黒石へ
◇板留で湯治
 十八日に弘前を発った。大淵彦兵衛様、竹内庄右衛門様も能代へお帰りになるが、こちらは深浦(注1)から大間越(注2)という番所を通って帰られるということだ。
 我らは、(弘前の)三栄堂から紹介状をいただいて、黒石(注3)の上町の松井半六殿と申される方を訪ねた。この方の家業は宿屋だが、三界庵如莱という俳人でもある。芭蕉堂(注4)の門人で、諸国を行脚し、上方にもしばらく滞在して芭蕉堂の仕事をし、江戸にしばらくおられたそうだ。門人が多数おられて、毎月の俳諧の座もあって面白い人物である。
 黒石は弘前の分家で、津軽出雲守様(注5)と申し上げる一万石のご城下である。家の数はご家中、町人合わせて千五、六百軒もあるが、家はとても大きいので家の数も多く見える。
 目明しの松木松右衛門殿、斎藤善左衛門殿のお二人の世話で、山形町の愛宕山の別当、地蔵院(注6)とおっしゃる方の所で落語などを披露した。
 弘前から(黒石の)如莱先生をお訪ねしたので
○君が名やわれも三界無庵にて如莱もとや宿と頼まん
 
 二十二日まで落語会をしていたが、弘前から「ご家老様が病死なされた」という報せが来て、歌舞音曲を止められたので、それから黒石の領分の板留(注7)という所へ湯治に行った。ここは温潟といって黒石から二里ばかりある。一里半ほど行くと、ぬる湯(注8)という所がある。昔からよい温泉と知られていたが、今は湯が非常にぬるくなっている。しかし病気にはとてもよく効くということだ。
 そこから山を越えて、板留村の才川勘二郎殿と申される方を訪ねた。湯壺は三か所あって、両側はぬるく、真ん中は熱湯だという。
 村の真ん中に滝がある。家数は二十軒ほどだ。家並みの前に川が流れていて、湯は川岸からわき出て土手を下り、川の中ほどに湯壺がある。宿の主が親切に世話してくれて面白く逗留できた。
 毎日、あちこちを見物した。川向うは袋村といい、半里ばかりの中野という所に不動尊(注9)があるという。
 ここからは南部領との境の山になり、沢辺、二潮内(二庄内)、金目、沖浦、天下平(注10)という所に鉱山があるという。その辺りにもあちこちに温泉があるそうだ。
総じて津軽の国は温泉の多い所だ。岩木山のふもとにも湯段嶽ノ湯(注11)などといいう名湯があるという。
この辺りは山里なので、四月末になれば山菜の盛りで、ウド、ワラビ、シオデ(注12)、タケノコなどを自慢しながら食わせてくれる。
○青物の盛りを客にまかのふてわれも湯で食ふ板留の邑

 山々の若葉を見て
○いたづらに見てもおかれし若葉山やままた山にいさしをりせん
○湯の峰は雲にかくれつほととぎすあひせかけたる今の一声

 二十五日、杉松殿(注13)がまいられて、酒肴などを土産にいただいた。もう端午の節句前になったので、杉松殿と相談し、この辺りの温泉を一回りしようということになり、一緒に行った連中にもこの思いつきを話して、それからゆっくり湯治した。
 温泉の後ろの山に登って見物したところ、前を流れる川の上流はただ一筋なのに、下流は諸方に広がり、いく筋にもなっていて、村々に落ち流れて田にかかる風景は言葉には尽くしがたい。この川を浅瀬石川(注14)というが、あせし川とも呼ぶという。季節がら五月雨が降り続いて水は濁っているが、川の水かさが増してなお一層面白い。この川は藤崎(注15)という村を過ぎて、白川という川と合流し、その末は岩城川まで流れ込むのだそうだ。この川の水で一帯の村が田を作るというので
○一筋に民を恵みの川なれば下は千筋にうるおひにけり

 毎日、湯治の人たちが来て、四方の山の話などをするのが雅俗とも言うべき興味をそそられる。
 五月五日、黒石から迎えが来たので、板留を発つことにしたので
○帰るべき心はさらに夏過ぎて残る暑さに秋の来るまで

