青森に滞在
 ◇青森に入る
 十七日に、黒石を出発し、青森(注1)へ行った。これには如莱先生からの手紙があって、安方町の鳴海由蔵とおっしゃる方の家を訪ねた。この方は、家業は漁師なのだが、岩城川与助という相撲取りの息子で、当時は青森の男伊達の若い衆の頭で、頼もしい人であった。青森では由蔵殿の家に落ち着いた。
 青森への道は、黒石から浪岡へ出るのが本通りで、九里二丁ある。山越えする近道(注2)は八里ほどだという。三里ほどは平地で、それから三里ほど登り坂となり、一の沢という所に一軒家がある。ここから青森を一目に見下ろすことができる。海の風景がことのほかすばらしく、東の方は南部の尻矢ヶ崎(注3)、西は津軽の竜飛崎(注4)、その向こうに松前をかすかながら見渡せるのだが、これはよほどの晴天でなければ見えない。
 竜飛と白神の間は中の潮(注5)と言って、極めて難所である。青森から十七里で三厩みんまや(注6)、そこから(松前まで)七里あるそうだ。白神の潮流は、松前から発していて本当に恐ろしい所だという。
 早速、由蔵殿の家で、問屋衆、そのほか皆々様がおいでになり、二、三日座敷興行をした。

善知鳥うとう神社の由来
 十八日は、善知鳥神社(注7)へ参詣し、神主に神社の由来を尋ねた。柿崎伊予という神主の語ることには、津軽藩の初代、為信公がこの国を切り開きなさった頃、この場所に南部の代官所があった。代官は為信公に追い落とされて南部八戸へ逃げた。その際、この神社の神主がご神体と縁起を持って一緒に逃げた。今では、八戸藩の御家中に神主の子孫がいると聞いている。
 (ご先祖の為信公とおっしゃられるのは、久下岩松殿(注8)といって、南部の旗下にあった武将だが、南部の代官、そのほか津軽にいた館持ちの武士を追い払い、津軽一国を領地にして、津軽の国守になられたということである)
 その後、一国の治安が収まって国守が領内を御巡見なさった際、猟師にこの神社はどういう神社かとお尋ねになられた。猟師の老人が申し上げたのは……昔、ここに文次という猟師がいて、その女房は「やす」いった。文次は長年の殺生の罪で気が違い、家を出て行方がわからなくなった。妻の「やす」はこれを悲しんで、潟に身を投げてしまった。それで、この潟を「安ヶ潟」という。それから間もなく、文次が帰って来てこのことを聞き、文次も潟に身を沈めて死んでしまった。するとこの潟に、見慣れない鳥が二羽来て遊ぶようになった。これは、きっと、文次と「やす」が鳥になったのだろうというので、雄を悪知鳥、雌を善知鳥と名付けた。猟師の文次と、妻の「やす」の霊魂を祀って、善知鳥の宮と呼んでいる……ということである。
 今はよく知られた神社だが、ご神体も縁起書もなく、悪戸御前と言っていたそうだ。これは、悪戸村という所から出て、美人だったので国守の奥方になられた悪戸御前と申し上げるお方の守り本尊である弁天さまをこの神社に納めなさり、その時分は神社の周囲は潟で、神社が潟の中の島にあったので、悪知鳥潟島の弁天と名付け、神明社の神主、柿崎伊勢という人に預けたのであるが、後に弟の伊予に譲られたと言い伝えられている。
 だから、安方町が青森の町の始めで、善知鳥文次安方町猟師八百軒と書いたのだそうだ。
 善知鳥という鳥は、形は鴨に似ていて、ばんのようにくちばしの上に肉がある。水に潜って魚を獲り、角に魚を刺す。めったに見ることはない。花鳥ともいう。青森から南部、松前の間に住む猟師が、海上で霧が深く闇夜のようになった時、「おーい、おーい」と呼ぶ人の声が歌うようで、鳥の声も歌うように聞こえるから、「うとふ」(歌う)鳥ということだ。これが昔の悪知鳥・善知鳥だという。
また、ある説によると、「うとふ」という鳥がいるわけではないという。がんのことだという。鴈は砂の中に子を産み、自分でもわからないほどに砂で隠す。空に上ってその子を呼ぶ声は人間と同じで、これを「うとふ」という。
 また、安方というのは、猟師の目に触れない安心な方へ子を置くので「安方」いう。人間がその子を見つけて獲れば、恨んで涙を落とす。その色は紅である。また○(左に居、右に鳥)とも書く。また、よな鳥という。その子をひな鳥という。万葉集に
 ますらをのゑんひなとりをうらむれて泪も赤く落とすよな鳥

