秋田の伝説あれこれ
◇八郎潟の八郎と田沢湖のたつ子
 土崎湊から能代へ行く途中に、八郎潟といって、縦七里、横八里の潟がある。その向こうに男鹿山(注1)を見渡すことができて、まことに良い景色だ。
 (男鹿は村の数もたくさんあり、田地も多い広い場所だという。舟で半島巡りをすればよい景色もあるということだが、道順の都合が悪くて私は行けなかった)
 男鹿山というのは、八郎潟と海の間にあって狩猟もできる。
 ここに湯治場があるそうだ。第一に体がよく温まり、瘡毒(注2)の皮膚病によく効く名湯だと聞いている。
 八郎潟というのは、大昔は男鹿山から海へ流れ出る小さな川だった。この近くに八郎という木こりがいて、男鹿山のふもとに小屋を建てて三人で木を切っていたところ、この川にヤマベという魚がいるのを見つけ、三人で魚を獲り、小屋へ持ち帰って囲炉裏の火であぶった。二人の木こりは酒を買いに出かけ、八郎一人が魚をあぶっているうちに、なんともうまそうな匂いに耐えかねて、ひとつ食ってみたら、それはもう、こたえられない味だった。知らず知らずのうちに、酒を買いに行った二人が戻らぬうちに、魚をみんな食べてしまった。するとしきりに喉が渇くので、手桶に汲んでおいた水を全部飲み干してしまった。それでも喉の渇きがおさまらないので、手桶を下げて川へ水を汲みに行ったが、水を汲む間ももどかしく、川へ入って口をつけ、川の水を飲んでいたところへ、二人の木こりが戻り、八郎の姿が見えないので、どうしたのかと探すと、手桶もないので川へ水を汲みに行ったのだろうと思い、その跡を追うと、八郎は裸になって、川に首までつかり、水を飲んでいた。「どうしたんだ」と声をかけられた八郎は事情を語り、「おれはこの川の主に魅入られ、もはや、あんたたちと顔を合わせるのもこれっきりだ。この二、三日のうちに、この川が荒れて大きな潟になるだろう。さっさと小屋から引き揚げるように」と言って、川の中に潜り、その後は行方がわからなくなった。二人の木こりは驚いて、大急ぎで小屋を片付け、引き揚げてしまった。
果たして八郎の言うように、ここに縦七里、横八里の潟ができたという。
 八郎が魅入られた主はたつ子といって、八郎と夫婦になり、年々子供が増えた。仙北せんぼく(注3)から南部へ行く生保内おぼない峠(注4)という所に潟があって、これをたつ子の潟(注5)と言い、たつ子はここへ引き移った。
 八郎は春の彼岸から秋の彼岸までは八郎潟にいて、秋の彼岸になるとたつ子の潟へ帰るのだという。秋の彼岸の入りに大荒れの天気になるのは、この潟の主がたつ子のもとへ通うからだと言って、みんな外へ出るのに用心している。
 八郎が通う際の宿(注6)は、久保田の茶町の角にある吉川という家だという。吉川家ではその日になると、亭主は精進潔斎し、二階にお膳を出すということだ。そんなわけで、この家の紋所は三つ鱗で、屋号を形屋というのだそうだ。本当に珍しい話と言うしかない。
八郎潟では、イナ、ボラ(注7)、鮒が名物で、大きい鮒は一尺もある。もっとも、そういう大物はまれで、たいていは五、六寸から八寸くらいまでで、これならいつでもある。
 骨が柔らかくて味の良いチカ(注8)という魚もたくさん獲れる。これは土浦辺りで獲れるワカサギという魚の類だろう。また、ゴリ(注9)という魚もある。
 海よりも漁獲はたくさんあって、寒中には氷の上に所々たき火をして穴を開け、そこから網を入れて漁をするという。
 
