南部へ向かう
◇古川の「緒絶おだえの橋」
 二月二十六日に名残の会を催して二十七日に仙台出立と決めていたのだが、大雪となり、二十九日に仙台を発った。七木田(注1)という所まで花咲連の皆さん、そのほかの方々も見送ってくださり、餞別の狂歌、俳諧もいただいて、ここで別れた。
 (扇蝶は国元へ帰りたいと言っていたが、南部からその奥への道案内をさせることになり、扇蝶、馬好と四人連れ(注2)で仙台城下を出発した)
 ○いくたびかあと戻りする春の旅花咲連に心ひかれて

 三月一日、吉岡(注3)という所へ行った。目明しの忠吉殿から奥筋の道々の束ね役(注4)の方々への紹介状(注5)をいただいていて、吉岡では上州屋順吉殿に一晩やっかいになった。そこの橋吉殿は留守で会えなかった。 
 翌二日は三本木(注6)から古川(注7)へ行き、束ね役の太市殿方へ入った。
三日は、太市殿の世話で十日町(注8)の若い方々が座を立ちあげてくれて、五日間の寄席興行をしたが、予定より二日延長して七日興行となった。
 それから三日町(注9)の徳兵衛殿というお宅で二晩興行した。
 ここには、「緒絶の橋」(注10)という歌枕があり、その橋守の柏庭という方の家に、ここを訪れた人々の句帳があった。柏庭さんは風流な人で、出会った人といつでも歌仙(俳諧や和歌の会)を開いているという。
(柏庭というお方は本名を紺野直之輔とおっしゃって、庄屋なども務めておられる=注11)。
 緒絶の橋というのは、奥州志太郡稲葉村と大梯村の間に架かっていて、幅は四間(約七・二b)、長さは六間(約十・八b)あり、往時より「緒絶の橋」と名付けられている。しかしこの場所の誰もが、なぜそう呼ばれるのか理由を知らない。橋のたもとに柳の木が一本あって、これを「玉の小柳」という。
(柏庭殿の句帳には)ここに立ち寄られた大名の和歌、発句も数多く残されていて、その一つ、二つを書き写した。
 もろびとの言葉の露やしら玉の緒絶の橋にかけてあまれる 羽太安芸守はぶとあきのかみ様 正養(注12)
 (この橋を訪れたすべての人の残した言葉が珠玉の露となって橋からこぼれ落ちるほどだ)

 名にも似ず旅も絶へぬや橋すすみ           南部信濃守様 鳳扇(注13)
 (緒絶の橋という名であるのに訪れる旅人が絶えることはなく、橋の上で涼んでいる)
  
  雪中を鷹狩に出て、ここに宿を求めた朝
 旅人のゆきき緒絶の橋の名も雪にあらわすけさの通い路  奥州の太守 吉村(注14)
(行き交う旅人も、緒絶の橋という名も、一夜の雪がやんだこの朝ははっきりと見える)
 
 弥生中の十日古河に宿りけるに故羽林吉村公の御詠歌を拝吟して
 鳥の跡にむかしの名のみ残すらんをたへの橋はよし朽ちるとも 一関様 村隆(注15)
 (緒絶の橋が朽ち果てることになろうとも、雪の朝に旅人の行き交うのを見たという仙台の吉村公の歌を拝すと、旅人の足跡ではないが鳥の足跡にも吉村公の名だけは思い出されるであろう)

 陸奥みちのくの緒絶の橋は絶えずしもまた帰りこん旅の衣手        同
 (緒が絶えるという名前ではあるが、みちのくの緒絶の橋が絶えることはないだろうから、私は参勤の旅の途中でまたここに帰って来ることだろう)

  天保癸巳(四年)の晩春、古川の駅に馬を止めた。ここに有名の橋があると聞いたので
 菊の花や橋詰こして田甫道                 松前公 維嶽(注16)

  そのほか句帳の一、二句を記す
 軒渡る蔦の緒たへや軒ひとつ                雪中庵蓼太(注17)
 行人のをたへや我を秋のくれ                鴈窓
 みじか夜や夢も緒絶の橋の音                暮面庵暁堂

