加護山を経て能代へ
◇祭礼でにぎわう加護山
 八月十三日、扇田(注1)を出立した。半兵衛殿の娘のお竹、ご内儀、それに小糸が加護山(注2)の祭礼に行くので同道し、やはり半兵衛殿の親類の源兵衛殿も息子を連れて来た。もう一人、加護山の人で、扇田に娘を嫁がせたのだが病気になっていた人が一緒になった。合計八人で、板沢(注3)という所から能代へ行く舟があるが、板沢まで二里以上あるし、それに小繋に上陸してからまた加護山までは一里もあるので、小舟に乗らなければならない。
 きょうは朝霧が濃い。皆さんが川の淵まで見送りに来たので、いとまごいとして
○別れ路の跡うちかくす今朝の霧

 それから船で一里余も行って、まだ五つ(午前八時)と思っていたら、すでに四つ(午前十時)になっていたので
○たちこめし霧のまにまに見渡せば昇る朝日み下る川舟
○まねかるる心地せられて振りかへる跡なつかしき扇田の里
 
 船中で弁当を開き、酒を酌み交わし、楽しみながら川を下った。加護山までは船路で九里余ある。板沢大館の船場から鷹巣へと、所々に風景が良く、七倉天神の鳥居を右に見て小繋まで行って、ここで(船場の)の帳面に(名前などを)記載し、八つ半(午後三時)ごろ加護山に着いて、御番所の小島東之丞殿方に落ち着いた。
 さっそく役宅へごあいさつにうかがったところ、船山(官平)様がお詰めになっていて、支配人の田口市十郎殿、本番重役の与五郎殿にお土産の扇子を持って行ったので、
○残る暑やまだ捨てられぬ扇橋……と上書きして差し上げた。

 十四日、十五日は、山神の御祭礼で、若い衆が村芝居をするので、能代の清右衛門殿のところにいる富吉という者が振り付けを頼まれて(加護山まで)来たという。
 祭礼中は騒がしくて、咄もできないので、船山様の配慮で、田口殿から紹介状をもらって太良だいら(注4)へ行った。
○御祭りの賑わひと聞く地芝居は神の心にかのふ加護山

◇山奥の太良へ
 太良までは山道で六里と少しある。一里半ちょっとで大沢という所に出て、そこから半里ばかりで藤琴村(注5)への渡し舟があって川を越えた。藤琴村の目明し、宇右衛門殿という方を訪ねたら、我らとは二十年以前に久保田で知り合った村岡佐吉殿がそこにいて引き留められ、二、三日もいればよいではないかと言われたのだが、太良へ急いでいたので、その夜だけ座敷興行をして、十五日には太良へ向かった。
 藤琴からの道は大変な難路で、一つの川を七、八か所で越えなければならなかった。藤琴からは川筋が二つに分かれる。一筋は太良から流れ出て、もう一筋は粕毛川(注6)と言って粕毛村から流れ出ている。粕毛川ではこの季節、鮎がたくさん獲れる。これに対して太良から流れ出す川は黒石川(注7)というそうだが、こちらは鉱石の金気も流れ出るのだろうか、魚は全くいないという。ただし、藤琴から下流では魚が獲れる。古歌に
鮎の魚うらやましくぞ見へにけり一年有りて二年なければ
 鮎は一年だけの魚で、子を成そうと川の瀬を登っては獲られ、後はさび鮎となって死ぬということなので
○二年なきものとしきける鮎の魚ただ一ト瀬に身をはたすなり

 太良への山道は、とても風景が良く、一ノ渡りという村に出た。その先に金沢(注8)という村がある。ここまでは、太良から加護山へ金属を積み送る舟が藤琴村から毎日やって来るが、この先は川底の石が高くて舟は通れない。この村には、太良から鉛を背負って、または牛馬の背にして運んで来て、入れておく蔵がある。
 金沢から寒沢という所に出た。その手前に橋があった。橋を過ぎると半里ほどでこの川を徒歩で渡る所があり、そこから一里ほどの登り坂を越えて太良に出る。役宅へ行って、支配人の木澤理左衛門殿の指図で文吉という方の宿に落ち着いた。太良鉱山の加藤名右衛門という手代は久保田の方で、昔から知っていた人だったから、とてもよく我らの世話をしてくれた。
 その夜は十五夜の月見で、宿の文吉殿の向かいの山の端から月が出たのを見て
○また一つ重なる秋や月今宵遠き雲井を越し方の空

 役宅でお座敷を務めたら、あの粕毛川で獲れた鮎を藤琴から送られて来たというので、私もご馳走になった
○望月にむかへる駒の粕毛川水にひかれてはねる若鮎
○若鮎のうつりに送る月の歌
 スケッチ=太良鉱山の辺り

◇能代へ
 十六日、十七日と三晩、座敷興行をして、十八日に太良を出立した。
 太良から半里ほど山奥に矢櫃(注9)という鉱山がある。支配人は成田新一郎殿というそうだ。矢櫃にも来てくれと言われていたが、藤琴から加護山へ急いでいたので、矢櫃には行かなかった。この成田新一郎殿というのは、近辺の鉱山の支配人頭で、先祖は成田儀兵衛殿といって銅山に勤めて功績があり、(久保田の)お屋形様から十人扶持をくだされたとのことだ。
 太良から山道で弘前までは九里ほどだという。三里ほど行くと、津軽と秋田の境に出るとのことだった。金沢まで二里行った所で、支配人の木澤理左衛門殿と出会った。加護山まで用事で行って、藤琴からは舟で帰って来られたという。その舟で藤琴まで行ったが、その道中の景色がよろしくて
○矢櫃よりはやき太良の下り舟弓手も女手も白金の山