◇浅瀬石に城跡
 同日、黒石へ帰った。
 そうしたところ、今日、山形町から温泉へ行った道で、福民村という所に松並木があった。ここでは、「馬乗り」といって、近くの村から小荷駄を運ぶ丈夫な馬に乗って来て、その馬にさまざまな美しい装束を着せる。袢纏や、また襟の赤い襦袢、花色木綿、そのほかいろいろな着物で、この松並木の道を駆け比べする。見物人がおびただしく、茶屋や物売りなども出る。
 これは、黒石から一里ばかりの浪岡(注16)という所に、その昔、高畑大納言とおっしゃる方がお住まいになっていたので、浪岡御所(注17)と言ったそうだ。ここに賀茂明神の御社があり、毎年五月五日に、賀茂の競馬をなぞらえて駆け比べをするのだという。最近では、黒石でも馬の駆け比べをすると聞いた。黒石はご城下であり、見物人も多いので、浪岡で少しばかり馬にも乗ってから、みんなで黒石まで馬に乗って行くのだという。
 私も、如莱先生の一行と同道して見物に行った。ほんとうに面白いことだった。
○豊なる御代や肥えたる比べ馬さても賑わう福民の野へ

 六日に、如莱先生と一緒に、長崎(注18)という川原へカジカという魚を獲りに行った。その帰りに福民村の野辺で、如莱殿が、畑の中にある芭蕉翁の百五十年忌に建てられた石碑を見物しようと案内してくださった。石碑の表面には「花咲きて七日鶴見る梺(ふもと)かな」とあり、裏に「三界庵 如莱」と刻まれていた。
 ここは、東には浅瀬石を見渡し、西は岩木山を望み、まことに風景が良い。この浅瀬石という所は、いにしえの千徳大和守(注19)という人の城跡で、山形町というのは、家老の山形周防という方が住まわれていた所とか。また、黒石から一里ほどの田舎館(注20)という所は、やはり大和守一門の千徳嘉門という人の館跡でもあるという。ここから弘前への入口を和徳という。これも、和徳隠岐守(注21)という方の住んでいらっしゃった所と聞いた。
 ここに、石の坊という古い塚がある。年号は寛文四年と刻まれている。表側の字は読めなくなっているが、下の方に「日」という一字がわかるので、日蓮宗の僧侶の墓ではないだろうか。それを、ただ「石の坊」とだけ呼んでいる。畑の真ん中なので(じゃまになるから)取り除くと、いつの間にかまた元の場所に帰っているという。
 芭蕉翁の碑を見て
○月雪もこの内にあり花のもと
 まざまざとその伝や花會しき 如莱
 空はれ渡る鶴の一声     扇橋

◇日持上人の旧跡、法峠へ
 八日、黒石から二里半余、南部領との境である法峠ほっとうげ(注22)という所へ、如莱先生ご夫妻と一緒に参詣した。ここは高館山中法嶺寺ほうりょうじ(注23)といって、日持にちじ上人(注24)の旧跡である。日持上人は日蓮上人の弟子で、六老僧である。このお山に足跡を残された。
 黒石から一里ほどは平地で、そこから半里ばかり坂を登ると、聖人清水という所がある。京都の本満寺の日亀上人が登山した時、聖人清水と名付けたそうだ。
 そこから半里ほどは少し下っていて、高館という所に出る。そこから再び半里ほど登り、お山のふもとに聖人の堂があった。そこには、(加藤)清正公の像、この山の霊宝の鈴もある。鈴は大きさが周囲五寸ほどもあるだろうか。表には「奉納」、裏には「楠正成」と書いてある。これは元々、黒石の御家中が所持していたものを堂に納めたということだ。正成がどこに納めた鈴なのかはわからない。伝教大師(注25)がお作りになったという摩利支天の尊像もあって、これは別にお堂を建てている。
 それから、山上までは半里ほどある。三、四丁登ると、聖人がお題目を書かれた硯水という冷たい水がわき出している所があった。そこからまた四、五丁で番神石があって、またまた三、四丁登ると、経石という巨石がある。大きさは二間四方もある。それからまた二、三丁登ると頂上になる。頂上には日拝石というのがあって、これは、日持上人がお題目を書かれた石で、その墨の跡をまことにあざやかに拝むことができたのを、最近、これにたがねを入れて字を彫ったそうだ。本当に残念なことではないか。
 この山頂から見渡すと、東には南部領境の焼山峠(注26)が見える。これはまた、笠松峠(注26)とも言うそうだ。昔々、ここに鬼人「おまつ」という女盗賊がいた所だという。(法峠から)南は秋田、西は弘前、岩木山を越えて深浦まで見えた。北は青森の海から松前まで見える絶景は、何も言うことがない。本当に奇絶の霊山である。この日拝石には、青森の海から龍燈を登らせたというありがたいお山である。
 ここは、その昔は南部へ山越えする道で、上人もここを通られた折、しばらくこの山上におこもりになられたのだろう。
 十日は、愛宕様の地蔵院へ、ご家老の唐午儀衛門様がおいでになり、一雅様も同道なされた。この一雅様という方は、本名を鳴海久作と申されるお金持ちで、唐午様、三浦様(注27)はたびたび江戸屋敷詰めになられていたので、江戸の思い出話などをして一日中遊んだ。
 十一日から、またまた紫雲山来光寺(注28)というお寺で、三、四日、寄席を開いた。
 (弘前でもこのところ、芝居をやっているというので、如莱殿、一雅殿などは見物にでかけた。私らも誘われたが、青森へ行く予定だったので、弘前へは行かなかった)