 柏庭の主人が新しい句帳を取り出して、私にも何か書いてくれというのを断り切れず、句帳の端に書きつけた。
 ○をたへとはふみ見て知りぬみちの奥名も古川に橋のありとは
(緒絶の橋という歌枕は昔の人が書いたものを読んで知ったが、みちのくに来てみると地名も古い川という所にその橋があったということには驚かされた)

◇平泉へ
 三月十日に古川を発ち、ここから荒谷あらや(注18)、高清水(注19)、築館つきだて(注20)、沢辺(注21)、有壁ありかべ(注22)を経て一関(注23)まで行き、伊勢半殿(注24)からの手紙に従い、千葉新助殿という人……これは狂歌師で、掌善坊友明というそうだが……を訪ねたが、留守で会えなかった。それから山ノ目(注25)の束ね役の藤吉という人を訪問した。藤吉殿の世話で三晩座敷興行をして、三月十四日、山ノ目を発ち、前沢(注26)から水沢(注27)へ行った。
 山ノ目から二里半ほどの所に高館たかだち(注28)がある。ここは昔、源義経公の館があった跡で、義経大明神という社がある。これを判官館とも言うそうだ。芭蕉の句碑がある。
 夏草や兵者つわものどもが夢の跡
 ○兵ものの夢の跡とし来て見ればさて目のさむる山のありさま
 (芭蕉翁が「夏草や兵ものどもが夢の跡」と詠じた高館に来てみると、今の山のありさまを見ただけでも歴史絵巻が心に浮かんで目の覚める心地がする)

 そこから一里ほどの桜川という所に茶屋が二軒あり、ここから中尊寺へ登るのである。中尊寺の寺領は五十石で、本尊は阿弥陀如来。薬師堂があり、弁慶の像があり、亀井六郎と片岡八郎(注29)の笈もある。開基は行誉上人。弁天堂に紺地の仏像の掛軸が十三幅あった。光り堂久蔵寺は(藤原)清衡、基衡、秀衡(三代)の菩提所で、霊廟である。
 本尊は観音様で、七宝を巻いた柱があり、扉は残らず金を塗ってある。それが光り輝くので「光り堂」(注30)というのである。八十年も雨ざらしになっていたそうだが、今は鞘堂さやどうが覆っている。経堂は清衡、基衡、秀衡三代の寄進で、紺地に金泥で書いた経文がある。一万巻ずつ三万巻あるが、秀衡の納めた経文は竹紙である。ここにも芭蕉の句碑がある。
 五月雨のふりのこしてや光り堂
○世にふりし昔ながらの光り堂今にその名もかがやけばとて
 (長い年月を経てはいるが、光り堂は昔のままに、今もその名のとおり輝いていることよ)

 この山の下に衣川が流れている。中尊寺奥の院はここから二里余。そこに達谷たっこくいわや(注31)、そしてイツクシの滝がある。高さ一丈(三・三b)の大石があり、一本の桂の大樹がある。
 この夕方、水沢三本木という所の束ね役、善助殿と申す方の家に落ち着いた。さっそく善助殿の世話で五日間の寄席興行をした。水沢には吉三郎(注32)の墓がある。それは萬日寺という寺の敷地内で、お七の菩提を弔うために諸国を回った吉三郎が、ここに庵を結び、生涯を終えたと言い伝えられている。
 中興来ノ誉地阿闍梨和尚、延宝十二年未の年三月十七日(注33)
○いかばかりかたき契りや水沢へ流れ来てさへ残る石碑
 (どれほど固く誓い合った仲だったのだろうか、漂泊した末に来たみちのくの水沢にまで墓が残っているのだから)
 