 その夕方、藤琴に舟が着いて、村岡佐吉殿方へ行った。
○まつ風の調べやここに落とし来て糸ひく川の藤琴の里

 佐吉殿方で一晩、お座敷を務め、前々から「帰りには鮎をご馳走しよう」約束されていたが、十六日が大雨で川の水が大変増え、鮎を獲る網の留めを流してしまい、全然鮎が獲れなかったといい、大沢という所から鶏を取り寄せてご馳走してくれたので
○やくそくの鮎は出水に流されて鳥かわりたる今日のご馳走

 藤琴では相撲をやっている。この辺りの人たちが集まって、相撲で真剣につかみ比べをやるのが面白く、佐吉殿が一緒に来て見物した。
○川柳 村相撲土俵ですぐにせき普請

 二十一日、藤琴から加護山へ鉛を積んで送る舟に便乗を頼みに行ったのが昼ごろで、鮎をお土産にしようとあちこち探したが、いっこうに見つからず、ようやく四尾ほど探し当てた。これを船山様に差し上げることにして
○二つ三つ四手にかかる鮎の魚いささかなれど君へ呈上

 その夜は加護山の役宅で座敷を務め、二十二、二十三日もお座敷。二十四日に加護山を発った。
 加護山にはまだ、扇田のお竹親子が逗留していた。半兵衛に礼状を出していとまごいし、お竹親子とも別れた。
 と言っても、鉱山から能代へ銅を積み送る船に便乗をお願いしていたのだが、荷上場から切石の渡しを過ぎて、飛根、鶴形には船改番所があって、しばらくの間舟をつなぎ、銅と便乗の荷物などを検査したので、能代の木山方役所の下に舟を着けたのは八つ半(午後三時)ごろだった。ここにも御番所があった。
 (能代)柳町の八郎兵衛殿を訪ねたら、八郎兵衛殿の母親が病気で亡くなって五十日になるので、用事もあるし、法事を兼ねて久保田へ行ったとのことで留守だった。与七殿夫婦も留守だった。
 そんな折、酒田から馬琴門人の馬吟、宗山門人の新笑の二人が能代に来ていた。その夜は二人と酒盛りして、二十七日まで逗留し、大淵彦兵衛様へご挨拶にうかがった。
 二十八日は、八森(注10)へ行こうと思っていたが、この日は天社日(注11)で、庄屋の竹内庄右衛門様、大淵彦兵衛様、そのほか町役人衆の七、八人が料理屋の嘉兵衛殿方へ来て、私も座敷を務めた。この社日には高い家へ上って西に向かい、酒盛りをすると幸福が訪れると言われているので、料理屋嘉兵衛の二階座敷は西向きだからと皆さんが集まったそうで、
○ありがたき御製をここに天社日賑わふ民ものぼる高き家

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注1 扇田=旧北秋田郡比内町(現大館市)の中心部。奥羽本線の開通以前は、米代川の川港として栄えた。

注2 加護山=羽州街道の荷上場宿(能代市二ツ井町荷上場)から、米代川の支流の藤琴川を渡った対岸。加護山には、阿仁銅山の粗銅から銀を抽出する精錬所があった( 「奥のしをり9 春には津軽へ向かう」参照)。加護山の精錬所は、明治37年(1894)まで存続した。

注3 板沢=大館市。扇田から米代川を下り、長木川との合流地点にできた川港。

注4太良=「だいら」と読む。山本郡藤里町。米代川の支流、藤琴川を20キロメートル以上さかのぼった(語佛師匠は山道で六里という)山奥で、古くから鉛鉱山として知られていた。粗銅から銀を抽出するのに必要な鉛を太良から簡単に供給できることが、加護山に精錬所を設けた大きな理由だった。

注5 藤琴村=山本郡藤里町の中心部。昭和30年(1955)に藤琴村と粕毛村が合併して藤里村になり、その8年後に町政を敷いて藤里町が誕生した。藤琴は、藤琴川と粕毛川の合流地点。

注6 粕毛川=藤琴から北西にさかのぼり、水源を訪ねると青森県境まで至る。流域は峡谷美で知られ、語佛師匠が短歌に詠んだ天然アユは、現在も釣り人の人気を集めている。

注7 黒石川=現在は「黒石沢」という。太良付近で他のいくつかの沢と合流し、そこから下流が藤琴川となる。語佛師匠は黒石沢について「こちらは鉱石の金気も流れ出るのだろうか、魚は全くいないという」と書いているが、『秋田貨幣史』(佐藤清市郎著、みしま書房)によると、安永4年(1775)、当時は鉛を精錬していた加護山付近で煙害が発生し、農作物に被害が出た記録があるという。その上流にある太良では鉛鉱石を採掘していたから、その毒が川に流れ込んでいたと推測される。

注8 金沢=太良から藤琴川を8キロほど下った集落。『奥のしをり』によって、ここから上流は川舟が通れなかったことがわかる。太良の鉛を舟で運ぶための重要な場所だった。

注9 矢櫃=太良付近には小規模な鉛鉱山が散在していた。矢櫃もそのひとつと思われるが、詳細は不明。

注10 八森=能代から日本海沿いに津軽へ向かう大間越街道の宿場。旧山本郡八森町(現八峰町)。「秋田音頭」で「八森ハタハタ」と歌われるように、今は漁業が盛んだが、江戸時代初期には銀山、明治時代には銅の精錬所が操業するなど、鉱山と関係が深い場所でもあった。

注11 天社日=「天赦日」と書くのが正しく、「てんしゃにち」と読む。陰陽道で「何をしてもその罪を許す」とされる大吉の日で、四季それぞれにあり、語佛師匠が書き留めた旧暦8月28日は秋なので、戊申(つちのえさる)の日がその日にあたる。
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