最終回 津軽深浦へ
◇八森銀山でも座敷を務める
 八月二十九日に出立し、能代から渡し舟で向能代へ行き、そこから駒田村を経て、八森村(注1)の目明し、佐左衛門殿を訪ねた。その夜は近所の衆が六、七人来て、座敷で一席演じた。
 明日は晦日(月末)なので、銀山(注2)へ行かなければならないと思っていたが、松前の大店の息子だったのが道楽で五、六年前からここに来ていた丸喜という人に雑魚獲りに誘われて出かけ、この日は逗留して、翌日に八森を出立した。
 椿村(注3)という所へ出たら、そこは海辺で大変に景色が良く、その間に濱田という村があって、そこからが椿村だったので
○時ならで椿の磯による波の岩にくだけて花とちりける

ここから藻浦(注4)という所へ出た。片方はずっと海で、もう片方は一面の田んぼだったので
○片方は藻浦の海よ岡もまた風に波うつ出来秋の米

 この辺りはどこまでも片方は海だが、東の方は山際まで田んぼが見渡され、ちょうど出来秋のことだったので
○どこまでも稲の中行く秋田かな

 米の実が入っているのを見て
○日の恩や米もぬかづく豊の秋
 
 そこから滝沼(注5)という村に出た。八森はこの近辺八か村の親村で、ここも八森の枝村なので
○八森の沢辺沢辺を流れ来てここに落ち合う滝沼の村

 ここから小入川という村(注6)に出た。ここから岩館銀山(注7)と道が二つに分かれていて、我らはここから二町ほどの八森銀山(注8)に行った。支配人の加賀谷五左衛門殿にあいさつし、役宅に落ち着いて二晩座敷興行をした。 
 ここには鉱山役所の手代、鉱山主(注9)、そのほか鉱山関係者の家が三十軒もある。もっとも、鉱山主というのは焼山(注10)といって、三里余も山を登った所に仕事場があり、ここに登れば前は海で、南には能代まで一望し、北は大間越から深浦(注11)まで見下ろすことができるという。

◇大間越から津軽へ
 九月三日、八森の佐左衛門殿のところへ帰ろうと思っていたのだが、小入川にいた間兵衛という人……もともと弘前の商人が佐左衛門殿を訪ねて来ていて、銀山へも商売をしに来ていたそうだ……が、ここから深浦までは八里しかないのだから、ついでに見物して行くといいと言うので、この間兵衛さんから紹介状をいただいて岩館の番所(注12)を越し、大間越(注14)の菊地嘉兵衛殿とおっしゃる方の息子の、柳蔵という方を訪ね、坂本屋重吉という宿に泊まった。
 岩館から一里半ほどは山道で、そこから海際に出て砂道を一里半、それから峠道にさしかかり、峠の上には御番所(注13)があった。そこから二町余は下り坂で、大間越村に着いた。その夜は、近所の人が二、三人来て落語を聞かせてほしいというので、一つ、二つ咄をした。
 三日、菊地柳蔵殿から紹介状をいただき、深浦へ向かった。黒崎村(注15)から松神森山という峠を越え、久田、浜中、岩崎(注16)という家数が百四、五十軒もある村を過ぎると、また山道で、人家はまったくなかった。岩崎まで大間越からは三里、岩崎から二里で深浦(注17)に着き、仙台屋伊右衛門殿という方を訪ねたのだが、何か少々取り込みがあるそうで、伊右衛門殿の口利きで加賀屋という宿に泊まった。
 四日は天気が大荒れとなった。宿の二階は西向きで、雨戸も開けられなかった。昼ごろになって雨がやんだ。
 そうしたところへ宿の主が来て言うには、「きっと寄席か、座敷興行をするつもりでおいでになったと思いますが、この深浦では、芸人は逗留できないのでございます。先だっても月元という祭文語り(注18)が来て、隣の宿で二晩、座敷を務めたのですが、三日目には早々に立ち去るようにとのお達しで、座敷代も集め回ることができず、お役人には祭文語りを旅出させたように見せかけて一晩隠しておき、ようやく出立させたということがありました。あなた様方は前々から名前をうかがっておりましたので、ぜひ一夜、二夜は咄を聞きたいと思いましたし、町の旦那衆にも聞かせたいと思い、昨夜から役人衆にいろいろとお願いしていたのですが、聞き届けてもらえませんでした。そればかりか、たとえ雨でも今日中には旅出させるようにと申しつけられました。残念ながらご出発くださいますよう、お願いいたします」とのことだった。
 これにはあきれてしまって、腹を立てることもできない。間兵衛に勧められて、うかうかとはまってしまった深浦に、今さら悔やんでも仕方ないことだが、とは言っても雨天では出発しかねる。なんとか一夜を過ごしてすごすご帰るのも我ながらおかしいから
○だまされてはまる深浦大間越われは不覚の大間抜けなり
 
