へ進出した近江商人村井氏が.石鳥谷で酒造業を始め、今も酒蔵が多い。伝統の南部杜氏は今も東北地方だけでなく、北海道から九州まで各地の酒蔵で活躍している。

 注5 津志田=盛岡市津志田。盛岡藩が、城下にあった遊郭を北上川対岸のここにまとめて移転させたのは文化7年(1810)のこと。江戸にいた落語家の佐川東幸が「三十年ほど前、故郷へ引っ込んで遊女屋を開業した」というのも、年代的に合致する。盛岡藩では、津軽から移住して来た人たちを津志田に住まわせたので、津軽町とも言われた。盛岡藩ではその後、嘉永7年(1854)に再び遊郭を移転させることになるが、「奥のしをり」の記述からは、それよりだいぶ前にさびれていたようだ。しかし、津志田の大国(だいこく)神社には、最盛期の遊郭の楼主や遊女が奉納した、遊郭の様子を描いた絵馬が保存されていて、往時のにぎわいを知ることができる。
 
 注6 川原町=北上川を渡って、現在の盛岡市南大通り3丁目。ここは藩主の参勤交代の際、家老以下が送迎する場所で、近くの円光寺(太平洋戦争末期、ポツダム宣言の受託など終戦処理に尽力した米内光政の墓がある)までは奥州街道の道幅が広かった(円光寺から北の、大きな寺が集まる大慈寺町にかけては、城下町特有の複雑な道筋が残っている)。川原町は、北上川水運の基地でもあり、問屋や小売店が軒を連ねていた。

 注7 舟を浮かべた橋=北上川南岸の盛岡市仙北1丁目から北岸の南大通り2丁目には現在、明治7年に架けられた明治橋(当初は木造)があるが、それ以前は少し下流に舟をつないだ「新山舟橋」(しんざんふなばし)があり、それを渡って盛岡城下に入っていた。この上流で雫石川が合流する北上川は、川幅が広く、水量も多いために江戸時代の技術力では橋を架けらず、天和2年(1682)に大舟18艘、中舟2艘をつないで並べ、上に厚い板を敷いて橋にした。しかし、語佛師匠が書き留めているように、大水害で流されることもあって、しばしば川止めになった。「奥のしをり」の旅の天保13年(1842)には5回も川止めになり、その2年前の7月には14日も通行できなかった記録がある。

 注8 金・銀の藩札=仙台藩は、「伊達騒動」が起きた時の4代藩主、伊達綱村がぜいたくで23万両もの借金をこしらえた。その赤字対策として、藩内だけで流通する藩札(紙幣)を大量に発行した。しかしそのために物価は高騰し、赤字は逆に43万両にも達した。5代吉村以降の仙台藩はこの赤字解消に悩み続けることになった。
 天明4年(1784)4月からは、銀札を発行した。15匁札、7匁5分札、3匁7分5厘札の3種類で、同時に正規の通貨の使用を禁止し、藩札を正規の通貨に両替することも禁じた。だが商人たちはこの不換紙幣を拒否し、正規の通貨を隠匿したため銀札は暴落し、まったく使われなくなった。わずか5か月後の9月には、正規の金との両替を復活することになる。

 注9 一分札や二朱札=貨幣の単位である1分や2朱に相当する藩札。江戸時代は金、銀、銭の3種類の通貨があった。金貨は1両が基本単位で、1両は4分、1分は4朱になる。
 金貨は額面で通用したが、銀の地金を切り分けたことに由来する銀貨は、伝統的に重さを量って価値を決めていた。しかしこれでは計量するのが大変なので、江戸初期に丁銀(43匁=161.25c)、豆板銀(3.5匁=13.125c)の定量銀貨が登場した。
 金貨と銀貨、それに日用に使われる銭の換算率は、寛永2年(1625)に、「金1両=銀60匁=銭4貫文」(銭1貫は1000枚で、真ん中の穴にひもを通してひとまとめにした)と定めた。しかし実際には、金貨、銀貨、銭はそれぞれ別個の体系を持っていて、現在の円とドル、ユーロなどとの外国為替相場と同じように、互いの換算には相場が立った。江戸では金本位、関西では銀本位という商売の慣習があったほか、時代が下るにつれて金の含有量を減らした小判に改鋳され、金や銀の実質価値で換算する必要が生じたことなどが理由で、江戸時代の通貨の仕組みは非常に複雑だった。

注10 仙台通宝=仙台藩では5代藩主吉村の享保11年(1726)、「藩内で産出する銅に限る」との条件付きで、正規の寛永通宝と同じ銭を鋳造する許可を得た。石巻で享保13年から銭の鋳造を始め、15年間で37万9769貫の銭を作った(正規の換算率の4貫文=1両で計算すると、9万4942両1分)。その後半になると、「仙」の刻印もしない粗製乱造で、領外にはまったく出させなかったので、藩財政を黒字にするほどの収益を得たという。
その後も銭の鋳造は続けられ、粗悪な鉄銭まで作った。天明4年(1784)7月からは、領内だけで通用する「仙台通宝」を鋳造し始めた。角ばった形で、3文が正規の寛永通宝の1文にしか通用しない劣悪な銭だった。仙台通宝は3年間で60万貫(基本的な換算率では15万両)も作った末に鋳造を中止したが、語佛師匠の記述から、その後も領内で使われていたことがわかる。