 思うに、よな鳥とは、あの花鳥のことであろう。「よ」と「は」を間違えたのだろう。
 鴈ではないだろう。この善知鳥のことは、どう考えても詳しくはわからない。
 ここは津軽の合方、外ヶ浜(注9)といい、また卒都そとヶ浜、策覩そとヶ浜、「義経記」には百度の浜、また十三浜とも書いている。合方とは、東は南部、南は秋田、北は松前、蝦夷ヶ島、西は庄内酒田から越後、越前、京、大坂までへも行く街なので、合方というのだそうだ。
○安方とともみ文次もきへうせて夜目ともわかぬ鳥の跡かも
○朝な夕なすなとる舟に身をまかせ世を安方みおくる浦人
 
 スケッチ1=善知鳥神社の境内
 スケッチ2=青森の海の風景。陸奥湾の向こうに蝦夷地の白神岬まで描かれている


 ◇青森の町を歩く
 青森の町家の数は三千軒(注10)という。大町通り、米町通り、浜松町という所は片側町で、海に面して船問屋が十一軒ある。瀧屋(注11)、沢屋、竹野屋、藤林、岩城屋などが大店で、ほかに付け船小宿が数多い。この町に隠し者(注12)がいる。これを「こも」という。また「切り売り」とも言う。六匁である。三百六十ある。
 青森では前句付け川柳(注13)が盛んなので
○海辺のこもはきりうり六匁
 また、赤鬼という銘酒があり、ひさごという題で前句付けの点取りがあり
○瓢から鐘馗赤鬼出して呑み

 遊女屋は大町通りの下塩町という所にある。昔は十一、二軒もあったそうだが、今は五軒になっている。酒田屋、沢屋、松葉屋、松坂屋、新茶屋があり、新茶屋は越後から近年来たそうで、主人は本間という。
 十九日に、船問屋の藤林へ行った。
 丸屋佐助という人は、江戸の人で、六、七年、ここに住んでおられるという。
 村林という人は、この青森の裕福な家の跡取りだそうだ。
 二十日は、町の中を見物して歩き、大町通から塩町のつづみ(鼓)の橋を渡り、野内のないという所まで行った。ここは南部境の御番所(注14)があり、大変に出入りが難しい。この先に浅虫(注15)という良い温泉がある。風景も良いと聞いているが、青森から出る手形がなければ番所を通ることができない。と言っても、夕方になると隠れ道もあると聞いたが、なにかと面倒なので、帰って来た。
 その夕方、見立殿と申される医者……この人は黒石の如莱殿の隣の家の松野殿というお医者の弟で、青森の文竜殿という方の養子になって来たそうだ……と一緒に、大町の長野屋という所へ行った。
 二十一日、二十二日は、由蔵殿の家に芸人を集めて座を持った。
 二十三日からは、米町の岡問屋という宿屋で、米屋吉蔵とおっしゃられる方のところへ引っ越した。
 この日から、大町の黒田与之吉殿と申される方の家で二十五日まで寄席を開き、二十六日には塩町の酒田屋へ行った。二十七日はまたまた黒田殿方で咄をして、二十八日は船問屋の岩城屋へ行った。二十九日に、黒田殿に暇乞いし、その夜、岩木川で別れを告げ、五月の末日に出立と決めた。
 浅虫の先の平内(注16)という所の、小湊という所に錦塚があるという。昔は槻の大樹があったそうだが、今はその根元の株だけが残っているそうだ。しかしその大株は三間四方、中株は二間四方、小さい株も一間四方もあるという。

