津軽より秋田へ帰る―阿仁鉱山へ
◇再び大館に
 六月十三日、津軽の碇ヶ関から釈迦内村に入った。ここには、西明寺時頼入道の思い人である唐糸御前の没後七日に建てられた釈迦堂がある。それで釈迦内というのだ。仙北の角館(注1)には、没後十四日に建てられた釈迦堂があると聞いた。
 今日は大館(注2)まで行って、大町の越前屋吉郎右衛門という宿に泊まった。
 目明しの須藤半八殿を訪ねたが、久保田の城下へ行って留守のため会えなかった。それで、同役の原田三四郎という方を訪ねたところ、「芸人を集めて座敷興行でもしたらどうだ。四、五日逗留すればいい」というので、大館にとどまることにした。
 十四日には、黒石の如莱殿からの手紙を持って、肝煎りの石田宗右衛門殿(俳名は鴈口)、駅場(注3)役所の斎藤市郎右衛門殿(俳名は雪守)、岩沢作兵衛殿(俳名は月好)をお訪ねした。大館城下の内町の大沢謹次郎様……俳名は恭斎という方をお訪ねしたが、この方も久保田へ行っていてお目にかかれなかった。
 十四日からは、三四郎殿と嘉吉殿、お二人の世話で、一心院(注3)という寺で五日間の座敷興行を務めた。
 宿屋の吉郎右衛門の御隠居は庭づくりが好きで、庭を見ながら濁酒どぶろくを楽しみ、少々風流も好まれて、自分で「濁酒庵」と名乗っているので
○盃を友と楽しむ濁酒庵おのれ一升樽ことをしる

 十三日、宿の吉郎右衛門方に能代の女が津軽からの帰りだと逗留していたので、能代の丸萬八郎兵衛へ、その事情を知らせる手紙を出した。
 十七日、津軽から来た市川男女蔵が病気だからと大滝で湯治していたが、能代の目明しの新助殿から迎えが来て、(男女蔵が)越前屋へ来て「能代へ行く」というので、やはり能代の八郎兵衛に手紙を出した。
 我らも二十一日に大館を出立した。
 もっとも、阿仁への入口の米内沢(注4)という所で市が立つというので、大館の商人衆が荷物を送るという舟に便乗させてもらった。鷹巣(注5)という村まで六里あるからと、舟の中で商人衆に咄を所望され、一つ、二つ咄をしたところ鷹巣まで商人衆が一緒に来て、ご馳走になった。
 その夜は、三四郎殿からいただいた紹介状で兵四郎殿という方を訪ね、鷹巣の村内で座敷興行をした。

◇鉱山地帯の阿仁へ
 二十二日は、鷹巣から脇神村(注6)、七日市村(注7)、米内沢村まで行き、駅場役人の才助と申される方の家に泊まった。座敷から見える風景がとてもすばらしく、この日はここで市が立ってほんとうににぎわっていた。
 この村から「阿仁」の領分だという。二十三日、浦田村(注9)、前田村(注10)を通り、そこからは山道で馬は通れないという。
才助殿の座敷からは、すぐ前に阿仁川、その向こうには一面に田んぼが広がり、遠くに山々を見渡して、はるかには小繋の七倉天神の山(注11)が望まれて、よい景色なので
○ここらまで黄金の水や流れ来て小田もうるおう米内沢かも

 ここに、伊口内(注12)という小さな村がある。ここから久保田(城下)までの近道があるという。小阿仁(注13)へ出て山を越し、五城目へ出るという。しかし、大変な難所だという。
途中に架け橋があった。半分までは一枚板を渡し、残り半分は舟を渡して、そこから岩坂といって岩を切り開いて坂道を造っている。その上には芭蕉塚がある。表には大きな字で「芭蕉翁」とあり、裏には
雲雀ひばり鳴く中の拍子や雉子きじの声 はせを(注14)
右も左も花の金山      東野
と彫ってある。この(俳名)東野という人は、真木沢(注14)の手代、長谷川文助殿といって、当時は二ノ又(注15)におられた支配人の長谷川名右衛門殿の父親だそうだ。
○言の葉の石に花咲く金の山
スケッチ=難所の岩坂にある芭蕉塚