 注11 浅黄銭=浅黄(あさぎ)は「浅葱」とも書き、薄い藍色を「浅葱色」という。藍染の中で最も安上がりな布で、参勤交代のお供で江戸に上った下級武士の羽織の裏地の多くがこの色だったので、吉原の遊郭などでは田舎の貧乏侍を軽蔑して「浅葱裏」と陰口していた。仙台藩の銭を「浅黄銭」と言うのも同様の蔑称。

 注12 一分札は六百文、二朱札は二百文くらい=仙台藩の藩札が信用されていなかった具体例。幕府の基本的な換算率では、1分は銭1000文、2朱は銭250文だが、両替の手数料を差し引いても安く扱われていた。

 注13 古びて模様の消えかかった銭=時代劇でしばしば「びた一文」という言葉が出て来るが、漢字では「鐚」と書き、劣悪な貨幣のこと。具体的には「古びて模様の消えかかった銭」。現代の日本では、古い貨幣を回収して代わりに新しい貨幣を流通させているが、江戸時代はそういう仕組みがなかったので「鐚銭」が出回っていた。

 注14 この前盛岡に来た時=津志田で遊郭を開業した落語家、佐川東幸との関係から、「奥のしをり」の旅の5、6年前に語佛師匠が盛岡を訪れていたと推測できる。

 注15 五間間口=5間は約9b。通りに面しての5間間口は、大店の象徴。

 注16 見番=芸者を呼び出す取り次ぎや、芸者への支払い清算をする事務所。

 注17 名所都、菖蒲都、采女都=いずれも芸名で、菖蒲は「あやめ」、采女は「うねめ」だが、「名所」と「都」の読み方がわからない。その人たちの芸を「豊後長唄」としているが、浄瑠璃語りから発展した「豊後節」も、歌舞伎踊りの伴奏音楽から始まった「長唄」も天保時代には座敷芸に大衆化していて、両者を融合させた芸があったと推測される。

 注18 八幡町には芝居小屋があり=盛岡八幡宮の一帯が八幡町。元々は盛岡城内にあった鳩森八幡(来歴不詳)の「御旅所」を寛文11年(1671)、城外の現在地に設けたのが始まりで、ここに馬場も設けた。社殿を建立したのは延宝7年(1679)で、同時に一般庶民の参拝も許されて以後、盛岡で「祭り」と言えば八幡宮の祭りを指すようになり、そのうちに「御免茶屋」と呼ばれる遊郭もできるなど、八幡町一帯が繁華街になった。仙台にはない常設の芝居小屋が盛岡にできたのもうなずける。

 注19 太夫元=役者の派遣元。現代で言えば、いわゆる「呼び屋」。

 注20 流鏑馬=馬を走らせながら、騎乗のまま弓矢を的に当てる技。平安時代末から弓の技量を競う武士の間で流行し、鎌倉の鶴岡八幡宮では神事となった。一時は姿を消し、江戸では8代将軍徳川吉宗の享保13年(1728)、高田馬場で盛大に復活させたが、盛岡八幡宮で初めて流鏑馬の神事が行われたのは、それよりずっと早い延宝8年(1680)、つまり八幡宮の社殿ができて、「祭り」が始まった翌年のことだ。南部領は昔から良馬の産地で、戦国大名の南部氏が盛岡に移る前、三戸を拠点にしていた頃、櫛引八幡宮に流鏑馬神事を奉納していた記録があり、盛岡八幡宮の祭典を機会に復活させたのである。それも、鎌倉時代の古式にのっとった「南部流」だと言われている。

 注21 寄席に建て替える=神明社境内は八幡町に隣接していて、本来は弓の稽古をする場所なので、かなりの広さがあっただろうし、繁華な八幡町から人の流れを呼び込むのも好都合だった。常設の芝居小屋は八幡町にあったので、こちらでは簡単な小屋掛けで寄席興行をしたのだろう。

 注22 前座咄、最後の咄=現代の寄席でも、開演すると最初に前座の落語家が短い咄をする。ばかばかしい笑い話ばかりで、これはこれでたくさんの演目があり、「前座咄」と呼ばれている。それから二つ目、真打と格の高い落語家が登場して、最後は「トリ」となるが、ここではじっくりと聞かせる大ネタを出すのが通例。「奥のしをり」ではこれに2時間もかけたことがわかる。語佛師匠が熱演した一席だったと推測される。

 注23 水引=水引幕。舞台の前面の上、演者の頭上に張る細長い幕。

 注24 後ろ幕=演者の背後を飾る幕。4月3日に盛岡に到着して、翌日には寄席興行の相談がまとまり、実際の興行がいつから始まったか明確な日付はないが、初日までそれほどの日数はなかったと思われる。にもかかわらず、遊郭の関係者から後ろ幕を贈られたのは、前回盛岡に来た時の語佛師匠の高座がよほどの人気で、地元の人々との交際も深かったのだろう。

 注25 音羽屋吉=音羽屋は、歌舞伎の尾上菊五郎と一門の屋号。そのあとが「吉」だけなのは、「○吉」という人名の1文字を語佛師匠が書き落としたのではないだろうか。

注26 金山=「きんざん」ではなく、「かなやま」と読む。鉱山のこと。現在の秋田県鹿角市(秋田県の北東部)は、江戸時代は盛岡藩領で、日本有数の鉱山地帯だった。特に尾去沢鉱山(昭和53年に閉山)は、江戸初期には金を産出し、金が枯渇した後も銅山として栄え、幕府の御用銅を供出した。尾去沢以外にも多くの鉱山があり、盛岡藩は役人を常駐させていた。

注27 足の指が残らず落ちてしまい=ひどい凍傷にかかり、血行障害を起こしたのである。
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