 と、人に笑われるのもくやしくて
○山々のあけびにさえも笑われん口も開かで帰る秋田路

 その夜のうちに馬を頼んで、早々と深浦を後にした。
 (ここで突然、旅日記は終わっている。続きがありそうだが、現存していないのだろう)


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注1 八森村=能代市の北に位置する。海岸沿いに津軽へ通じる大間越街道の宿場で、八森村は昭和29年(1954)、北端で青森県に接する岩館村と合併して八森町となり、2006年には八森町と峰浜村が合併して現在の八峰町となった。JR五能線・東八森駅の東に、神輿をかついだまま滝にうたれる「神輿の滝浴び」で知られる白瀑(しらたき)神社がある。

注2 銀山=八森銀山を指しているが、その場所については、語佛師匠の記述には疑問が残る(後述)。

注3 椿村=JR五能線・八森駅から南へ700メートルほどの集落。現在の椿漁港の周辺。
明治20年(1887)、ここで銀鉱山が発見され、明治39年頃は大規模な露天掘りで月産5トンの銀を供給し、当時は「日本一の銀山」と言われた。その地名から「椿鉱山」とも呼ばれたが、これを「八森鉱山」と誤認している人も多い。大正4年(1915)から大日本鉱業の経営となり、「八盛鉱山」と改称し、さらに昭和8年(1933)、「発盛(はっせい)鉱山」と改められた。現在、海岸の八峰町中央公園に鉱山の記念碑がある。

注4 藻浦=現在の山本郡八峰町八森茂浦。JR五能線・八森駅の少し北側。

注5 滝沼=八森漁港のある「滝ノ間」と思われる。語佛師匠が聞き間違ったのかもしれない。海水浴場もある景勝地。

注6 小入川という村=小入川は、岩館漁港の少し南で日本海に注ぐ小河川。河口のすぐ上流、大間越街道がこの川を越える所が小入川村の集落。

注7 岩館銀山=どこを指すのか、語佛師匠の記述ではよくわからない。岩館集落は、小入川から北にあり、山中への道もあるが、どこに鉱山があったのか詳細は不明。

注8 八森銀山=語佛師匠は「ここ(小入川村)から二町ほどの八森銀山」と書いている。確かに現在、国道101号(大間越街道)の小入川橋から上流200メートルほどには「八峰町八森鉱山」という地名があるものの、江戸時代の「八森銀山」は全く別の場所とされている。それは、旧峰浜村(現八峰町)の北端、海岸から水沢川を16キロもさかのぼった山間地の水沢鉱山のこと。15世紀に発見された金、銀、銅、鉛の鉱山で、主として銀を生産し、寛永4年(1627)に秋田藩直営となった。最盛期には3千人が居住していたというが、間もなく衰退して行った。
 語佛師匠が訪ねた頃は、水沢鉱山は稼働していたものの、あまりにも山奥なので、それを支配する藩の役所は海岸部の八森にあったのだろう。