 ここから長野町(注16)まで二町ほどあった。
水無町(注17)から半町ばかり行った横町という所を経て、真木沢の役宅へ行った。ここに詰めておられる大久保正太郎様をお訪ねした。加護山からの手紙で支配人の橋木永助殿が取り次いでくださり、その夜は役宅に落ち着いた。大久保様にもお目にかかり、一席うかがった。
 二十四日は、大久保様がご検分のため三枚(注18)へ行き、六か所の鉱山を残らず見回るとのことなので、大久保様のお供をして三枚へ行った。大久保様が所々でご検分されている間、私は天狗平という所から一足先に行って、三枚の御台所おだいどころ(鉱山役所)の支配人、菊地利助殿と申される方を訪ね、役宅に落ち着いた。そこで二晩、座敷興行をした。
 ここの手代の治左衛門という人は俳人で、俳号を如松とおっしゃる。それで歌仙を仕立てようということになり
 音のして出口の知れぬ清水哉  松塢
 むげに折らるる藪の白百合   如松
これに続けて我らに第三句からを所望され
 馬柄杓で蚊柱叩く小侍     扇橋
 家のまがりのさてもうるさし  如松
 錦木の昔語りや門の杉     扇橋
 そうしているところに、宿屋から座敷で一席うかがいたいと言って来たので、宿屋へ行った。
 二十六日、一ノ又(注19)の支配人、木村半左衛門殿方へ行って、役宅に落ち着いた。三枚から一ノ又までの道は、とても風景が良かった。谷川の流れが面白く、両岸には岩がそびえ、所々に滝が見えた。鉱山主(注20)の小屋などもある。
 一ノ又では二夜、座敷を務め、二十八日に二ノ又の長谷川名右衛門殿と申される支配人方へ行った。ここは小沢鉱山(注21)の下山したやまで、家の数はとても少なく、支配人も役宅にお住まいになっておられた。
 (二ノ又の役宅座敷から森吉山(注22)を見渡すと、山の上の石灯籠まで見えた)

 一晩座敷を務めて、二十九日は萱草(注23)へ行った。ここもやはり小沢鉱山の下山で、役宅を住居にしている高橋清四郎殿を訪ねた。ここで一夜座敷を興行し、「もう一夜」と言われたのだが、小沢へ大久保様が到着されたので、七月一日、小沢の役宅へ行った。
 ここは阿仁でも一番の鉱山で、集落もたいへん広く、手代、鉱山主、そのほか諸職人が多く、家の数もかなりある。支配人も二人いて山口正左衛門殿、小林嘉兵衛殿、御勝手方は軍蔵殿、三治殿と申される。
 その夜、役宅へ(このあと落丁)

 真木沢から三枚へ一里余、三枚から一ノ又まで半里余、一ノ又から二ノ又まで半里余、二ノ又から萱草まで半里余、萱草から小沢まで一里余、小沢からはた町(注24)まで半里余、銀山町(注25)から真木まで半里余、はた町、銀山町、水無町、長野町合わせて十町ほどもあるだろうか。
○枝も葉もなお奥深く茂るらん黄金の花の真木沢の山
○朝夕の詠はつきぬ金の山これぞ月雪花の三枚
○金の蔓山からやまへまたがりて一ノ又より越ゆる二のまた
○萱草の中に黄金の花咲きて実る小沢の枝も大沢
○昔よりかかる矢比地に金わきて天下太良に山ぞ賑ふ
○卦の数にかのふや阿仁の八ヶ山これぞ払ひの八森の山
○三種よりただ一ト草の金のつる宝納むる院内の山
○吹き分くる千々の黄金のかつかつも宝入り来る山の賑ひ
○宝蔵へ納むる金や奥の上これを家形の御納戸の山
○金や山やまや黄金の蔦かづら
○五十歩も百歩もつづく金の蔓
○四季に咲く花や黄金の阿仁の山

 真木沢御詰合 大久保正太(郎)様、水戸部新助様、支配人橋本永助殿
小沢 同   上松平右衛門様、支配人山口正左衛門殿、小林嘉兵衛殿
 三枚御詰合はいなくて、支配人菊地利助殿
 一ノ又  同     同  木村半左衛門殿
 二ノ又  同     同  長谷川名右衛門殿
 萱草   同     同  高橋平四郎殿