□ □ □ □ □ □
注1 青森=原文は「青盛」と表記しているが、これは語佛師匠の当て字と思われる。青森という地名は、青々と松の生える「青森丘陵」に由来すると言われており、「青盛」と書くのは不自然だ。
 青森は江戸当初、善知鳥村と呼ばれる漁村に過ぎなかったが、江戸屋敷で必要な米を積み出す港として寛永元年(1624)、弘前藩2代藩主、津軽信枚の命を受けた開港奉行森山弥七郎が港として整備した。同時に、善知鳥村を青森村と改名した。青森はまったくの新開地だったが、森山奉行は越後、越前、近江にまで移住者を募って、急速に青森を発展させた。

注2 山越えする近道=「青森への道は、黒石から浪岡へ出るのが本通りで」と書いているのは、羽州街道のこと。弘前から青森までは、現在の国道7号がその道筋になる。しかしそのルートからはずれている黒石からは、まず北東の浪岡に出てから羽州街道をたどらなければならない。語佛師匠が「近道」と言っているのは、現在の青森空港付近を通って青森市中心部に出る県道に重なる道筋かと思われる。その道を「三里ほどは平地で、それから三里ほど登り坂」と具体的に書いているのは、実際に歩いたからだろう。
 「一の沢」がどこだったのか、現在の地図では探せないが、青森空港の標高は200bほどあり、青森市方向には視界をさえぎる高地はないので、陸奥湾はよく見える。

注3 尻矢ヶ崎=下北半島の北東端が尻屋崎。青森空港付近から尻屋崎の方向には、広大な山地が広がっており、見通すことはできない。語佛師匠は「この方向に尻屋崎がある」と誰かに説明されたのではなかろうか。

注4 竜飛崎=津軽半島の先端が竜飛崎。この岬に立てば、北海道最南端の白神岬が指呼の間に見える。しかし、青森空港付近からはその手前の山地にさえぎられて、竜飛崎は見えない。語佛師匠が「よほどの晴天でなければ見えない」と言っているのも、やはり見えなかったからだろう。
 余談だが、嘉永5年3月5日(西暦1852年4月23日)、吉田松陰がここから津軽海峡越しに松前半島を遠望している(吉田松陰『東北遊日記』)。『奥のしをり』の旅から10年ほど後のことだが、その頃になると、日本に近づく異国船が数多くなり、松陰も海防の実際を視察するために竜飛崎を訪れた。ペリーの黒船が現れるのは、松陰の旅の翌年のことである。

注5 竜飛と白神の間は中の潮=津軽半島竜飛崎と、北海道の松前半島白神岬の間は19.5?。東西130?に及ぶ津軽海峡では、北海道函館市の亀田半島・汐首岬と下北半島の大間崎の間の18.7?に次いで狭い場所。「中の潮」というのは、日本海から津軽海峡に流れ込む暖流、対馬海流のことだが、対馬海流は分岐してそのまま北海道西岸へ向かう流れもあり、潮流は非常に複雑だ。狭い海峡へ大量の海水が流れ込んで潮流が速度を増す上に、風向きにかかわらず常に白波が立ち、船の難所である。

注6 三厩=竜飛崎を含む津軽半島最北端の地域が旧三厩村で、現在は東津軽郡外ヶ浜町。津軽海峡を渡る際の重要な港だった。地名の由来も、平泉で死んだとされる源義経が実は逃れて蝦夷地を目指し、ここで厩のような3つの海蝕洞(厩石と呼ばれる)で3頭の竜馬りゅうめを得て海峡を渡ることができたという伝説による。
 三厩には寛永2年(1625)、松前藩主の参勤交代のための本陣が設けられ、宿駅となった。江戸を目指す松前藩主が無事に海峡を越えると三厩でのろしを上げ、松前ではその知らせを受けて藩士一同が登城して祝ったという。また、蝦夷地測量に赴く伊能忠敬が寛政12年(1800)、出航したのも三厩からだった。

