金華山見物
◇多賀城と「壺のいしぶみ」
 正月は毎日、肴町、南町のあちこちで座敷興行をしていたが、二十一日、塩竃(注1)から松島、金華山へ見物に出かけた。この時の同行は掌善坊、古久升(八百善源六)、そのほか二、三人である。
 原ノ町の先の案内あんないという所は湯豆腐が名物(注2)で、これは豆腐を細く切り、醤油で食べさせる。
 そこから(歌枕の)「壺のいしぶみ」(注3)を見物しに行った。昔はここに多賀城(注4)という城があって、石碑はその城の碑だという。本物の「壺のいしぶみ」は南部七戸(注5)にあると聞いている。そこには「壺村石ノ碑」という地名があるそうだ。
 (多賀城碑の碑文=注6)
去  京ヲ  一千五百里(都を去ること1500里)
去蝦夷国境ヲ 一百二十里(蝦夷の国を去ること120里)
西 去常陸国境ヲ 四百十二里(常陸の国を去ること412里)
  去下野国境ヲ 二百七十四里(下野の国を去ること274里)
  去靺鞨まっかつ国境ヲ 三千里(靺鞨国を去ること3000里)

 この城は神亀じんき元年甲子きのえねの年(聖武天皇朝の年号で、西暦724年)、按察使あぜち(注7)兼鎮守将軍、従四位ノ上、勲四等、大野朝臣東人おおのあそみあずまびとが設置したもので、天平宝字てんぴょうほうじ六年壬寅みずのえとらの年(西暦762年)、参議で東海東山節度使(注8)、従四位ノ上、仁部少卿兼按察使鎮守将軍、藤原ノ恵美朝臣朝カリあさかり(注9)が修復した。
天平宝字六年十二月一日

 ○都よりはるけきみちのおくふかく多賀建てにけん壺の石碑いしぶみ
 (最初に○があるのは語佛師匠の作。「多賀」は、「誰が」にかけた言葉)
 ○石碑やうつす矢立の壺すみれ
 (矢立の「立」、墨壺の「壺」をつないで「タチツボスミレ」という、普通に見られる春の野草の名になる洒落)

 原ノ町から二里余の燕沢という所に碑がある。これはその昔、蒙古の僧が建てた(注10)ということだ。ここに高尾山善思寺という寺があると聞いた。これは高尾太夫(注11)の菩提寺だという。帰りに立ち寄ろうと思っていたのだが、それはできず、高尾(太夫)の戒名があるそうのだが、これも写し取れず、残念なことをした。

◇塩竃と松島
 そこから塩竃へ出た。家の数が二百四、五十軒もあり、妓楼も数多く(注12)、中でも大竹屋、田中屋などは大きな構えで、その夜は田中屋に一泊した。食事は魚の類がことのほかたくさん出て、ハモ(注13)が名物だとか。貝類もたくさんあって、アワビ、ナマコ、カキ、ホヤ、ホッキ、シウリなどという貝があった。このシウリ貝を「似たり」ともいう。女の道具によく似ているからだそうだ。

 塩竃六所大明神 味耜あじすき高彦根命 社領千四百石(注14)
 塩竃神社は奥州一宮である。神前に石灯籠があり、泉ノ三郎(注15)が寄進したと記されている。町のはずれに、実際に海水を焚いた塩竃(注16)が四つあり、ここを塩竃町という。この竈の水で潮の干満を知ることができるという。ここからは入江になっていて、千賀の浦というそうだ。
 ○神垣の霞も今にけむるかと遠目にみつの千賀の塩竃
 (塩竃神社の神域の春霞が沖にたなびいて千賀の浦も煙るのではないかと遠目に眺めているのだ)

 二十二日、塩竃から船で松島を見物した。松島の瑞巌寺まではおよそ三里というが、こちら(仙台領)では六丁を一里(注17)としている。瑞巌寺は代々、正宗様からの霊廟(注18)である。松島は海中の小島が数百あるといい、まことに天下の絶景である。島々にはそれぞれ名があり、地蔵、毘沙門びしゃもん、仁王、大黒、えびす、布袋などの像、あるいは大鼓、屏風、甲冑かっちゅうなどの形をしている。船に乗ってこれを見ると、おおよそ十四日かけなければ見つくせないという。その中に「富ノ観音」という島がある。この山から松島を一目で見下ろすことができるので、松島の景色は「富」にありというそうだ。その絶景は言うまでもない。
 ○昔より名にふる島の千歳に沖を越へたる松島の景
 (遠い昔から名の知られた松島は千年の時を超えてさすがに見事な景色である)