 加護山御詰合 船山官平様  支配人田口市十郎殿
 太良  同  長峯政兵衛様  同 木澤理左衛門殿
 矢比地 同  大井隼人様   同 成田新一郎殿
 八森             同 加賀谷五左衛門殿
 院内             同 村木六郎兵衛殿
 奥ノ上

 八森(注26)と太良(注27)はとても古い鉱山で、平城天皇の大同二年(注28)に開かれたという。それで記録にも「八森古銀山」と書いてある。奥ノ上(注29)は南部領との境に位置する銀山である。
 スケッチ=阿仁の諸鉱山の俯瞰図

阿仁は六ケ所の山のどれもが銅山で、院内は金銀山(注30)である。太良は鉛山で、八森は銀山である。
ここ(小沢)は去年四月の火事で類焼した家が新しくなっていた。調理場なども新しくできていた。ことのほか役宅はきれいだ。それは、このほど幕府の金山御巡見使がみえられるとのことで、連絡によれば半田銀山(注31)から南部領、津軽領を御見分なさって七月中頃に阿仁へおいでなさる予定だからだろう。
御巡見使は幕府御勘定方(注32)の本山幾次郎様、御普請方(注33)の土屋弥一様、金座役人(注34)の原良蔵様の三人だそうだ。そういう理由で、役宅の普請も立派にでき、一万石くらいの大名屋敷ほどもある建物だ。
小沢で二晩、座敷興行をして、「もう一夜、咄を聞かせてほしい」と言われたのだが、大久保様が真木沢へお帰りになるのに同道して、私も真木沢へ帰った。そこで、また役宅に落ち着き、二晩お座敷を務めた。
小沢から真木沢へ行く途中、大館の三四郎様からの紹介状を持って銀山町の目明し、巳ノ松というお人を訪ねたが、留守で会えなかった。
六日に、阿仁の木山役所(注35)へ大久保様が行くのに同道した。木山役所にお詰めになっているのは山形政之丞様、加藤縫之助様で、その夜は座敷で一席演じ、翌七日、木山方の役所から船で米内沢まで送ってもらった。
朝は少々雨模様だったが、四つ(午前十時)ごろから晴天になり、昼頃から夕方まではまたまた夕立が来て、ようやくの思いで米内沢に着いた。
○陸よりも近き船路や弓とつる矢をいるごとく下る阿仁川
○夕立に追われて阿仁の下り船

 その夜は米内沢駅場の才助方に泊まったのだが、七つ(午後四時)ごろから大雨になって、雷も鳴り始めた。久しぶりの雨だというので、稲はもちろん畑作物までうるおうと皆々喜んでいた。
○夕立や田づらも太る米内沢

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注1 角館=「みちのくの小京都」とも言われる、佐竹北家の城下町。現在は仙北市。西明寺時頼入道と唐糸御前にまつわる伝説の地は角館ではなく、隣接する西明寺村(旧西木村、現仙北市)にあることは、前回の「注8」で紹介した。ここに書かれている「釈迦堂」は現在、大国主神社になっている。

注2 大館=北秋田地方の中心都市。戦国時代は浅利氏の城下だったが、常陸から秋田へ移封された佐竹氏は、一門の小場おば義成を城代として、南部、津軽への備えとした。小場氏は後に佐竹西家と呼ばれ、明治維新までこの地を支配した。その中核となる大館城は石垣も天守閣もなく、居館を土塁で囲んだ城だったが、徳川幕府の「一国一城令」が発せられた(元和6年=1620)後も存続を許された。これは、「一国一城令」に対して佐竹氏が非常に敏速に、領内の支城を破却したことを、2代将軍・徳川秀忠が喜んだからだと伝えられている。
語佛師匠が大館を訪れた時も城はあったが、戊辰戦争の際に盛岡藩(南部氏)の攻撃で焼失し、現在は跡地が桂城公園になっている。

注3 駅場=公用の馬を常備しておく所。法令で馬の数も決まっていて、大館の場合は5頭。

注4 一心院=起行山一心院。大館市谷地町にある浄土宗の寺院。もともとは茨城県(常陸国)にあったが、佐竹氏の秋田転封に伴い、佐竹東家が大館に来て、一心院もここに再建された。