◇太平山の三吉さんきちさん
 大久保村(注10)、一日市村の東の方向に、太平良たいだいら村という村がある。この村の山を太平山(注11)という。ここには山鬼神大明神(注12)という神様がいるという。
 その昔、久保田の御城下の茶町に、小さな店を開いていた商人がいて、亭主に先立たれて後家になった人に娘が一人いた。この後家さんは太平良村の出身で、ある時、娘を連れて故郷へ行った。三、四月頃のことで、村にいるうちに娘は近所の娘たちと太平山のふもとにワラビを採りに行ったのだが、ほかの娘たちは日暮れには帰って来たのに、この娘だけが帰って来ない。ほかの娘に尋ねると、あの娘は山深くワラビを採りに行き、姿を見失って行方がわからなくなったという。いろいろ探したのだが、見つからないし、日も暮れて来たので、みんなで帰って来たという。そこですぐに人を頼んで探しに行ったが、行方は皆目わからない。
 翌日になって、大勢の人を頼み、探したが見つからないので、母親はどうなってしまったのかと心配していたところ、三日目になって、娘は自分で帰って来た。母親は喜び、そして驚いて、「三日も、どこにいたのだ」ときくと、「山深く入って道を見失い、あちこち歩き回ってようやく帰って来た」という。
 きっとひもじい思いをしたのだろう言うと、ちっともひもじくなかったと答え、何事もなかったような顔をしている。
 それで久保田へ帰ったのだが、娘の腹が大きくなってきた。娘も、もう十六歳にもなってはいるので、きっとどこかに親の知らない男ができたのだろうと問い詰めたが、そんな男はいないようだ。それからだんだん娘の腹が大きくなってきて、十五か月後に安産で男の子を産み落とした。
 この子は生まれながらに歯が生えていて、二、三歳の童子にも劣らぬ大きさの、骨太でたくましい男子だった。しかし、誰の子ともわからなかった。
 この子がだんだん成長して、五歳になったとき、娘の母親が亡くなった。それから十七日経ったので、娘は近所に母の病中の世話と野辺送りの礼を言って……
さて、私はせんだって、母と一緒に太平良村行って、近所の娘たちと太平山へワラビ採りに行った時に、山深く入って道を見失い、どうしたらよいのかと思っていたところに美しい男性が現れ、この人の導きで仮の契りを結び、三日の間、そこに一緒にいたのだが、その男性の申すには、「我はこの太平山の神である。そなたは我と契り、すでに身ごもっている。このままここに留め置くべきだが、そなたには一人の母がいる。それゆえ、一度帰すことにする。腹の中の子は男子だ。これを産み落としたら、母の最期を見送ってから、その男子を連れてこの山へ来なさい。もし我の言うことをきかず、ほかに夫を持つようなことがあれば、そなたの命を取ることになる。決してこのことを母親にも言ってはいけない。さあ、早く帰って、またここへ来なさい」と申されたので、私もまた、「けっしてほかの男には添わず、腹に宿った子を産んで、大切に育て、母親を見送ったら、すぐに戻りましょう」と、固く約束して母のもとに帰って来た。
 母を見送って十七日が経ったので、私はこの男の子を連れて太平山へ行くことにする。あとの家のことは、なにぶんにもご近所の皆さまでよろしいようにしてくだされるよう、お願いいたしたく、暇乞いに参った……
そう言って、近所をあいさつに回った。町内の人々は肝をつぶし、この事情を庄屋様に届け、それからお上へも申し上げた。お上では「それはただ事ではない」というので、町内の人たちを見張り番に立てたのだが、娘はいつの間に忍び出たのか、行方知れずになってしまった。きっと太平山へ行ったのだろうと思われたが、山の中を探すこともできず、そのままになってしまった。
 娘は、男の子を連れて太平山へ行き、山姥、山男となったそうだ。
 この男子は、名を三吉という。有名な「秋田の三吉」(注13)というのが、この男子である。秋田の国で、武道でも、相撲でも、そのほかあらゆる芸の日本一と名乗り、三吉はいろいろな姿に変化して、諸芸の相手になったという。
 仙台出身の谷風梶之助(注14)は、日本一の相撲取りで、秋田へ下った折、ある晩、三吉は座頭に姿を変え、あんまとして谷風の宿に来た。梶之助が肩をもませると、「その方はとても力がある。今まで、その方くらいの力のあるあんまに出会ったことがない。よほどに指先に力がある」と言った。すると、その座頭が「それなら、我としっぺい打ちをしてみよう」と言うので、谷風が「それならまず、私が打ってみよう」と、座頭の握りこぶしに谷風が力を込めてしっぺいを打ったのだが、「ちっとも痛くない」と座頭が笑いながら言い、「では、我のしっぺいを受けてみられよ」という。
 谷風もぬけめのない者で、「さては、これは三吉であろう」と気づき、「そこにある碁盤の上に握りこぶしを置くから、打ってみなさい」と言うと、座頭の顔色が変わった。座頭がしっぺいを打ち下ろす間際、谷風がこぶしをさっと引くと、しっぺいは碁盤にうち当たり、碁盤の角を三角に打ち落とした。すると座頭は目を開き、にっこり笑って立ち去ったという。
 その翌日、その日の相撲の結びの一番で、行司が「片や、谷風」と名乗りをあげたところへ、十五、六の若衆が飛び入りで出て来た。行司も、これは三吉だろうと気づき、相撲を取らせなかったそうだ。
 また、しばしば姿を変えて酒屋などに現れ、酒を飲ませてくれと言う。これは三吉さんかと気づき、気持ちよく酒を飲ませると、その夜のうちに大きな木をホキホキとへし折って材木にし、酒の代価より倍にして店の表に積んでおく。もし、酒を飲ませずに帰すと、さまざまな仕返しをしたそうだ。
 その時分、太平山へ焚き木などを取りに行った人が、山深く入ると三吉が現れて「ここから先へは行っていけない、わが母は鬼人になって、食うものがないので人間を見ると取って食うから、ここからさっさと帰りなさい」と教えてくれるという。それで村人は、赤飯やおこわなどを作って持って行き、「なにとぞ、これを食べて、人間をとり食らうのはご免してくれ」とお願い申し上げると、「殊勝な者どもだ。母にもこれを与え、けっして人間を取り食うことはさせない」と三吉は言ったという。
 お上もこのことを聞き及び、この山に神社を建て、山鬼神大明神として祀られるようになった。
 まことに、これらは珍しい話である。