◇金華山へ
 松島から石巻(注19)へ出て、その夜は一泊し、二十三日、和田湊から峠を越えて山鳥の渡しという所へ出た。ここは海上一里ほどの渡しで、こちらで鐘をつくと、向こう岸から渡し舟が来て衣類を調べたうえで渡るのである。その昔、国守が城普請をする時、弁才天に祈願しないで金華山(注20)から金を掘り出し、城普請が完成したあともまた金を掘り出してここに積み上げておいたところ、一夜のうちに金は山鳥となってお山へ戻ってしまったので、ここを山鳥の渡しというのだそうだ。
 ○山鳥の尾の上はるかに見渡せば山の姿も見ずに浮かびて
 (空を飛ぶ山鳥の長い尾の上をはるかに見渡すと金華山の下の方は見えず山が水に浮かんでいるようだ)

金華山弁天は陸路で十三里行き、海上十七里離れた島である。
 聖武天皇の天平二十年、この山で初めて出た黄金(注21)を(陸奥)国司から奈良の都の帝に献じた。ナマコが名物だ。山の奥に大きな水晶があり、その高さは五丈(15メートル)、六つの角があり、三抱えもの大きさという。仙人沢など見どころが多い。山中一面が金色の砂という場所もあるとかで、海岸から海中をのぞき込むと、水中一面が金色をしている。
 ○陸の奥に咲けや黄金の花の山いつの頃よりひらきそめけん
 (大伴家持が「陸奥に黄金花咲く」と詠じているがその花はいつごろ咲き始めたのだろうか=注21参照)

 この山からは砂さえ持ち帰ることは許されず、帰りには草鞋まで履き替えなければならない。その夜は石巻まで帰って一泊し、二十四日は高木(注22)という所で宿をとり、二十五日に仙台の御城下へ帰った。

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注1 塩竃=「塩竃の浦」は、別名「千賀の浦」ともいう歌枕。直接的には塩竃湾のことだが、松島湾が最も奥深く湾入したのが「塩竃の浦」で、都の歌人は松島湾全体と思っていたようだ。この歌枕を有名にしたのは、百人一首の「みちのくのしのぶもぢずりたれ故に乱れそめにしわれならなくに」で知られる源融みなもとのとおるが、京の六条河原に豪壮な邸宅を建て、そこに塩竃の浦の景色を模したという広大な庭を造って大評判となったためだ。それで、源融は河原左大臣と呼ばれた。
なお、「奥のしおり」の原書は「鹽竈」と表記しているが、現代語訳では宮城県「塩竃市」の公式名の表記に合わせた。

注2 原ノ町=金華山街道(別名松原街道)の最初の宿場(仙台市宮城野区)。次の今市宿への途中にあるのが案内という所で、湯豆腐を看板にしていたのは菅野屋という店。江戸の人で、食通の富田伊之(とみた・これゆき)が18世紀後半にみちのくの名物を食べ歩いた『奥州紀行』では、「湯とうふというのは、江戸で言うそば切り豆腐のことで、一膳六文」と記録している。この街道は、塩竃、松島、金華山への往来が盛んで、そうした観光客向けのグルメとして「案内の湯豆腐」は有名だった。

注3 壺のいしぶみ=実態がよくわからない歌枕だ。平安時代の学者、顕昭けんしょうが書いた研究書『袖中抄しょうちゅうしょう』に、「陸奥の奥につぼのいしぶみがあって、征夷大将軍坂上田村麻呂が陸奥に遠征した時、弓の端で石の表面に日本の中央と書いた」というのが、唯一の手がかりだ。それが「つぼ」という地名の場所にあるという。『袖中抄』は、『万葉集』以来の歌集に出て来る難解な言葉の解説書。つまり、すでに平安時代に「壺のいしぶみ」は解説を必要とする言葉になっていたのである。

注4 多賀城=大和朝廷の蝦夷征討の拠点として建設された、陸奥の国府。宮城県多賀城市にあり、発掘調査で、軍事拠点ではなく行政府だったことがわかっている。多賀城跡は国の特別史跡。