注7 善知鳥神社=青森市発祥の地。現在の住所は青森市安方2丁目なので、語佛師匠が宿とした「安方町の鳴海由蔵」宅は善知鳥神社の近くだったことがわかる。
神社の由来には諸説がある。よく知られている伝説は、宇頭うとう大納言安方やすかたという人が陸奥に流され、ここで亡くなった後、親子の鳥が現れて、親鳥が「うとう」と鳴くと、子鳥は「やすかた」と答えているように聞こえたという話だ。語佛師匠が書き残したのは、民間伝承のひとつと思われる。
 善知鳥は、歌枕にもなっている。これを有名にしたのは謡曲「善知鳥」で、室町時代の寛正6年(1465)、足利将軍の前で演じられた記録があり、この能楽でシテが「みちのくの外ヶ浜なる呼子鳥鳴くなる声はうとうやすかた」と謡う。この謡曲のストーリーは……旅の僧が越中立山(富山県)で、奥州外ヶ浜の猟師の亡霊に「蓑と笠を外ヶ浜に住む妻子に届けてほしい」と頼まれる。猟師は生前、母鳥をまねて「うとう」と鳴いては、地上に隠れていた子鳥が「やすかた」と答えるのを聞いて捕らえていた。すると母鳥は血の涙を流すので、その血を避けるために身につけていたのが蓑と傘だった。しかし猟師があの世へ行ってみると、善知鳥は鉄のくちばし、銅の爪で罪人の目玉をつかみ、肉を割く怪鳥になっていた。猟師の亡霊は生前に善知鳥を殺傷した罪業を悔い、旅の僧に救いを求めて姿を消す……という、実に恐ろしい物語である。

注8 外ヶ浜=陸奥湾に面した津軽半島の東岸のこと。日本最北の歌枕でもあり、西行の「陸奥の奥ゆかしくぞ思ほゆる壺のいしぶみそとの濱風」の歌で知られる(「壺の碑」も青森県にある歌枕)。この地名の由来は、日本海の交易ルートに関係すると言われている。津軽半島の日本海側(西岸)では、岩木川がそそぐ十三湖が日本海とつながる十三湊が古くから知られた港で、中世にここを支配した安東氏は蝦夷地まで勢力を広げた。越前敦賀から十三湊を経由して蝦夷地へ至るのが海運の主要ルートであり、津軽半島の東岸は、その「外」に位置する浜だったのである。
 語佛師匠は青森の紹介で「津軽藩の初代、為信公がこの国を切り開きなさった頃、この場所に南部の代官所があった」と書いているが、これは何かの間違いと思われる。戦国時代の青森は、善知鳥村という漁村に過ぎず、南部氏の拠点があったのは、現在は青森市内になっている油川(青森市中心部から5?ほど西)で、南部氏の家臣である奥瀬氏の居城があり、外が浜では有力な交易港でもあった。油川城は天正13年(1585)、津軽為信の攻撃で落城したが、油川商人は津軽氏への敵対心が根強く、青森開港後も密かに沖合で松前や下北(下北半島は盛岡藩領)、遠く敦賀から来航する船と交易を続けた。これは油川が、仙台、盛岡を経由する奥州街道と、山形、秋田、大館、弘前を結ぶ羽州街道の合流点という陸路の要衝でもあったからだ。奥州街道をたどれば、青森は油川の手前の宿場でもあったので、あるいは奥瀬氏が誰かを配置していたのかもしれないが、「代官」というほどの役割であったとは考えにくい。油川から津軽半島の先端、三厩へ延びる海沿いの道は奥州街道の延長でもあるが、松前街道、または外ヶ浜街道とも言われた。

