再び黒石へ
◇中将実方と入内雀
 五月のみそかに青森を発った。(青森へ来る時に通った)一ノ沢から半里ばかりの所に、入内にゅうない(注1)という場所がある。ここは中将実方朝臣(注2)の旧跡で、入内山杲福寺こうふくじという寺がある。千手観音がご本尊で、境内に実方朝臣の塚がある。実方朝臣は「みちのくの歌枕を見てまいれ」との仰せを受けて、ここまで下って来られたが、ここに道祖神のお宮があり、馬を曳く馬子に「馬を下りてくだされ」と言われたのに対して、「我は中将である。なんで道祖神に対して下馬しなければならんのだ」と言い、そのまま通過したところが、直後に落馬して亡くなられてしまった。その魂が雀となって京の都を慕い、内裏まで飛んで行ったので、これを入内雀(注3)といい、またここを入内というのだそうだ。この杲福寺に実方朝臣の烏帽子えぼし狩衣かりぎぬなどさまざまな宝物がある。
 ここから黒石の如莱殿の家に行き、また二、三日逗留した。
 この入内の近くに、塩焼藤太という者の住んでいた旧跡があるという。しかし、塩焼藤太という人がどこの、何をした人なのか実像は不詳である。落人と思われる。

◇西明寺時頼と唐糸御前
 また、藤崎という所に唐糸の池というのがある。これはその昔、西明寺時頼入道(注4)の思い人である唐糸御前という女性が、時頼につながる場所を訪ねてここまで来て、この池に身を投げたということで、この辺りを唐糸野と呼んでいる。弘前に唐糸山藤先寺とうせんじ(注5)という寺がある。ここは唐糸御前のなきがらを納めた寺で、宝物が数多くあるそうだ。天保十二年に御開帳があるという。弘前の長勝寺(注6)の釣鐘も、唐糸御前の菩提を弔うために鋳造したそうだが、本当かどうかはわからない。
 (秋田から津軽への道中で、大館から一里の釈迦内(注7)という所に、釈迦堂がある。これは唐糸の初七日忌に建てられたと言われる。また、秋田の仙北に、没後二七日ふたなのか三七日みなのかまでに建てられた釈迦堂(注8)があるそうだ)

◇坂上田村麻呂にちなむ旧跡
 黒石から二里ばかりの所に猿賀山(注9)というお宮があり、坂上田村麻呂将軍が建立したという。猿賀山深砂宮というそうだが、どんな神様なのかわからない。たくさんの人が参詣するという。
(ある人の言うには、猿賀山は田村麻呂将軍が退治された鬼だとか。むしろ七枚で包んで、ここに埋めたのだ。歯は長さ五寸ほどもあって、今でも時々、それを掘り出す者がいると言われている)
 また、黒石の藩主の屋敷内に稲荷神社がある。これも田村麻呂将軍の建立と伝えられ、大きな木製の面が多数ある。これは田村麻呂将軍が蝦夷をお討ちなさった時、この面を兵士にかぶせて蝦夷を脅しなさったという。大変古い物で、これを見ると、さもありなんとも思える。
 西明寺時頼のことは、本当のこととはあまり思えない。時頼を描いた絵の賛に、「いにしえの鎧に今はひきかえて衣一重を通す矢もなし 詠み人知らず」とある。
○雲の上のとがめは遠き歌枕実に敷島のみちのくの果て
○唐糸の糸ももつれし物語りいつの時頼言いふらしけん
○その顔も夕日に赤き猿賀山しんしゃ(注10)宮とはよく名づけたり

 ここから五所川原(注11)、木造(注12)、深浦、鰺ヶ沢辺りまで行けば、きっとさまざまな名所旧跡もあるのだろうが、秋田へ早く帰りたいので六月五日に黒石を出発したが、蔵館、大鰐(注14)という温泉場があり、大鰐の川原子の湯でしばらく湯治した。ここでは田中重次郎とおっしゃる方の宿に泊まった。この湯を「からこの湯」という。川原子を縮めたのだろう。三日で湯舟を一回りするほどの強い湯だ。瘡などにはよく効きそうだ。
○ひりひりと体にしみて熱ければからこの湯とや人のいふらん