注5 米内沢=旧森吉町(現在は北秋田市)の中心部。米代川の支流、阿仁川中流の川港として発展した集落。阿仁川上流部には阿仁の鉱山地帯があり、鉱石の中継地点として、また阿仁川流域の生活物資の集散地として栄えた。「浜辺の歌」や、童謡「歌を忘れたカナリヤ」、「赤い鳥小鳥」の作曲家、成田為三の出身地。秋田内陸縦貫鉄道・米内沢駅がある。

注6 鷹巣=旧北秋田郡鷹巣町。現在は北秋田市。米代川右岸に位置し、鉱山地帯である阿仁地方への玄関口として、また米代川流域の木材の集散地として栄えた。現在は、JR奥羽本線・鷹巣駅から、阿仁地方を経由して仙北市・角館(JR田沢湖線・秋田新幹線角館駅)へ通じる秋田内陸縦貫鉄道が運行されている。

注7 脇神村=鷹巣から米代川を渡った対岸の集落。現在は、すぐ南に「大館能代空港」(あきた北空港)ができている。

注8 七日市村=国道105号(阿仁街道)に面した、旧鷹巣町の南端に近い集落。ここから小猿部川をさかのぼると、江戸中期から昭和30年代まで金、銀、銅、鉛などを産出した明又あかりまた鉱山跡がある。

注9 浦田村=米内沢から阿仁川を少しさかのぼった左岸の集落。浦田八幡神社境内には、文政12年(1829)に作られた阿仁街道の道標が保存されている。

注10 前田村=旧北秋田郡森吉町。浦田からさらに阿仁川をさかのぼると、秋田内陸縦貫鉄道・阿仁前田駅がある。ここが前田村の中心地で、秋田県立森吉山自然公園への入口でもある。戦前は、2カ所の炭鉱(前田鉱山と七日市鉱山)で採掘される石炭の搬出基地だった。また、地主の小作料値上げに反対する小作農民組合が決起し、昭和4年(1929)に流血の乱闘事件にまで発展した「阿仁前田小作争議」(秋田県の三大小作争議のひとつ)の舞台としても知られる。

注11 小繋の七倉天神の山=小繋は旧山本郡二ツ井町(現在は能代市)で、米代川の右岸に位置する。「七倉天神」というのは、やはり米代川右岸の「七座ななくら神社」のことだろう。しかし、米内沢からは阿仁川沿いに平地が続いているとは言え、神社までは見通せない。語佛師匠は、その手前の米代川左岸にある七座山(標高287メートル)を遠望したと思われる。
 
注12 伊口内=「ここから久保田(城下)までの近道」というのは、現在の国道285号(五城目街道)のこと。伊口内は、この道筋の集落と思われるが、現在は小字名にも見当たらない。

注13 小阿仁=阿仁川の支流に小阿仁川がある。その上流部が北秋田郡上小阿仁村で、米内沢から国道285号を走ると、上小阿仁村を経て南秋田郡五城目町に至る。江戸時代も、単に「小阿仁」と言えば、現在の上小阿仁村の地域を指していた。上小阿仁村は、現在の秋田県に三つしか残っていない「村」(他の二つは南秋田郡大潟村と雄勝郡東成瀬村)のひとつ。

注14 雲雀ひばり鳴く中の拍子や雉子きじの声 はせを=「はせを」は松尾芭蕉のこと。「ばしょう」を文語で表記すると「はせを」となる。この句は『猿蓑』に収められている発句で、元禄3年(1690)の作品。「中の拍子」は、能の謡曲をうたう間に時々鼓が拍子を打ち入れることで、鳴き続ける雲雀の声を謡曲に見たて、雉子が時々鋭く鳴く声を「中の拍子」ととらえたのである。芭蕉が旅した最北の地は象潟(秋田県にかほ市象潟町)なので、阿仁とは無縁の句だが、俳諧に親しんだ(俳号)東野が脇句を添えて石碑を立てたのだろう。しかし、この芭蕉塚は現存していないようで、はっきりした場所は不明。