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注1 男鹿山=男鹿半島は縄文時代初期まで、西部の男鹿三山(真山、本山、毛無山)、東部の独立峰である寒風山などの山々を擁する島だった。南北から砂州と砂丘が次第に発達して、その間に八郎潟を抱きながら本土と島がつながり、半島となった。最も標高の高いのは715bの本山で、半島の山々を総称して男鹿山と言うが、八郎潟越しに眺めると、潟のすぐ向こうに、縄文末期から弥生時代にかけて噴火を繰り返してできた寒風山(標高354b)の美しい山容が間近に見える。語佛師匠は「男鹿山から海へ流れ出る小さな川」が荒れて潟ができたと言っているので、位置関係から眼前の寒風山を指して男鹿山と言っているようだ。
余談だが、晩年は病床から離れることができず36歳で没することになる正岡子規が、26歳だった明治26年に八郎潟を訪れ、紀行文『はて知らずの記』を残している。「丘上に登りて八郎潟を見るに、四方山低く囲んで、細波渺々びょうびょう、寒風山の屹立きつりつするあるのみ」と風景を描写し、「秋高う入海晴れて鶴一羽」の俳句を得た。「丘上」というのは、JR奥羽本線・八郎潟駅から北へ4`ほどの高台、三倉鼻である。現在は公園として整備され、子規の句碑がある。歌人の川田順、斎藤茂吉、結城哀草果、俳人の水原秋桜子なども訪れた絶景スポットで、羽州街道沿いだから、語佛師匠もここから八郎潟と男鹿山を眺望したのかもしれない。