 スケッチ1=岩木山
スケッチ2=板留のぬる湯から南部境の山を望む
スケッチ3=日持上人がお題目を書いた「日拝石」と法峠への山道
 スケッチ4=高館山法嶺寺から「日拝石」までの鳥瞰図。東には焼山峠、北には青盛、松前の文字がある

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注1 深浦=日本海に面した西津軽郡深浦町。千石船が25艘も停泊できる広い湾があり、江戸中期から明治30年代にかけては、風待ちの北前船でにぎわった。弘前藩にとっては重要な港であり、町奉行所が置かれた。港を見下ろす同町岡町の高台には、藩主の別邸である「御仮屋」があり、普段はここを奉行所として使っていた。その跡地は現在、公園になっている。

注2 大間越=津軽半島を日本海沿いに南下し、秋田藩領に最も近い集落が大間越。旧岩崎村だったが、現在は深浦町。弘前藩の関所があり、町奉行所が置かれていた。
 弘前からは現在、青森へ向かうJR奥羽本線の川部かわべ駅で分岐した五能線が、五所川原市、鯵ヶ沢町を経由して日本海沿いに秋田県能代市へつながり、五所川原市からは国道101号も同じ道筋だが、江戸時代はもっと南の、弘前から岩木山の北側を通って鯵ヶ沢に直線的に進み(現在の県道弘前鰺ケ沢線)、そこから海岸沿いに南下する大間越街道が主要路だった。江戸初期の寛文5年(1665)までは、弘前藩主の参勤交代の道筋となっていた(それ以後の参勤交代路は、矢立峠を通る羽州街道に変更された)。
 弘前から能代へは、羽州街道でも大間越街道でも距離はそれほど変わらない。能代へ帰る大淵彦兵衛と竹内庄右衛門が大間越街道を選んだのは、来た時と別の風景を見たかったのか、あるいは能代からは弘前藩境の近い大間越街道の方が旅慣れた道筋だったからだろう。

注3 黒石=弘前藩の支藩である、黒石藩1万石の城下町。と言っても陣屋が置かれただけで、城はない。陣屋跡は現在、公園になっていて「黒石城址」と刻まれた石碑が立っている。弘前市の北東に位置する黒石市は羽州街道からはずれ、JR奥羽本線からも遠い。黒石市の人口は約33789人(2018年3月末現在)
ここに陣屋を構えた黒石津軽家の祖は、弘前藩3代藩主、津軽信義の弟の信英のぶふさ。信義の跡を継いだ嫡子信政がまだ9歳だったので、幕府は信英を後見人とし、弘前領内から5千石を分け与えるよう命じた。その後1千石を分知したため4千石となったが、信英は黒石に陣屋を構え、自身は江戸で過ごした。弘前藩4代藩主の津軽信政は「中興の名君」と評されたが、それは、信英の薫陶によるものと言われている。信英は、儒教による葬儀を遺言したことでも知られている。
黒石津軽家は文化6年(1809)、8代親足(ちかたる。「ちかたり」と読む資料もある)の時、弘前の本藩から6千石の蔵米(領地ではなく、米の現物)を分与され、合わせて1万石の大名に昇格した。しかし、あくまでも弘前津軽家の分家で、独自の治績は見られない。