◇岩谷堂に寄り道
 十七日、水沢を発って岩谷堂(注34)という所へ行き、そこの束ね役、可平殿と申される方の家に落ち着いた。さっそくお館(岩谷堂伊達氏)に呼び出され、紹介された。(この日)清兵衛殿とおっしゃる方が訪ねていらっしゃった。この人は、先年、我らがこの地に来た節(注35)、いたって心安くした方で、その際、私が持っていた中国の扇を無心されたのでお譲りしたが、今でも私らの記念だからと大事にしてくれている。もはや私らも五十余歳になり、この人も五十余で、命があればまためぐり会いたいものだと、毎日遊びに来てくれた。
可平殿の世話で五日間、寄席興行をして、それから座敷興行もして、岩谷堂には四、五日いた。その間、この近くの土沢という所に、石はまぐりといって蛤の形をした石があると聞き、可平殿とそのほか二、三人で行って拾って来た。その帰りに大名長根という所に出た。ここは一里四方が広々と平らな場所で、折しも一面にツツジが咲き乱れ、その美しさは筆舌に尽くしがたい。ここで弁当を広げ、終日楽しんだ。
○ひろひたる石蛤を肴にてつつじも酒の色に出にけり
(拾って来た蛤の形の石を鑑賞するのを酒の肴にしていると、咲き乱れるつつじも赤らんで、共に酒を飲んでいるようだ)

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注1 七木田=奥州街道の宿場。仙台市泉区。ここで花咲連の人々と1泊した。

注2 扇蝶、馬好と四人連れ=4人連れのもう1人は、語佛の妻と思われる。「冒頭」に「喜多八ではなく妻を友とし」と書いているが、ここまでの記述に妻の具体的な動向は見られず、こんな人数の記述から妻の存在を推測するしかない。国元へ帰りたいと言った扇蝶は名古屋の人だが、仙台にいた語佛師匠を訪ねて来たのは松前まで行っての帰りだったので、語佛師匠一行が向かう南部への道をよく知っており、案内を頼んだのだろう。

注3 吉岡=奥州街道の宿場だが、伊達氏一門の但木氏の居館があった。黒川郡大和町吉岡。

注4 束ね役=原文は「〆り役」。仙台藩には「物置〆役」、「肴蔵見届本〆」など、いくつか「しめ」の字がついた役職があった。いずれも末端の現場責任者というほどの軽い役目だったようだ。「〆り役」は「しまりやく」と読むしかないが、藩の公職名に準じたのであろう。いわゆる「町の顔役」と訳した方が現代人にもイメージがつかみやすいと思われるが、時代劇などではしばしば「悪役」と同義語の印象があるので、「束ね役」と訳した。

注5 紹介状=原文は「廻文」。仙台の目明しの忠吉が、語佛師匠の旅に支障がないよう、道筋の「〆り役」諸氏あての紹介状を持たせたのである。個別のあて名ではなく、そのたびに見せる1枚の書状だったので「廻文」なのだ。この紹介状だけで、語佛師匠が各地で寄席興行もできたのは、当時の目明しのネットワークが緊密だったことを物語っている。

注6 三本木=奥州街道の宿場。19世紀初期の文化年間、家数100軒余というから、宿場町としては大きい。現在は大崎市三本木町。

注7 古川=戦国大名大崎氏が割拠した大崎地方の中心地で、旧古川城は大崎氏の家臣、古川氏が居城とした。江戸時代は伊達氏の直轄。現在は大崎市で、市役所は古川七日町にある。