注2 瘡毒=性病である梅毒のこと。病状が進むと全身に発疹ができ、それが瘡蓋かさぶたとなるので、瘡毒と言われた。元来は西インド諸島の風土病だったが、コロンブスのアメリカ発見以後ヨーロッパに伝染し、大航海時代に全世界に広まった。日本にもヨーロッパ人の来訪によってもたらされ、江戸時代には遊里を仲介して全国に患者が広がった。
 瘡毒に効く湯治場とは、男鹿温泉郷のこと。半島の先端、入道崎に近い半島の北岸にあり、千年以上前から知られていた。泉質は弱アルカリ性食塩泉。ホテル・旅館街が形成されたのは戦後のことで、国定公園男鹿半島の大規模宿泊地としてにぎわっている。

注3 仙北=仙北郡。秋田県中央部の東側で、岩手県に接する奥羽山脈までの地域。現在は大仙市と仙北市の2市に統合されている。

注4 生保内峠=秋田県から奥羽山脈を越えて岩手県盛岡市につながる国道46号は、トンネルになっている仙岩峠(仙北郡と岩手郡に由来する呼称)が県境だが、江戸時代の街道は、少し北側の国見峠を越えていた。国見峠の名が定着するのは江戸時代中期からで、それ以前は生保内峠とも呼ばれていた。現在も、岩手県側の国見温泉まで自動車道があり、そこから徒歩で国見峠まで行くことができる。晴れていれば遠く盛岡の市街地まで遠望できる峠には、「従是これより西南秋田領」と刻まれた石柱が立っている。これは嘉永5年(1852)、それまでの木柱を秋田藩が替えたもので、ここから北の方に少し離れた場所には、盛岡藩が立てた「従是北東盛岡領」の石柱もある。
 この地を訪れていない語佛師匠が「生保内峠」と書いたのは、伝聞だからだろう。峠の手前に街道の宿場である生保内(旧田沢湖町の中心地)があり、そこから北西に下った所に田沢湖がある。「オボナイ」はアイヌ語で、深く小さい沢のことで、生保内盆地を通って玉川に注ぐ生保内川を言ったことから一帯の地名となった。

注5 たつ子の潟=田沢湖のこと。周囲約20`のほぼ円形の湖で、水深が425bあり、日本で最も深い湖(湖底は海面より低い)。明治42年の観測で透明度が55bあり、翌年の観測でも39bを記録し、当時は世界一透明な湖だった。しかし昭和15年(1940)、田沢湖の水を引き入れた生保内水力発電所の稼働とともに、水量調節のため強酸性の玉川の水を田沢湖に玉川を導き入れたことから、その透明度は失われ、田沢湖の固有種とされ、食用に漁獲されていたクニマス(サケ科)も絶滅した。
 田沢湖を「たつ子の潟」というのには、八郎潟の八郎とよく似た起源伝説がある。
 近くの村に住んでいた、辰子という美しい娘が友達とワラビ採りに出かけた。昼餉の準備をしているうちにひとりになった辰子は、小さな流れに見慣れぬ魚がいるのを見つけ、4、5尾をすくいとってたき火であぶりながら友達の帰りを待っていたが、あまりにもおいしそうなので1尾を食べるとたいへんな美味で、残りも全部食べてしまった。すると喉が渇き、探し当てた清水を飲んだところ、喉の渇きは増すばかりで、ついに腹ばいになって泉に口をつけて飲んでいるうちに、辰子はものすごい大蛇に化した。すると春の晴天が真っ暗になり、雷鳴がとどろき、豪雨が降り注いで山は崩れ、大きな湖水ができ、辰子の大蛇は湖の主となった。
 驚いた母親が湖のほとりに立って泣き悲しむと、沖に神竜が姿を現し、「もう人間の姿に戻ることはできないが、孝養のために、母上の求める鮮魚を贈り、少しでもご恩に報いたい」と言って姿を消した。母親は「ああ、なさけない」と言って、手にしていた松明の燃え残りの「木の尻」を湖に投げ捨てた。すると、その「木の尻」が見る間に1尾の魚となって泳ぎ去った。その後、来客があると母親の求める数の魚が台所に現れるようになった。この魚がクニマスで、地元でキノシリマス(木の尻鱒)と呼んでいたのは、この言い伝えによる。
 余談だが、絶滅したと思われていたクニマスが2010年12月、山梨県の富士五湖のひとつ、西湖で発見されたというニュースが流れ、大きな話題となったことは記憶に新しい。京都大学の研究チームが、タレントでイラストレーターの「さかなくん」にクニマスのイラストを依頼し、その色を再現するためのサンプルとして各地から近縁種のヒメマスを集めたところ、西湖から送られて来たヒメマスが通常より黒っぽいことに気付いた「さかなくん」が、「これはクニマスではないか」と疑い、京大の遺伝子解析で本物のクニマスと判明したのである。田沢湖から昭和10年、日本各地にクニマスの受精卵を送って人工ふ化の実験を依頼したことがあり、西湖に放流されたクニマスの稚魚が自然繁殖していたのである。
 