注14 真木沢=現在の北秋田市阿仁真木沢にあった銅山。阿仁川の右岸に位置し、いわゆる「阿仁十一山」のひとつ。宝永3年(1706)に発見され、大正6年まで続いたと記録されている。全盛期には戸数百戸以上を数えたという。

注15 二ノ又=阿仁川の支流、小様川をさかのぼり、さらに支流の二ノ又川の上流部にあった銅山。少しあとに記されているように、小沢鉱山の支配下にあり、御台所(鉱山役所)も小さかったという。
 昭和60年発行の『阿仁鉱山跡探訪』(戸島チヱ、私家版)によると、今でも多くの坑口が確認でき、道路わきには「無縁墓」と刻まれた文化13年(1816)の石塔が残っているという。
 江戸時代に奥羽と蝦夷地(現在の北海道)を遍歴し、最後は秋田で没した旅行家、菅江真澄は享和2年(1802)から文化2年(1805)までの4年間、阿仁地方にたびたび足を踏み入れている。享和2年10月には二ノ又に泊まり、森吉山に登った。

注16 長野町=現在、この地名は見当たらない。「奥のしをり」の記述に従えば、水無町の北に続く町並みだったと思われる。

注17 水無町=北秋田市阿仁水無。現在の秋田内陸縦貫鉄道・小淵駅と阿仁合駅の間にある集落。羽州街道の小繋宿(旧二ツ井町、現能代市)、または坊沢宿(旧鷹巣町、現北秋田市)から分かれた阿仁街道は米内沢で合流し、阿仁川沿いに南下するが、水無は米代川・阿仁川の舟運の終点で、鉱山関係者の生活物資の陸揚げ、逆に鉱山で採掘・精錬した粗銅の積み出し地として繁栄した。現在も水無の船場跡には、「カラミ」(鉱石を精錬した後のカス)が野積みされたまま残されている。

注18 三枚=阿仁川の支流、小様川沿いにあった銅山。寛文7年(1667)に発見されたとされ、以後、大正5年(1916)の廃山までおよそ250年間続き、最盛時には200戸の集落があったが、跡地は現在、山林と化している。幕末の万延2年(1861、2月19日に文久と改元)建立の芭蕉句碑「免砂めずらしや山をいでの初茄子なすび」が現存している。これは、地元の俳人グループ「花月連中」が建てたもので、語佛師匠が連句の会に参加したことでもわかるように、和歌俳諧をたしなむ知識人が多かったようだ。
 三枚から南西へ約4キロメートルの小沢鉱山までは、明治17年(1884)に貫通したという隧道があった。すべて人力で掘り進んだ苦難がしのばれる坑口は、今も確認できる。

注19 一ノ又=阿仁川の支流、小様川のさらに支流の一ノ又川をさかのぼった奥地の銅山。宝永7年(1710)に発見され、明治31年(1898)に廃山となったが、その後も細々と採掘されたらしい。最盛期には戸数100戸を数え、大正の初めに集落の7戸が全焼した火事が記録されているから、廃鉱後も住民がいたことがわかる。
 現在は、森吉山への登山ルートのひとつになっている。菅江真澄も享和2年(1802)12月、森吉山の北麓にある白糸の滝を厳冬期に見たいと思い立ち、一ノ又の釜の沢にある戸塚鶴歩という人の宿に三日間も泊まっている。大雪で動けなかったためだが、雪踏みの男たちを雇って一の又からは北の小又川に出て、川沿いに山道を登り、森吉、女木内(おぎない)などの集落を経由して、現在の国民宿舎森吉山荘からすぐの白糸の滝を見物した。しかし真澄が歩いた小又川沿いの地域は、今では2011年に完成した森吉山ダムのダム湖に沈んでいる。

注20 鉱山主=阿仁の鉱山は秋田藩の直営だが、実際の採鉱、精錬などは大坂商人が請け負っていた。

注21 小沢鉱山=秋田内陸縦貫鉄道・阿仁合駅から南東の小沢山にあった銅山。江戸初期には金、銀を産出したが、鉱床上部の金鉱脈はほどなく枯渇し、銅山として本格的な採掘が始まり、「阿仁銅山」とも言われた。寛文10年(1670)から、大坂商人によって経営され、秋田藩に運上金を納めた。