注4 芭蕉堂=関西の俳諧宗匠と思われるが、詳細は不明。

注5 津軽出雲守=黒石藩3代藩主、津軽承保つぐやす。この人は初代親足の2男。その前の2代藩主は、順徳ゆきのりだが、この人は、弘前の本藩に迎えられて順承ゆきつぐと改名し、11代藩主となった。弘前藩9代藩主の寧親やすちかも、黒石津軽家から本藩の藩主となっていて、黒石津軽家は本家の相続に備える役割を果たした。
ところが、弘前藩11代を継承した順承は、実は三河吉田藩・松平家から迎えた養子で、その正室も譜代大名・有馬久保ひさやすの娘という夫婦養子だった。それで為信以来の津軽氏の家系が途絶えてしまうことを憂えた順承は、黒石津軽家の祖・信英の弟の津軽信孝家(代々、弘前藩の家老を務めた家柄)の末裔である承○つぐとみを弘前津軽家の世子としたが、承○は17歳で死去してしまい、新たに熊本藩細川家から養子を迎えた。これが弘前藩最後の藩主、津軽承昭つぐあきらで、弘前藩は為信以来の家系が絶える結果となった。
 しかし黒石藩3代藩主・出雲守承保は、若死にした承?の弟の承叙つぐみちを養子として4代藩主に据えた。このおかげで為信以来の家系は、黒石津軽家の方で連綿と続いている。

注6 地蔵院=真言宗の寺院。語佛師匠が「山形町の愛宕山の別当」と書いているように、現在も「愛宕さん」と呼ばれている。現在は8月15〜17日、各種団体が参加して.に行われる「黒石よされ踊り」(黒石市の民俗文化財)だが、江戸時代は黒石城下の各町から地蔵院まで踊り歩いた精霊送りの行事だったという。

注7 板留=黒石から国道102号を走り、浅瀬石川ダムの手前にあるのが板留温泉。江戸幕府ができて間もなくの慶長14年(1609)、後陽成天皇の女官たちと多数の公家が密通したというスキャンダル「猪熊事件」で、蝦夷地へ配流となった公家、花山院忠長がその途次に立ち寄り、浅瀬石川の川辺にわき出す湯を板で囲って湯舟を作り、入湯したことから「板留」の地名ができたと伝えられている。語佛師匠も「湯は川岸からわき出て土手を下り、川の中ほどに湯壺がある」と書いているから、温泉の様子は花山院忠長が入湯した頃と同じだったのだろう。

注8 ぬる湯=漢字では「温湯」。黒石からは板留の手前にあり、今も湯治場の雰囲気を残している。東北地方独特の木彫り人形「こけし」には10系統あるが、そのひとつ「津軽系」発祥の地でもある。津軽系こけしは、胴の形や模様の描き方が工人によって異なり、一定の型がないのが特徴。

注9 不動尊=板留の北に、弘前藩9代藩主・津軽寧親やすちかが京都から100種のカエデを取り寄せて植えたといわれる「紅葉山」(標高263b)があり、そのふもとの中野神社は、「中野の不動」とも呼ばれ、「津軽三不動」のひとつとして信仰を集めた。

注10 沢辺、二潮内(二庄内)、金目、沖浦、天下平=黒石市と十和田湖を結ぶ国道102号の近辺に、二庄内と沖浦の地名が残っている。これも盛岡藩領へ至る道筋のひとつだった。

注11 湯段嶽ノ湯=岩木山南麓には、嶽温泉と湯段温泉がある。どちらも、弘前と鰺ケ沢を結ぶ鰺ケ沢街道(百沢街道)の途中にあり、距離は1・5?ほどと隣接している。弘前からは同じ方向で、ほぼ同距離にあり、語佛師匠のように一緒に言うのが通常だったのだろう。湯段温泉は享保年間(1716〜35)に開かれ、嶽温泉とともに湯治場としてにぎわった。