 スケッチ=男女の風俗。農業、山かせぎなどに出るは、下には裂織、刺し子などを着て、上には紺の麻布のはんてんを着る。寒い国なので猪、鹿、狐、狸の皮などを上に重ね着して、笠はアラダイという草で編んだくくり留めに、青苧で房などを下げる。女は同じ紺の麻布はんてんに、同じ麻をいろいろ美しく染めたのを着る。被り物は風呂敷を二つに織り、頭巾のようにかぶって、後ろで結ぶ。稲の植え付けは、三月上旬に苗代を作り、十四、五日ごろ種もみを蒔いて、山々から若葉を刈り取って来て肥料にする。早ければ五月初め、遅くとも二十日頃には残らず苗を植えてしまう。残暑の強い年は豊作だという。

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注1 入内=青森市入内。青森空港から4?ほど東に位置する。江戸時代は観音堂があり、弘前から青森への道筋のひとつだったこともあって信仰を集めた。現在は寺ではなく、小金山神社となっていて、「津軽三十三観音」の24番札所である。

注2 中将実方朝臣=百人一首の「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思いひを」(こんなにもこがれていますと それだけでも伝えたいのにとても言えない 私はまるで伊吹のさしもぐさ 火がついて 私は燃える 熱して燃える でもあなたには この火は見えない=大岡信訳)で知られる歌人、藤原実方さねかた。清少納言の恋人と言われている。左近衛中将にまで出世したが、書家として知られる藤原行成と和歌のことで口論となり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てたのを一条天皇が見とがめ、「歌枕見てまいれ」と実方を陸奥守に左遷したという説話がある。しかし一説には、「歌枕」が歌に詠まれた土地、地名という概念の確立されていなかった当時、自ら陸奥の歌枕の旅を願い出たとも言われている。実方が都へ帰ることなく、長徳元年(995)、客死したことからさまざまな伝説が生まれたのだろう。実方の生年は不明で、死んだのは40歳ごろと推測されている。
 「奥のしをり」では、実方の死の様子を書き記しているが、実方が騎乗のまま道祖神の前を通り過ぎた直後、神罰によって落馬して死んだことは『源平盛衰記』に記されている話で、それは現在の宮城県名取市愛島の笠島道祖神だとされている。ここに実方の墓とされる塚があり、実方が没しておよそ200年後、西行がこの地を訪れて「朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きてかれ野のすすき形見にぞ見る」と詠んだ。その頃はすでに、実方の墓は忘れ去られ、生い茂ったススキが取り囲む荒涼とした風景だったのだろう。
 それからさらに500年後、『奥のほそみち』の旅で芭蕉も実方の墓を訪ねようとした。しかし村人に「その墓なら、遥か向こうの山ぎわの、笠島という集落にあって、形見のススキもある」と教えられたものの、五月雨(梅雨の長雨)で道がぬかるみ、体もくたびれていたので、「笠島はいづこ五月のぬかり道」の句を残し、遠くから山を眺めただけで通り過ぎた。
 笠島の道祖神は、明治になって佐倍乃さのえ神社と改名され、実方の墓も現存している。だが、実方の墓は遠く離れた山形市にもある。山形県庁の南に見える千歳山のふもとにある古刹、萬松寺ばんしょうじ境内だ。そしてこちらは、歌枕「阿古耶あこやの松」にちなむ場所でもある。「陸奥のあこやの松に木がくれて出づべき月の出でやらぬかな」(『夫木ふぼく和歌抄』、詠み人知らず)がその歌だが、これは阿古耶姫の悲恋物語にちなむ歌である。藤原鎌足から4代目の豊充という人の娘が阿古耶というから、実方よりも遥か昔の物語だ。陸奥国守として赴任した豊充に同行した姫が土地の若者と契り結んだが、若者は実は松の精だった。その松の木が切られてしまい、嘆き悲しんだ姫が、その跡に新しく植えたのが阿古耶の松だという。『平家物語』には、実方が阿古耶の松を捜し歩き、国境を越えて出羽の国に入って見つけたのが萬松寺の裏山にある松の木と伝えられている。
この話には後日談がある。実方が笠島で亡くなった後、中将姫とも、十六夜姫とも呼ばれた実方の娘が父を訪ねて来た。父は遺言で千歳山に葬られたと知り、父の墓に毎日のように詣でていた姫に、毎晩、若者が通って来るようになったのだが、実はそれは松の精で……そのあとは阿古耶姫の伝説と同じ経過をたどる。この話が伝えられる松の木は、県境を越えた宮城県側にある。そして萬松寺の実方の墓には、ふたつの墓が並んでいて、それは阿古耶姫と、実方の娘の中将姫の墓だという。
この2本の「阿古耶の松」は、仙台城下と山形城下を結ぶ笹谷街道の藩境をはさんだ場所にある。「奥のしをり」の旅より50年ほど前の天明元年(1781)、江戸の商人で歌人の津村淙庵という人が、奥州街道を通って仙台、松島を見物した後、羽州街道を経て秋田に滞在した紀行文『阿古耶の松』(細川純子訳、無明舎出版)を残しているから、阿古屋の松は江戸時代もよく知られていたことがわかる。ただし淙庵は、笹谷街道から少し北の二口街道を通って天童の方へ出たので、歌枕を紀行文の題名にしたものの、笹谷街道の「阿古耶の松」は見ていない。
このように、藤原実方の伝承は現在の宮城県と山形県に集中していて、実方が津軽まで来た記録もない。「奥のしをり」の話は、実方にまつわる「入内雀」の伝説と、黒石から青森への道筋にある「入内」という地名を結びつけ、よく知られた逸話を津軽の人たちが借用したものと推測される。