注22 森吉山=標高1454.2メートルの、なだらかな山容の休火山。秋田県の高い山は、ほとんどが隣県との境界にあるが、森吉山は純粋に秋田県内に位置している。北秋田地方では最も高い山で、周辺には景勝地が多く、秋田県立自然公園に指定されている。
 漂泊の旅人、菅江真澄も享和2年(1802)10月と文化2年(1805)8月の2回、森吉山に登っている。

注23 萱草=秋田内陸縦貫鉄道・萱草駅(阿仁合から二つ南の役)から東に入った山中の銅山。阿仁鉱山の中では最も南に位置する。

注24 はた町=北秋田市阿仁銀山畑町。秋田内陸縦貫鉄道・阿仁合駅から少し南に位置する。

注25 銀山町=北秋田市阿仁銀山。旧阿仁町役場があった、この地域の中心地。旧役場は現在、北秋田市役所阿仁庁舎になっている。
 地名のように、14世紀にはこの付近で金、銀が発見され、江戸初期、秋田藩の直営鉱山となってから銀山町は発展し、人口1万人にも達したという。金、銀は早くに掘りつくしたが、小沢銅山をはじめ「阿仁十一山」と呼ばれる銅山が次々に開発され、鉱山経営を請け負った大坂商人によって中国地方、北陸地方を中心に全国から鉱山で働く人々が集まって来た。人の移動が少なかった江戸時代としては、特異な場所となった。そして、鉱山に入った人々の中には、隠れキリシタンも多かったと伝えられている。また、阿仁銀山の専念寺には、瀬戸内で産した御影石の墓石が現存している。これは、北前船の寄港地だった能代から米代川、さらに阿仁川をさかのぼって運ばれて来たもので、江戸時代を通じて阿仁地方は、大坂、瀬戸内、日本海沿岸各地と結びついていた。
 明治初期、阿仁鉱山は政府の経営となり、ドイツ人技師のメッケルなどお雇い外国人が派遣されて来た。明治13年(1880)、彼らの宿舎として建設されたレンガ造りの洋風建築「異人館」が、国の重要文化財に指定され、保存されている。阿仁鉱山はその後、古河市兵衛に払い下げられ、さらに古河鉱業に移管されて、昭和54年(1979)に閉山となるまで続いた。 

注26 八森=ここは阿仁ではなく、日本海沿いに北上した山本郡八峰町の旧八森町にあった銀山。JR五能線の秋田県最北の駅、岩館駅の南に岩館漁港があるが、その少し南で海に注ぐ小入川を1キロほどさかのぼった山中にある。国道101号の小入川橋からは200メートルほどで、現在は八峰町八森銀山という地名になっている。江戸時代初期に開発され、最盛期には千人を超える労働者がいたというが、鉱脈の衰退と再開発を繰り返した。

注27 太良=「だいら」と読む。ここも阿仁ではなく、山本郡藤里町にあった鉛・亜鉛鉱山。慶長年間(1596〜1615)に発見された銀山との記録がある。旧二ツ井町(現能代市)で米代川に合流する藤琴川を30キロもさかのぼった山間地にあるが、最盛期には750人が暮らしていたという。この鉱山が注目されたのは、安永2年(1773)、科学者の平賀源内と、石見銀山の山師・吉田理兵衛が秋田藩の招きで阿仁の鉱山を調査に訪れ、鉛を触媒として粗銅から金、銀を吹き分ける技術を伝えたことによる。それまで秋田藩は、能代港から積み出していた粗銅に多分の金、銀が含まれていたことを知らなかったので、新たな精錬法によって多額の利益を生むことになった。そして安永4年、米代川と藤琴川の合流点近くに、加護山の精錬所を建設して、阿仁鉱山の銅と、太良の鉛によって金、銀を得るようになった。
 その27年後の享和2年(1802)、太良を訪れた紀行家、菅江真澄は、「八百八口と言われるほど多くの坑口があり、山にも谷にも蜂の巣のように坑道があった」と書きとどめている。「奥のしをり」の旅のころは、太良鉱山も活況の時代だった。
ただし、粗銅からの金、銀の精錬は幕府には秘密であったらしく、加護山では幕府の許可を得ずに銅銭も作っていた。さらに二分金や一分銀も密造し、明治2年から3年にかけての5か月間、山奥の太良でも一分銀が作られた。これは戊辰戦争の戦費による秋田藩の財政難のためだったが、明治政府が禁止していた貨幣鋳造で、明治4年に発覚し、「秋田ニセ金事件」と呼ばれる大事件に発展し、関係者が処罰された。