注8 十日町=大崎市古川十日町。興行が2日間延長となったのは、江戸落語が好評だったのだろう。

注9 三日町=大崎市古川三日町。十日町も三日町も昔からの古川の中心街。

注10 緒絶の橋=藤原道雅の「みちのくのおだえの橋や是ならんふみみふまずみこころまどはし」(後拾遺集)によって京の都の歌人に知られた歌枕。この歌は、三条天皇の息女、当子まさこ内親王とひそかに相思相愛となったことが天皇を激怒させ、仲を割かれた道雅が悲恋を詠った連作の一首。この歌の次に、百人一首に採られた「今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならでいふよしもがな」がある。
「緒」は、玉を通すひものことで、百人一首の 「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶる恋の弱りもぞする」(式子内親王)のように「玉の緒」というのが元来の形だが、「玉」が「同音のたまをつなぎとめる緒の意から、命そのものをいうようになった」(大岡信『百人一首』)という。平安時代の和歌には、こういう連想ゲームのような言葉が多く、「緒が絶える」とは命が消えるという意味で、恋人を失った藤原道雅が「いっそ死んでしまおうか」と思い詰めた心理を詠ったのが、「みちのくにある緒絶の橋は今の私のことであろう、一歩を踏み出そうか、踏み出すまいか、心をまどわせる」というような意味の「緒絶の橋」の歌なのである。
大崎市役所の近く、三日町と七日町の間を流れる小川に、今もこの名の橋があるが、なぜこの橋を「緒絶の橋」と名づけたのか、だれが名づけたのか、そして京都にいた藤原道雅がどうして「みちのくに緒絶の橋がある」と知ったのか、さっぱりわからない。

注11 本名を紺野直之輔=この部分は、原本では語佛師匠が乞われて句帳に和歌を書きつけたあとに記載されているが、本文の流れを整えるために、ここに場所を移した

注12 羽太安芸守正養まさやす=旗本で、箱館奉行、松前奉行を歴任。享和元年(1801)に東蝦夷地・国後を巡視したが、安芸守となったのは享和2年。文化元年(1804)と3年に箱館に在勤したことがあり、古川で句帳に歌を書き記したのはこのどちらかの年と思われる。

注13 南部信濃守=盛岡藩主南部氏で信濃守となったのは3人いるが、年代的に見て「鳳扇」は12代利済(としただ)と思われる。

注14 奥州の太守 吉村=「奥州の太守」と名乗れるのは、仙台藩主伊達氏だけ。吉村は5代藩主で、在位は元禄16年(1703)〜宝暦元年(1751)。

注15 一関様 村隆=一関藩4代藩主、田村村隆。在位は宝暦5年(1755)〜天明2年(1782)。実父は仙台藩5代藩主吉村。羽林は近衛府の漢名。伊達吉村と、田村村隆の歌があることから、この句帳はかなり古くから書き継がれて来たことがわかる。

注16 松前公 維嶽=松前藩主で年代的に合致するのは、9代章広(あきひろ)、10代良広よしひろ、11代昌広まさひろの3人。良広は病弱で江戸を離れたことがないままに没したので、句帳の主は章広か昌広のどちらかと思われるが、特定できない。

注17 雪中庵蓼太=大島蓼太。芭蕉の主要な弟子「蕉門の十哲」のひとりである服部嵐雪の孫弟子。享保3年(1718)〜天明7年(1787)。当時の世俗化した俳諧に対し、芭蕉の俳風への復帰を唱えた。「世の中は三日見ぬ間に桜かな」の句が、「三日見ぬ間の」と読み違えられた(句意がまったく異なる)形で、現代人にも知られている。
語佛師匠が書き写したのは、蓼太の没後からでも50年以上経過しており、この句帳の古さがわかる。そのあとの2句の作者は、語佛師匠も知っている当時の著名な俳諧宗匠と思われるが、詳細は不明。

注18 荒谷=奥州街道の宿場。大崎市古川荒谷。商人宿が1軒あるだけの小さな宿場だった。

注19 高清水=奥州街道の宿場。栗原市。

注20 築館=奥州街道の宿場。本陣があった。栗原市築館(旧築館町)