注12 シオデ=ユリ科の多年草。ツル状に育つが、山菜として食べるのは初夏に出て来る若芽。アスパラガスそっくりの味で、人気が高い。「シオデ」は標準和名で、それが「ショデ」、「ヒデ」と訛り、秋田県内だけでも「ソデコ」、「ショデコ」、「シュンデコ」、「ヒンデコ」、「ソデッコ」などの呼び方が生まれた。秋田民謡の代表曲のひとつ「ひでこ節」は、この山菜が題材。元唄は岩手県の「そんでこ節」で、さらに山形県の「しょんでこい節」、宮城県の「しょんねこ節」になったという。これも「シオデ」の美味を東北各県の山里の人々が知っていたから、素朴で味わい深い曲調の民謡を広める原動力になったのだろう。

注13 杉松殿=突然出て来る名前で、どんな人物かわからない。

注14 浅瀬石川=八甲田山系に端を発し、黒石市から田舎館村を流れて、藤崎町で岩木川の支流の平川に合流する。語佛師匠が「白川」と書いているのは、「平川」の誤り。また、語佛師匠は「あせし川とも呼ぶ」と書いているが、こちらが正しい読み方。たぶん漢字の読み方を「あさせいしがわ」と思っていたのだろう。

注15 藤崎村=羽州街道の宿場で、現在の南津軽郡藤崎町藤崎。JR五能線・藤崎駅の東、平川の右岸に藤崎城跡がある。平安時代末期の前九年の役で敗れた安倍貞任の子がここに逃れ、その子が藤崎城を築いたという。この子孫は「安東太郎」を名乗り、鎌倉幕府に仕えて津軽の豪族となり、南北朝時代に秋田へも進出して、後に戦国大名となった。また、藤崎城跡から北東には、鎌倉幕府執権だった北条時頼が出家して西明寺入道となり、諸国を巡った際の逸話にちなむ「唐糸御前史跡公園」があり、延文4年(1359)と書かれた板碑が残るなど、津軽地方でも藤崎は古い歴史のある集落だった。
 余談だが、藤崎はリンゴの人気品種「ふじ」発祥の地でもある。戦前の昭和13年(1938)、農林省園芸試験場東北支場が藤崎に設置され、ここで交配された品種の中から昭和33年に選抜された「東北7号」が、同37年に藤崎の地名由来する「ふじ」と命名された。リンゴが日本で栽培されるようになったのは、アメリカから苗木を輸入した明治時代からなので、語佛師匠の旅日記とは無縁の話である。

注16 浪岡=黒石の北に位置する、旧南津軽郡浪岡町。羽州街道の宿場。合併により現在は青森市。

注17 浪岡御所=南北朝の時代、南朝の正当性を示した『神皇正統記』を著した北畠親房の子、顕家あきいえは陸奥国司として南朝をささえたが、その一族(一説には顕家の弟、顕信の末裔)が浪岡に居を構え、「浪岡御所」、あるいは「北の御所」と呼ばれた。語佛師匠のいう「高畑大納言」も、浪岡北畠氏のことと思われるが、特定の誰かを指すのか、詳細はわからない。北畠氏は戦国時代、南部氏傘下の武将として浪岡城(国史跡)を拡張し、大きな勢力を得ていたが、内紛で衰退し、天正6年(1578)、津軽為信の攻撃で落城した。浪岡北畠氏はここで歴史の幕を閉じたが、子孫は秋田の安東氏を頼って落ち延び、秋田氏と改姓した安東氏が江戸時代になって三春(福島県)に移封されると、共に移って秋田家に仕えた。

注18 長崎=黒石市役所の南東、県道の浅瀬石橋の手前が黒石市長崎。橋を渡ると黒石市浅瀬石だが、元々の浅瀬石集落はずっと東の高台にあり、戦国時代は城があった。長崎の川原からも見えたので、語佛師匠は「東に浅瀬石、西に岩木山」と書いたのである。

注19 千徳大和守=浅瀬石あせいし城主、千徳政氏まさうじ。浅瀬石城址は、東北自動車道・黒石インターの東、黒石市高賀野こがの集落の南にある。大和守政氏は南部氏に属する有力武将だったが、南部氏を裏切り、着々と勢力を拡大する津軽為信に同調した。このため天正13年(1585)4月、南部信直(豊臣秀吉から領地安堵の朱印状を得た、三戸南部氏の当主。盛岡藩は、信直の長男の利直が初代)に攻められたが撃退した。しかしこの前月、南部氏に属する油川城(陸奥湾に面し、現在は青森市)を攻略したばかりの津軽為信が援軍を出さなかったため、後々の両氏の不和の原因となった。