注28 大同二年=西暦807年。平安時代。

注29 奥ノ上=現在、この地名は見当たらない。「南部領との境に位置する銀山」と書いてあることから推測すると、江戸時代は盛岡藩領だった鹿角市に隣接する場所なのだろう。旧比内町(現大館市)の大葛おおくぞには金・銀を産出した記録があるので、この辺りとも考えられる。

注30 院内は金銀山=ここも阿仁地方ではなく、秋田県内陸部では最も南に位置する旧雄勝郡雄勝町院内(現湯沢市)にあった銀山。江戸時代直前の慶長元年(1596)に発見され、明治末まで約3百年間も繁栄した(閉山は昭和29年)。日本最大の銀山として知られ、明治時代の銀生産量は4百トン、金も1トンに達した。幕末の頃の院内銀山町は戸数4千戸、人口1万5千人で、にぎやかさは久保田城下をしのぐとさえ言われた。
 菅江真澄は漂泊の旅を始めて間もない天明5年(1785)、32歳の正月を湯沢で迎え、その4月、院内銀山を訪れている。

注31 半田銀山=福島県伊達郡桑折こおり町にあった、日本有数の銀山。福島市から北上した桑折町は江戸時代、奥州街道から羽州街道への分岐点となる宿場だった。JR東北本線・桑折駅前を北へ進み、西側の鉄道をくぐり、さらに東北自動車道をくぐってすぐ右側に、「半田銀山遺跡と記念碑」がある。さらに進むと、半田銀山の採鉱を請け負っていた北半田村の名主、早田家の屋敷が現存している。半田銀山は江戸時代、幕府の桑折代官や佐渡金山奉行の管轄だったが、明治以降は大阪経済界のトップ、五代友厚が経営者となり、さらに昭和になって日本鉱業に引き継がれ、昭和26年(1951)の閉山まで続いた。名主・早田家の屋敷内には、五代友厚の息子が居住していたという。「奥のしをり」に登場する幕府の金山御巡見使が、東北地方の巡見の最初に半田銀山を訪れたのも、当然のことだった。
 なお、銀山跡の後方にそびえる半田山(標高863メートル)は、前面の山腹が大規模な土砂崩れを起こした特異な風景を見せていて、東北新幹線の車窓からもすぐわかる。山の中腹には土砂崩れでできた半田沼のある景勝地で、半田山自然公園として地元の人々に親しまれている。語佛師匠も仙台への奥州街道の道筋で、半田山の山容を見たに違いない。

注32 幕府御勘定方=勘定奉行の下で、幕府財政を管理する役職。租税の徴収、金銀の出納、代官の配置などの職務の中に、金銀銅山の管理もあった。ただし、勘定奉行は各種の訴訟も扱い、その役職は「公事方くじかた」という。これに対し、財務・民政の担当者は「勝手方」という。鉱山を管理していたのは「勝手方」に属する役人である。

注33 御普請方=城の修復など大規模な土木工事を担当する普請奉行に属する幕府の役人。普請方は、勘定奉行の支配下にあるので、鉱山の巡見使を命じられたのだろう。

注34 金座役人=勘定奉行の支配下で、金の地金を管理し、金貨(主として1両小判と一分金)を製造した役所が「金座」。当初は、小判の製造所と役所が別の場所にあったが、元禄11年(1698)から日本橋本町にまとめられた。そこに現在は、日本銀行本店がある。なお、銀貨を製造していたのが「銀座」。銅貨であるぜにを製造する銭座は、江戸初期には幕府の認可を受けた全国50カ所以上にあったが、品質にばらつきがあることなどから18世紀後半、江戸市中に集められた。しかし銭は非常に大量に流通させる必要があり、製造所も多数あった。

注35 木山役所=秋田藩の林業を管理した役所。阿仁川流域は、木材資源が豊かで、鉱石の精錬に必要な木炭を豊富に供給できたことも、鉱山発展の大きな支えとなった。
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