注21 沢辺=奥州街道の宿場。1.5`先に金成かんなり宿があり、そちらが本宿だったらしい。栗原市。

注22 有壁=奥州街道の宿場。これより北の大名のほとんどが有壁で一泊した。旧本陣が国史跡に指定されて保存されている。栗原市金成有壁(旧金成町)。

注23 一関=田村氏3万石の城下町で、奥州街道の宿場。ただし、一関城跡(釣山公園)は中世の城郭跡で、田村氏は築城を許されず、屋敷を構えていた。

注24 伊勢半殿=花咲連の1人、仙台・国分町の伊勢屋半右衛門。

注25 山ノ目=奥州街道の宿場。気仙沼方面への今泉街道の分岐点。「山目宿問屋跡」が残されている。一関市山目。

注26 前澤=奥州街道の宿場。奥州市前沢区。現在はブランド牛肉「前沢牛」で知られる。

注27 水沢=奥州街道の宿場。胆沢いさわ地方の中心地で、江戸時代は伊達一門の留守るす氏が城主となったが、正式の城はなく、「水沢要害」と呼ばれていた。当時の武家屋敷が残っている。合併して誕生した大崎市の市役所は水沢区にある。

注28 高館=平泉町平泉高館。藤原秀衡が、頼って来た源義経のために居館を与えた場所が、北上川を見下ろす丘の上だった。文治5年(1189)4月、秀衡の子、泰衡に襲われた義経一族の最期の地。現在の高館は東半分を北上川に削られて、義経の当時とも、芭蕉や語佛師匠が訪ねた当時とも様相は変わっているが、北上川の対岸に桜の名所・束稲山(たばしねやま)を遠望する景観は変わっていない。

注29 亀井六郎と片岡八郎=最後まで義経に従い、高館で討ち死にした忠臣。

注30 光り堂=中尊寺金色堂(国宝)は、奥州藤原氏百年の栄華の祖、初代清衡が建てた阿弥陀堂だ。付近一帯で産出した金で堂の内外すべてを覆い、建築当時はまばゆい光に満ちていた。堂内には、清衡、基衡、秀衡3代の遺体(ミイラ)が安置されている。中尊寺の建築物の多くがその後の火災で焼失したが、この金色堂と、経蔵(国重文、語佛師匠は経堂と書いている)だけは奇跡的に創建当初の姿を残している。
現在の金色堂の鞘堂は昭和40年に建設されたコンクリート製だが、語佛師匠が「八十年も雨ざらしになっていた」のを覆ったと書いている旧鞘堂(国重文、鎌倉時代の建築)も、経蔵のそばに移築されて現存している。
 
注31 達谷の窟=岩窟に建てた西光寺の毘沙門堂があり、本尊は、坂上田村麻呂が京の鞍馬寺から毘沙門天を勧請したと伝えられる。JR東北本線・平泉駅から南西に7キロほど。現在の毘沙門堂は昭和36年の再建。

注32 吉三郎=「八百屋お七」の恋人。大火で焼け出されて一家が身を寄せた寺の小姓と恋に落ちた「お七」が、その若者に再会したい一心で自宅に放火し、天和3年(1683)火あぶりの刑となった江戸の八百屋の娘「お七」。これを題材にして井原西鶴が『好色五人女』を書き、その恋人の名を「吉三郎」として以来、歌舞伎、浄瑠璃などさまざまな演目になった。実際に「お七」と恋仲になったのは、山田佐兵衛という人物で、寺の門番の息子の吉三郎が「お七」に放火をそそのかしたという記録(馬場文耕の『近世江都著聞集』)もあり、吉三郎のエピソードはすべて創作だ。「吉三郎の墓」は各地にある。

注33 延宝十二年未の年=延宝という年号は9年(1681)までで、12年は存在しない。近辺のひつじ年は延宝7年(1679)と元禄4年(1691)。延宝年間は「八百屋お七」の事件が起きる前であるし、「誉地阿闍梨和尚」とは誰のことなのだろうか。吉三郎の伝聞のあとに、なぜ語佛師匠がこれを書き留めたのか、よくわからない。

注34 岩谷堂=奥州街道から分かれて気仙沼方面へ向かう盛(さかり)街道(気仙街道)の宿場。仙台領の北辺に位置し、伊達氏一門の岩城氏が治めていた。旧江刺市の中心街で、現在は奥州市江刺区岩谷堂。

注35 先年、我らがこの地に来た節=語佛師匠は、各地で旧知の人に再会している。前にもみちのくを旅したことがこの言葉からわかるが、それがいつ、どんな道筋だったかは不明。
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