注3 入内雀=実方の怨念が雀に転生して、天皇のお住まいになる内裏に飛んできて米を食べたという伝説は京の人々に語り継がれ、内裏に入ったので「入内雀」とも、「実方雀」とも言われた。しかしそんな伝説ではなく、「ニュウナイスズメ」という鳥は実在する。スズメ科スズメ目の野鳥で、雀そっくりだが、雀のほおにあるはずの黒点がなく、頭と背はスズメよりあざやかな栗色をしている。人里に群れる普通の雀と違い、ニュウナイスズメは森や林を好み、本州中部以北の山地、北海道の平地で5〜7月に繁殖し、関東以南で越冬する渡り鳥だ。鳥の名前の由来は、ひとつには中将実方の逸話であるが、ほかにも説があって断言できない。

注4 西明寺時頼入道と唐糸御前=時頼とは北条時頼(1227〜63)のこと。鎌倉幕府執権として幕政の刷新に努め、豪族三浦氏を滅ぼして北条氏の絶対的地位を固めた。康元元年(1256)、出家して西明寺入道となったが、死ぬまで幕政に関与した。その一方で、出家後は諸国を巡って民情を視察したという伝承が各地に残るが、それを裏付ける史料はない。語佛師匠も「西明寺時頼のことは、本当のこととはあまり思えない」と書いている。
唐糸御前との逸話も、伝承説話のひとつ。唐糸は時頼の寵愛を受けたが、他の女性たちのねたみを受けて津軽の藤崎に落ち延びた。その後、西明寺入道が津軽へも来ると聞いて、自分の衰えた容貌を見せられないと、池に身を投げたという。しかし、唐糸がなぜ津軽へ来たのかについては、まったく不明。また唐糸は藤崎で、奥州藤原氏の子孫である藤原秀直の妻となり、唐糸が生んだ男子、藤原頼秀が津軽氏の祖先となったとの説もあるが、これも根拠は不明。津軽為信の出自に諸説があるように、唐糸御前も津軽氏発祥伝説のひとつかもしれない。
なお藤崎については、「奥のしおり」15回目「黒石へ」の「注15」を参照。

注5 藤先寺=長勝寺に連なる曹洞宗の寺で、読み方は「とうせんじ」。元々は藤崎村(現藤崎町)にあったが、弘前城下の整備に伴って移転した。創建は戦国時代の天正元年(1573)であり、その開山の中岳善哲という僧侶が戦国末期、津軽為信の使者として庄内へ赴いた功で、為信が寺領を寄進したとも、為信の正室の弟2人が死去した際に寺領を寄進したとも伝えられるなど、津軽氏との深い関係があったことは間違いないが、山号は長雲山であり、鎌倉時代の西明寺入道と唐糸御前の逸話に結び付く伝承は見当たらない。
 「唐糸山」は、同じく長勝寺に連なる曹洞宗万蔵寺の山号。この寺は弘長2年(1262)、藤崎村に創建され、西明寺時頼と唐糸御前にまつわる伝説がある。「奥のしをり」に書いてある「長勝寺の釣鐘」は、現存する「嘉元鐘」のことと思われ、万蔵寺にあったものだとされているが、唐糸御前を弔うために鋳造したかどうかは不明。
藤先寺は「ふじさきでら」とも読めることから、 語佛師匠は唐糸山万蔵寺に伝わる話を取り違えて書き記したと思われる。

注6 弘前の長勝寺=弘前城の防衛線として城の南西に曹洞宗の寺院を集めた「長勝寺構え」(弘前市西茂森1、2丁目)の中心となる寺院。津軽氏の祖である大浦氏の菩提寺として大永元年(1526)、現在の鰺ケ沢町に創建され、津軽為信の津軽平定に伴って2度移転した後、弘前の現在地に落ち着いた。「長勝寺構え」には長勝寺を含めて33もの寺院が並んでいる。