注5 南部七戸=奥州街道の宿場のひとつで、現在の青森県上北郡七戸町。2005年に合併して七戸町となった旧天間林てんまばやし村に「坪」という地名があり、その辺りは、古代には「都母つぼ」と言われていた。だから地元では昔から、近くのどこかに「壺のいしぶみ」があると信じられていた。語佛師匠は、七戸宿にその地名があると伝え聞いたのだろう。しかし「奥のしをり」の旅では、七戸には立ち寄っていない。
後日談として……昭和24年、天間林村と隣接する上北郡東北町の石文という集落で、「日本中央」と書かれた大きな石が見つかった。坂上田村麻呂の後任、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が弘仁2年(811)、「都母村に進撃した」という記録があり、「日本中央」と書いたのはこの人らしい。東北町ではこの石を町の文化財に指定し、「つぼのいしぶみ保存館」を建てて、常時公開している。

注6 多賀城碑の碑文=この石碑が発見されたのは、万治・寛文(1658〜1673)のころ。これを歌枕の「壺のいしぶみ」と考えたのは、水戸光圀だという。芭蕉の頃は「新発見直後」と言ってよく、芭蕉も碑文を書き写し、石碑の寸法まで書き留めている。しかし碑文の内容は奈良の都や常陸、下野などからの距離、築城者と建設年などで、明らかに古代の多賀城の記録である。
各地からの距離で、「京」は京都ではなく「京師」、つまり都という意味で、当時は奈良。
「蝦夷国」というのは現在の宮城県北部よりさらに北の、大和朝廷に心服していなかった地域のこと。
靺鞨まっかつ」は、中国東北部に住んでいたツングース系の諸民族の総称。『日本書紀』や『続日本紀』にも、その種族名が記録されていて、日本海を介して交流があったことを裏付けている。西暦698年に建国された渤海(ぼっかい)も靺鞨族の国だ。渤海使節が初めて日本に来たのは西暦727年で、渤海国王からヒョウの毛皮をプレゼントされ、日本では遠来の彼らに官位を授け、それに相応した衣服を返礼として贈っているので、多賀城碑を建てた時点では周知の国だったことは間違いない。しかし、「靺鞨国」を渤海と限定する必要はなく、単に「大陸の国」と解釈すべきだろう。「蝦夷国」も、「靺鞨国」も、碑文に刻まれた距離の起点は示されていないので、「靺鞨国から三千里」などというのは、「海の向こうの遠い国」を表していると思えばよい。

注7 按察使あぜち=奈良時代に、国司の治績や民情を巡察した官職。後には陸奥と出羽だけが対象となり、しかも大納言、中納言の名目だけの兼職となったが、ここに名を刻まれた大野朝臣東人おおのあそみあずまびとは武将で、神亀元年、蝦夷征伐に赴いた藤原宇合うまかいに従軍し、多賀城を築いた。

注8 東海東山節度使=「東海」は東海道の意味で、伊賀、伊勢(三重県)から常陸(茨城県)までの太平洋岸。「東山」は東山道という意味で、近江(滋賀県)から美濃(岐阜県)、信濃(長野県)、上野(群馬県)、下野(栃木県)と内陸部を包括して岩城(福島県いわき市)で陸奥に至り、出羽までの広い地域を指す。節度使は元々、中国の唐の時代に、他民族の侵入を防ぐため辺境に駐屯させた軍団の司令官(玄宗皇帝の時に大反乱を起こした安禄山が有名)のことだが、日本では奈良時代に、地方の軍事責任者として征伐を任じられた臨時の役職。

注9 藤原朝カリ=聖武天皇の次の女帝、孝謙天皇の時代に絶対権力者となった藤原仲麻呂の四男。しかし仲麻呂は多くの敵をつくり、次第に女帝とも不仲となり、朝カリが多賀城を修復した天平宝字てんぴょうほうじ六年(762年)の翌年、天皇の軍に討伐され、朝カリも処刑された。仲麻呂は、天皇から恵美押勝えみのおしかつという名を与えられていたので、多賀城の碑文でも、朝カリは「藤原ノ恵美朝臣」と名乗ったのである。