注9 久下岩松殿=津軽為信の出自については諸説あるが、 久下岩松という名前は見当たらない。語佛師匠が誰かから聞いたと思われるが、根拠は不明。

注10 青森の町家の数は三千軒= 『津軽・松前と海の道』(長谷川成一編 吉川弘文館・街道の日本史3)によると、開港してからおよそ50年後、寛文11年(1671)の家の数は306軒で、寒村に過ぎなかった青森が次第に大きくなっていたことはわかるが、さらに安永9年(1780)の人口は約9千人、明治2年(1869)の人口は1万750人と記録されているという。語佛師匠が青森を訪ねたのは天保14年(1843)だから、「町家の数は三千軒」というのもほぼ間違いない数字である。江戸時代の地方都市としては、かなり大きいと言える。

注10 瀧屋=明治末まで続いた弘前藩屈指の豪商、伊東善五郎家のこと。初代は、開港奉行森山弥七郎の誘いに応じて越後から移住し、回船問屋を開いた。研究者によると瀧屋の旧蔵文書には、青森に支店を開いていた金沢の豪商・銭屋五兵衛からの17通の書状があり、疑獄事件で没落した銭屋が弘前、黒石両藩へ貸した金の回収依頼があるという。大名貸しの取り立てを仲介できるほど、伊東家が実力を持っていたことを推測できる史料だ。

注11 隠し者=意味不明。「こも」、または「切り売り」という別名も実態がわからない。「切り売り」の値段が六匁だというと、あるいは魚のことかもしれないが、それが「三百六十ある」との説明には単位も書いていないので、また困惑させられる。

注12 前句付け川柳=俳句と同じ「5・7・5」の17文字を駆使し、滑稽で機知に富み、世の中を風刺するような内容の短詩が川柳だが、もともとは、「5・7・5・7・7」の短歌の「7・7」を出題し、それに「5・7・5」の前句を付ける言葉遊びだった。例えば、「怖いことかな怖いことかな」という出題から「怖がらせる状況」を連想し、「かみなりをまねて腹掛けやっとさせ」(逃げ回る幼児に「雷だ。へそを取られるよ」と母親がおどかして腹掛けをさせる)という具合に前句をつけるのである。江戸中期の宝暦(1751〜64)の頃、江戸に柄井川柳からい・せんりゅうという優れた選評者が現れ、後句を出題して広く前句を募集し、入選句を印刷して発行した。これが大評判となって回を重ね、それまで「前句付け」と言われていたのが「川柳点」と呼ばれるようになり、そのうち単に「川柳」となった。
 19世紀になると「前句付け」はすでに下火になり、 『奥のしをり』の旅の頃は自由な発想の川柳が主流になっていたのだが、青森ではまだ古い形式の「前句付け川柳」が盛んだったことに、語佛師匠が興味をそそられたのである。

注13 南部境の御番所=青森市野内(市の中心部から8?ほど東、JR東北本線の野内駅付近)に、野内関所(番所)跡が残っている。実際の盛岡藩との境は、その先の平内と野辺地の境界だが、盛岡藩領から来る旅人を見張るため野内に関所を設けた。平内は黒石藩領だったことから、街道の海側に弘前藩、山側に黒石藩の番所があったという。野内は、羽州街道の碇ヶ関、日本海側の大間越街道南端にある大間越とともに、「津軽三関所」と呼ばれる重要な関門だった。

注14 浅虫=青森市浅虫。古くは「麻蒸湯あさむしのゆ」と呼ばれた温泉場。この温泉で麻を蒸して繊維にしたからだというが、天明8年(1788)に訪れた菅江真澄は旅の記録『外が浜づたひ』で、「火に関する言葉を嫌って、近年、浅虫と改めたと老村長が語った」と書き残している。

注15 平内=東津軽郡平内町。夏泊半島の町。江戸時代は黒石藩の飛び地で、中心部の小湊には黒石藩の代官所があった。奥州街道の宿駅でもある。黒石藩領の平内は東端で、盛岡藩領の野辺地(上北郡野辺地町)と接していた。野辺地町に入ってすぐの馬門(まかど、奥州街道の宿場)には、津軽・南部藩境塚があり、戊辰戦争の際、ここで両藩の戦闘があった。平内町は現在、「養殖ホタテの水揚げ日本一」の町として知られている。
□ □ □ □ □ □
backnumber