注7 釈迦内=秋田県大館市釈迦内。羽州街道で津軽へ向かうと、大館の次の宿場町。

注8 秋田の仙北に釈迦堂=『羽後の伝説』(木崎和廣編著、第一法規出版)によると、西明寺時頼が津軽から大館に入ったのが唐糸の初七日だったので釈迦堂を建て、次の七日には秋田に着いたので秘蔵の仏像を安置して唐糸の菩提を弔い、さらに次の七日に着いたのが「仙北西木村の西明寺」だという。
 仏教の輪廻転生思想では、死後7日経つと何かに生まれ変わるが、その日に決まらなければ次の7日目、さらに次の7日目と生まれ変わる機会があり、遅くとも7回目の7日目、つまり49日(しじゅうくにち)にはすべての霊が生まれ変わるとされている。
 秋田市旭北寺町には、二七日(ふたなのか)山釈迦堂光明寺(浄土宗)がある。西明寺入道時頼がおいに納めていた釈迦像を本尊として建立したとされる寺で、当初は秋田市土崎にあったが、佐竹氏の城下町建設に伴い現在地に移転した。鎌倉末期の作と言われる「時頼の持仏」釈迦像は本尊として守られているが、後世の補修が多く、美術的価値は低いと評価されている。
 旧仙北郡西木村(現在は仙北市)の西明寺は、西明寺入道時頼が地名の由来だ。時頼はこの地にあった寺で唐糸の三七日(みなのか)供養をし、寺を真言宗光明寺と改めたという。その後、寺は名前を西明寺と改め、明治7年(1874)、廃仏毀釈に伴って大黒天を祭神とする大国主神社となったが、今でも祭神は大黒天のほか、阿弥陀如来、薬師如来、勢至菩薩の弥陀三尊があり、「三七日山阿弥陀堂」とも呼ばれている。

注9 猿賀山=青森県平川市の旧尾上町にある猿賀神社のこと。蝦夷討伐に来た坂上田村麻呂が、戦勝に感謝して「奥州猿賀山深砂大権現」を造営し、津軽を統一した津軽為信が猿賀神社と改称した。境内には、田村麻呂が討った賊長の首を埋めた上に置いたという猿賀石がある。

注10 しんしゃ=水銀と硫黄の化合物である辰砂のこと。赤の顔料(絵の具)として使われる。語佛師匠の狂歌で「夕日に赤き猿賀山」とい詠んでいるのは、「猿賀山深砂宮」の深砂しんしゃから赤い色の辰砂を連想したのだろう。

注11 五所川原=岩木川が流れる西津軽郡の中心都市、五所川原市。弘前から北西に位置し、JR五能線で秋田県能代市と結ばれている。縄文時代の遺跡があり、古くから人が居住していたが、江戸時代に新田開発が進み、岩木川が津軽平野の重要な輸送路でもあったことから大きな町に発展した。

注12 木造=西津軽郡木造<きづくり/rt>町。五所川原市の西に隣接し、弘前藩2代藩主、津軽信枚の時代に始まった新田開発のために代官所が置かれた。当時の岩木川流域は湿地帯で、木を敷いて道路を造ったことから木造(当初は木作と書いた)という地名ができた。遮光器土偶(国重文)など多くの縄文式土器が出土した亀ヶ岡遺跡をはじめ、縄文時代の遺跡の多い場所で、菅江真澄の紀行文「津軽のつと」にも縄文遺跡が紹介されている。

注13 蔵館、大鰐=どちらも南津軽郡大鰐町の大字名。昭和29年(1954)、蔵館町と大鰐町が合併して現在の大鰐町が誕生した。町の中心を流れる平川の両岸に大鰐の温泉街がある。温泉が発見されたのは鎌倉時代初期とされているが、江戸時代には「津軽の奥座敷」と言われるほど弘前藩の歴代藩主が訪れ、特に3代藩主、津軽信義は藩主の御座所である「御仮屋」を建てて、在国中はその期間の半分もここで過ごしたという。弘前藩には、「奥のしをり」の旅と同じ天保時代、大鰐と蔵館には湯小屋(湯治宿)が38軒もあり、湯治客でしばしば満員になったという記録がある。
源泉は60〜80度の高温で、その熱を利用して江戸時代から「大鰐温泉もやし」が栽培されている。語佛師匠も「ひりひりと体にしみて熱ければ」と、湯の熱さを狂歌に詠み込んでいるが、「三日で湯舟を一回りするほどの強い湯」というのは、具体的な意味がよくわからない。
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