注10 蒙古の僧=多賀城碑は、藤原朝カリが建立したことが明記されている。語佛師匠が「蒙古の僧が建てた」との伝聞を書き記しているが、根拠は不明。

注11 高尾太夫=江戸・吉原の遊郭、三浦屋で最も格式の高い遊女(太夫)が高尾。この名前は三浦屋が宝暦年間(1751〜64)に廃業するまで、11代にわたって継承された。その中で2代高尾は、仙台の3代藩主、伊達綱宗に見受けされたが意に従わずに殺されたという俗説から、「仙台高尾」と呼ばれる。
その綱宗は19歳で藩主となったが、酒乱の癖があり、江戸市中での幕府お手伝い工事現場を見回った帰途、吉原で豪遊したことなどがとがめられ、万治3年(1660)、藩主在位わずか2年で隠居、逼塞ひっそくを命じられた。そのあとを継いだ綱村の時代に起きたのが、仙台藩最大の危機「伊達騒動」である。たまたま約80年後の寛保年間(1741〜44)、姫路藩主の榊原政岑さかきばら まさみねが三浦屋の10代高尾を見受けして幕府のとがめを受けるという事件が起き、それが脚色されて伊達騒動を題材にした芝居に取り入れられ、「仙台高尾」のエピソードが生まれた。
語佛師匠が書き記した「高尾太夫の菩提寺」とか「戒名」は、まったく事実無根なのだが、伊達騒動は芝居ばかりでなく読本でもたびたび題材となり、当時の大衆には広く知られていた。それで作中人物が実在したかのような関係遺物が創作されたのだろう。

注12 妓楼も数多く=塩竃では仙台藩領内で唯一、遊女屋が公認されていた。

注13 ハモ=関西で好まれるハモ(鱧)ではない。この辺りで言うハモは、アナゴのこと。

注14 塩竃神社=祭神は、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)に祀られる武甕槌タケミカヅチ神と、香取神宮(千葉県香取市)に祀られる経津主フツヌシ神を本宮に、別宮に岐神チマタノカミを祀っている(岐神は別名・塩土老翁といい、注16参照)。武甕槌と経津主は、天孫降臨の前に高天原たかまがはらから地上に派遣された武神。大和朝廷の東征で、下総と常陸に神宮が創建されたことを考えると、多賀城を築いた時、陸奥一宮に相当する大社が必要とされたのだろう。そして、この辺りで古くから祀られていた、海に関する地方神を合祀し、いわば「陸奥総社」いう形で塩竃神社を創建したと推測される。武神を祀っているので武士の崇敬を集め、伊達政宗が「奥州一宮」にふさわしい威容を整えた。現在の拝殿は、4代藩主綱村の時に造営された。「社領千四百石」は、伊達家の寄進である。
語佛師匠が書き記した「味耜高彦根命」は、「アジスキタカヒコネノミコト」と読むが、誰を指すのかはわからない。「耜」は、農地を耕す「鋤」のこと。 

注15 泉ノ三郎=『奥のほそみち』では「和泉」三郎と記録されていて、こちらが正しく、語佛師匠は一字書き落とした。和泉三郎は、平泉の藤原秀衡の三男、忠衡のことで、源頼朝の圧力に屈した兄の泰衡が義経を攻めた時、兄にさからって義経を擁護し、最後は自刃した。江戸時代も、忠義の勇者として語り伝えられていた。

注16 海水から塩を焚いた塩竃=塩竃神社の末社のひとつに、御釜(おかま)社がある。祭神は塩土老翁シオツチノオキナで、日本の製塩の元祖とされる。神話で、兄のウミサチヒコから借りた釣り針を失くした弟のヤマサチヒコが浜辺で泣いているところへ通りかかり、竹で編んだ舟に乗せて海の神の許に行かせてやったのが、このシオツチノオキナだ。御釜社では、海水を煮詰めて塩を得る4つの釜を御神体としていて、塩竃という名にふさわしい神様は、こちらの方と言える。
先史時代の遺跡からは、海水をそのまま入れて煮詰める製塩土器が発掘されているが、奈良時代には「藻塩焼き」という製塩技術が開発された。大型の海藻を浜辺に積み上げ、海水をかけては天日に干すことを繰り返して塩分を多く付着させ、それを焼いた灰を海水に溶かしてから煮詰めるという方法だ。海水を入れる容器が「釜」で、その釜を据えた場所が「竈」かまどである。御釜社では毎年7月の例祭で、藻塩焼きの神事を執り行っている。全国で唯一、奈良時代の製塩をそのままの形で伝える行事だ。
語佛師匠は、「竈の水で潮の満ち干を知ることができる」と書いているが、具体的なことはよくわからない。