注6 八郎が通う際の宿=「奥のしをり」では、久保田の茶町の吉川という家を紹介しているが、八郎の往復には一定の宿があった。仙北郡内には何軒か「定宿」あり、決まった時期に美しい若者が泊まったという。その中の1軒で、「私の寝姿を見ないでくれ」と言われたのに、家の主人がのぞき見すると、若者は大きな龍に変じていた。寝姿を見られたことに怒った若者はその後、この家を訪れることはなく、その家は次第に家運も傾いて、ある時、洪水で家が流され、子孫も絶えたという伝説がある。
 なお、八郎と辰子の伝説には続きがあって、秋から春まで主のいない八郎潟は厚く結氷し、八郎と辰子が一緒にいる「たつ子の潟」(田沢湖)はどんなに寒い冬でもけっして凍ることがないという説話である。

注7 イナ、ボラ=海水と真水の領域を行き来する鯔(ボラ)は出世魚で、海で生まれた幼魚はスバシリ、川を少しさかのぼるようになるとイナ、成魚になって海に戻るころにはボラと呼ばれ、さらに巨大になるとトドと名前が変わる。若魚のイナが黒い背を見せながら群れをなして勢いよく川を泳ぐ姿から、「いなせ」という言葉ができた。また、結局とか、「突き詰めると」という意味の「とどのつまり」という言葉は、ボラが最大級に育ち、これ以上は大きくならないトドに由来する(スズキの最大級の大きさもトドといい、こちらも「とどのつまり」の語源とされている)。

注8 チカ=キュウリウオ科ワカサギ属の魚。姿も大きさもワカサギによく似ているが、背びれと腹びれの位置が異なる。語佛師匠が「土浦辺りで」と言っているのは、霞ケ浦のワカサギ。

注9 ゴリ=ゴリと呼ばれる魚は全国に多種あって、ほとんどが地方名だ。多いのはハゼの仲間と、カジカの仲間。秋田でゴリと言っているのは、ハゼ科のジュズカケハゼ。金沢名物の「ゴリ料理」はカジカを使う。

注10 大久保村=羽州街道の宿場。潟上市昭和大久保。

注11 太平山=秋田市と北秋田郡の境界にある山。奥岳(標高1171b)を最高峰とし、前岳、中岳の3峰があり、古くは「三本岳」の名もあったという。現在は太平山県立自然公園として登山道などが整備され、スキー場もあり、多くの人でにぎわっている。
太平山を、今は「たいへいざん」と読むが、古くは「おいだらやま」と呼ばれていた。江戸時代になって、「日の出の地を太平と号す」という中国の古い書物に典拠して、「城の東にあるから、太平」と漢音の読みに定めたとされるが、その正確な年代はわからない。
 「おいだら」は、「ダイダラボッチという巨人が、近江の国の土を掘って運び、積み重ねたのが富士山で、掘った跡に水が溜まって琵琶湖ができた」など、日本各地に残る巨人伝説の「ダイダラボッチ」が、秋田では「オイダラボッチ」に変化したという説がある。「おいだら」には狼平という漢字表記もあったと言われ、「オオカミダイラ」が縮まって「おいだら」になったのはうなずけるが、「太平」を「おおだいら」と読み、それが「おいだら」に変化したというより、「オイダラボッチ」が先にあって、後から漢字を当てたとする説の方に説得力があると思われる。