注20 田舎館=黒石市と弘前市の間にある南津軽郡田舎館村。天守閣を模して建てられた村役場の東側に、浅瀬石城主・千徳正久の2男、政実が文明7年(1475)、古い城を修復して居城とした田舎館城があった。それから5代目が千徳嘉門とも称した千徳政武だが、天正13年(1585)5月、津軽為信と、千徳氏一族の浅瀬石城主・千徳政氏に攻められ、籠城した3百人余が全員討ち死にする壮絶な戦場となった。
しかし浅瀬石城の千徳氏も、政氏の次の政康の代に津軽氏との同盟が破たんし、慶長2年(1597)2月、津軽為信によって滅ぼされた。

注21 和徳隠岐守=弘前市和徳町に小山内讃岐の城があり、津軽為信に攻め滅ぼされたことは弘前城下の紹介の時に触れた。田舎館から弘前へ向かうと、確かに語佛師匠の言うように和徳町は弘前城下の入口にあたる。居城の地名から、小山内氏が和徳氏とも呼ばれたのだろうが、「隠岐守」が誰を指すのかは不明。

注22 法峠=黒石から東へ山道を登った、標高460bの峠。陸奥湾、岩木山を眺望できる場所で、今も人気スポットだが、語佛師匠は「南部との境の法峠」と書いているが、実際の藩境はもっと先で、「その昔は南部へ山越えする道」と言うように、法峠から先の道は早い時期に廃道となっていた。

注23 高館山中法嶺寺=黒石の日蓮宗妙経寺8世日浄が享保6年(1721)、法峠を探索して地中に埋もれていた日持上人の宝塔(お題目を墨書した巨石)を発見し、世に知らしめたという。法嶺寺の創立もこの時と言われる。しかしその後、堂宇は荒れ果てたらしい。黒石津軽家8代親足が加増されて黒石藩が成立(文化6年=1809)する少し前、妙経寺18世日宣が、霊場法峠の復興を願って駿府まで日持上人の旧跡を訪ねたことを伝え聞いた津軽親足が材木を寄進し、法嶺寺が再建された。だが法峠は人里から遠く、また冬は登れないため、後に峠の登り口に礼拝所として法嶺院が建てられた。
 しかし幕末、寺境内の立ち木の伐採をめぐって地元の高館村と争いが起き、明治18年(1885)に至って、寺はふもとの法嶺院に移転、山号も高館山から宝塔山と改称した。その後も日持上人の「題目石」に参詣する人が絶えなかったため、高館村では峠に新たなお堂を寄進した。それが現在の東奥山法峠寺で、ふもとには法峠寺別院もある。法嶺院と法峠寺はどちらも日蓮宗だが別系統で、場所も離れているが、どちらからも法峠へ登る道がある。

注24 日持上人=日蓮の高弟で、駿府(静岡市)の蓮永寺れんえいじ住職だった永仁3年(1295)、蝦夷地への布教に旅立ち、その途次、この法峠に登って、巨石に「南無妙法蓮華経」のお題目を墨書したと伝えられる。語佛師匠は「日拝石」と書いているが、現在は通常「題目石」と呼ばれている。ただし法峠寺からさらに登り、最も見晴らしの良い場所には現在、日持上人が毎朝、日の出を拝したという逸話にちなむ「朝拝堂」があって、「日拝」というのも理由のある言葉だ。

注25 伝教大師=比叡山延暦寺を開いた最澄のこと。

注26 焼山峠……これはまた、笠松峠=黒石から国道102号、国道394号、国道103号とたどると、八甲田山系に抱かれた酸ヶ湯温泉を過ぎた所に、傘松峠(標高1020b)がある。語佛師匠が旅した頃は焼山峠と呼ばれていたのだろう。「笠松峠」も現在は「傘松峠」と表記されている。法峠から現在の黒石市と青森市の境界をたどると、酸ヶ湯温泉に至るルートが見えて来る。これが昔の南部へ通じる道筋だったと想像できる。

注27 三浦様=黒石藩の家中と思われるが、説明がない。

注28 来光寺=語佛師匠の書き間違えで、浄土宗の寺院、紫雲山來迎寺が正しい。
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