注17 六丁を一里=江戸時代の1里は通常36町。1町は約109メートルで、36町は3.9273キロメートル(約4キロ)となる。しかし奈良時代の1里は300歩とされ、6町(655メートル)だった。江戸時代、36町で1里を「大道」、6町で1里を「小道」という呼び方があり、仙台領内では「小道」が日常生活で使われていた。

注18 正宗様からの霊廟=仙台藩60万石の初代藩主、伊達政宗。鎌倉時代の守護から続く伊達氏としては、17代目に当たる。国宝である松島の瑞巌寺は、平安時代に天台宗の円福寺として創建され、鎌倉時代に禅寺となったが次第に衰微していた。それを全面的に改築したのは政宗で、瑞巌寺と名を改め、慶長14年(1609)に落成した。ちょうど仙台築城で各地から呼び集めていた建築技術者を、瑞巌寺建設にも当たらせた。

注19 石巻=北上川が石巻湾に注ぐ河口に位置する石巻は、江戸へ米を積み出す港として繁栄した。と言っても、北から南へ流れる本来の北上川は、石巻の手前で東へ方向を変え、雄勝おがつ半島の北で追波おっぱ湾に注いでいる。これを政宗の時代、上流で分流し、ほかの二つの川と合流させる大土木工事を行い、直線的に石巻に導いた。この河川改修によって平野部の新田開発が進んだ。さらに、追波湾から船で江戸を目指すには雄勝半島、その先の金華山沖と暗礁の多い難所が続くが、石巻から江戸までの安全航路が誕生した。これで北上川上流の盛岡藩、さらに八戸藩も蔵米を石巻から積み出すようになった。現在、石巻で海に出る川は「旧北上川」と呼ばれているが、これは明治以降の河川改修で、さらに分流した河川を「新北上川」としたためだ。
語佛師匠は「一泊した」というだけでそっけないが、当時の石巻は各藩の蔵屋敷が建ち並び、仙台藩の経済と交通の中心地だった。

注20 金華山=牡鹿半島の沖に浮かぶ、周囲26キロの島。西斜面の黄金山こがねやま神社は、神仏混淆だった江戸時代は金花山大金寺といい、弁才天を安置していた。修験の寺で、江戸時代になると金華山信仰が広まり、各地から参詣者が集まった。

注21 この山で初めて出た黄金=『万葉集 巻十八』に、大伴家持の「陸奥の国より金を出せる詔書をぐ」と前書きのついた長歌があり、その反歌「天皇すめろぎ御代みよ栄えむとあずまなる陸奥みちのく山に黄金こがね花咲く」は、よく知られている。語佛師匠の和歌は、この本歌取りである。
陸奥国司の百済王敬福くだらのこにきしきょうふく(朝鮮半島の百済の王族で、帰化人))から「金が出た」との報告が届いたのは、天平21年(1749、語佛師匠とは1年ずれている)2月で、東大寺の廬舎那仏の完成を目前にして、大仏の表面を飾る黄金がないことに聖武天皇が悩んでいた絶妙のタイミングだった。間もなく900両(12.6キログラム)もの金(高度な精錬技術のなかった当時は、砂金だったはず)が届き、聖武天皇を歓喜させた。
ただし、この金が出たのは金華山ではない。陸奥国司は「小田郡から出た」と報告している。それは現在の宮城県遠田郡涌谷町で、ここにも黄金山神社がある。神社境内と周辺が「黄金山産金遺跡」(国史跡)となっていて、発掘調査により「天平」の文字のある瓦が見つかっている。江戸時代は、金華山と混同されていたのだろう。
しかし、語佛師匠が「水中に黄金が見える」と書いていることについては、実態がわからない。

注22 高木=語佛師匠の誤字で、正しくは高城。石巻から仙台への帰途で言えば、松島の手前の宿場。現在はJR仙石線の高城町駅がある。
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