注12 山鬼神大明神=現在の太平山三吉みよし神社の前身と思われるが、神社の由来書にこの名は見られない。社伝によると天武天皇の御代、修験道の祖とされる役行者えんのぎょうじゃによって信仰の山となったとされる。
 役行者の本名は役小角えんのおづのと言い、飛鳥時代、大和の葛城山に住む実在の人物だったが、時代が下るにつれ、大和朝廷に従わない「山人」だったため伊豆国に流されたものの、海の上を自由に飛んで富士山へ行ったというような超人伝説が生まれた。葛城山は古くから霊山とされ、神の言葉を伝える人々がいて、仏教が国家的な立場で興隆した後には、庶民は逆に葛城山の神を尊敬するようになった。中でも人々の信望を集めたのが役小角だった。そして奈良時代、仏教がますます国家の庇護を受け、所属する僧侶をさまざまに拘束するようになると、それを堕落と考える仏教徒の中には山に入って修行する人が数多く現れた。これが修験(山伏)で、彼らによって役行者伝説が流布されることになった。
 太平山も山岳修行の場として信仰を集めたが、熊野や出羽三山とは別個の、秋田固有の神山と位置付けられている。そして、武神としてあがめられ、古くは坂上田村麻呂、近世では藩主佐竹氏をはじめ武人が信仰し、各地に三吉神社が建てられた。明治元年に作られた社伝には、戊辰戦争で庄内藩、盛岡藩に攻め込まれて苦戦となった時、神主らが日夜祈祷を続けたところ、あちこちの山の頂に神旗が飛来し、戦いを勝利に導いたと、その霊験が記されている。

注13 秋田の三吉=『菅江真澄遊覧記』(東洋文庫)の「月のおろちね」では、山鬼神に「さんきち」と読み仮名を振っている。また、別に「この山に三吉(さんきち)という神鬼がいて、ときおり見た人がいるともっぱら語られている。山鬼神(さんきじん)というものをいうのであろうか」とも書いている。
 三吉の名の由来には、修行者の中に鶴寿丸つるじゅまる藤原三吉がいて、後に太平山の神々の中に合祀された(『秋田大百科事典』)という説もある。太平山三吉神社が編纂した『太平山の歴史』では、戦国時代とは断定していないが、山のふもとの太平城の城主が鶴寿丸藤原三吉で、慈悲深く、勇猛な武将だったが、不意を突かれて大軍に攻められて落城し、太平山の幽谷に逃れて隠れ住み、現人神あらひとがみとなって怨敵を滅ぼしたので、世の人々が崇敬して三吉大神として祀ったと紹介している。
 どちらも史実ではないが、三吉という名前は古くからよく知られていたことを示す説話だ。そして、三吉の由来については、この「奥のしをり」の記述が最も詳しいと評されている。
 さらに三吉は、巨人ダイダラボッチ伝説と結びつき、秋田県内各地に民間説話を生んだ。例えば、ある長者の家に奉公していた若者が「前の田の稲を、背に負えるだけもらっていいか」というので、長者が許すと、一千刈もある山のような稲を全部背負って歩き出したので、慌てた長者が追いかけると、稲束を2落として行ったので、この地を稲庭(名産品「稲庭うどん」で知られる湯沢市稲庭町)というようになった、という類の話である。

注14 谷風梶之助=江戸相撲で最初に横綱土俵入りを許された力士。ただし、番付で横綱が正式に記載されるようになったのは明治38年(1905)からで、それまでの最上位は大関。土俵入りは元々、地中の悪霊邪神を除くために地を踏む儀式で、寛政元年(1790)11月、深川富岡八幡宮の相撲興行の際に、東西大関(谷風と小野川喜三郎)が横綱を締めて土俵入りをしたのが、横綱の始まりとされている。谷風は身長1b89a、体重161`と記録される巨漢で、230回の取り組みで黒星はわずか11個という、無類の強さだった。
 谷風と三吉さんの逸話は、「奥のしをり」にしか見られないが、三吉さんは相撲が大好きだったと言われ、相撲を取る仙北の若者が太平山に登り、酒3升と2升の餅を奉納したところ、たちまち強くなったという民話もある。
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