注9 鉱山主=実際に鉱石を採掘し、最初の精錬を行う請負業者。

注10 焼山=現在の能代市、藤里町、八峰町の3市町の境界にある山。この山を北西に下った所に八森銀山(水沢鉱山)があったので、ここに鉱山主がいたというのもうなずける。ただし、小入川集落から焼山までは直線距離で15キロもあり、高い尾根を越えなければならない。鉱山の請負者がどの道をたどって小入川の「八森銀山役所」まで来ていたのかは不明。

注11 大間越から深浦=標高963メートルの焼山は、付近では最も高い山で、日本海側には視界をさえぎる高所はないから、津軽の海岸部もよく見えたのだろう。

注12 岩館の番所=大間越街道に設けられた秋田藩の番所。岩館は大間越街道の宿場で、秋田藩領の海岸線では最も北に位置していた。

注13 峠の上には御番所=「津軽三関」のひとつ、大間越関所(番所)のこと。旧西津軽郡岩崎村(現深浦町)のJR五能線・大間越駅から少し南の、現在は鉄道と国道101号のトンネルが通過する丘陵上にあった。関所跡へは稲荷神社から登る道が整備されている。
寛文5年(1665)に津軽氏の参勤交代が羽州街道の碇ヶ関経由に変更されるまでは、大間越街道が参勤交代の公式路だったので、大間越関所は重要な関門だった。18世紀初期の記録では、月平均の通過者が碇ヶ関では250人いたのに対し、大間越は40人と数少なくなったが、弘前藩では町奉行、同心、町年寄などを常駐させ、通行人と所持品を監視していた。

注14 大間越村=関所を越えて最初の集落。江戸時代は弘前藩の湊目付がいて、北前船など出入りの船を監視していた港でもある。幕末に大間越稲荷神社の本殿と拝殿を再建した際の世話人は、松前と江差の商人で、松前、越中、能登などの商人、船頭から多くの寄進があったことからもわかるように、北前船の時代は、小さいながらも重要な港だった。

注15 黒崎村=大間越から北に位置する集落。大間越街道の宿のひとつ。

注16 岩崎=旧岩崎村(現深浦町)の中心地で、JR五能線・陸奥岩崎駅がある。ここも北前船の寄港地で、武甕槌(たけみかづち)神社には、松前の藩主が参勤交代の際に津軽海峡を越える御座船「長者丸」や、明治18年奉納の洋式帆船「勢重丸」の船絵馬が奉納されている。

注17 深浦=「津軽四浦」のひとつとされ、弘前藩が町奉行所を置いていた。城下の弘前への陸路は非常に不便だが、深浦湾は千石船が25艘も停泊できる広さと水深があり、風待ちや、嵐から避難する北前船でにぎわった。今も岸壁から300メートルほど沖には、北前船が綱をかけて停泊場所を移動させた「史跡深浦港一本杭」が見える。また、古刹円覚寺には、越前敦賀の商人が寛永10年(1633)に奉納した全国最古の船絵馬をはじめ70枚の船絵馬、嵐の海から生還できた船乗りが天に感謝するため、自分のちょんまげを切り取って板に打ち付けて奉納した「髷額」(まげがく)など、多くの海運史料が宝物館に展示されている。
 弘前藩の蔵米は、もっと北の鰺ケ沢港から積み出していて深浦より格上の港とされていたが、実際には深浦がそれをしのぐ繁華な町だったという。

注18 祭文語り=「祭文」は元来、祭りの際に神へ捧げる願文のことだが、山伏修験者が芸能化し、江戸時代には門口に立って歌い、金をもらう芸になった。古くはほら貝を吹き鳴らして伴奏していたのを三味線伴奏も加わり、心中事件などを脚色して取り上げるようになったことから人気が出て、大坂では常設小屋もできた。浪曲の源流のひとつとされる。
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