冒 頭
 豊かな世の中に生まれて来た楽しさというものは、浜の松の音も静かにおさまって枝も鳴らさなくなった潮風のように、武家が取るべき弓は案山子かかしに譲り、刀は御堂に納めおくのがよろしいようで、私も風雅の道を種として狂歌、俳諧、川柳も、ただ大人うしたちのまねばかりではありますが、滑稽落語を作ることをなりわいとして世を送ること五十余年になりました。
 私は若い頃から遊歴を好みましたが、師匠の扇橋居士が早くに亡くなられ、その名を受け継いで教えた弟子のために江戸に足をとどめること二十年余にもなってしまいました。門人の中には、江戸でまずこの人、次はこの人と数えられるようになった麗々亭柳橋、都々逸坊扇歌がおります。扇歌は当節流行の都々逸「とっちりとん」の道に長じ、噺(落語)は柳橋にとどめを刺すと申せましょう。私は柳橋に名を継がせて、あとは気ままに生きようと思っていたのでございますが、柳橋は四十歳まで三、四年の間がある歳で、私より先に亡くなってしまいました。そういうわけで、しかたなくその次の弟子、入船扇蔵という者に扇橋の名を継がせ、私は以前に名乗った扇橋庵語佛と改めて、ようやく楽隠居の念願を果たしました。
 ほかにも頼りになる弟子はいて、その一人は江戸におり、また一人は水戸の徳川様に仕えて水戸におります。二人とも武士の役職にあります。私はもうこの世の中に思い残すこともなく、思い立って常陸の国の水戸へ旅に出ました。
 そこから、(奥州の関門)勿来なこその関を越え、岩城の湯本温泉で湯につかり、同じく岩城平の知り合いの尼橋という仏門の人を訪ね、名馬の産地として知られる相馬の駒の背に身を任せて、みちのくの松島を見物し、南部の国にある「末の松山」から、津軽の果ての外ヶ浜、善知鳥(うとう)と、都の歌人たちが憧れた歌枕の地が今はどうなっているかを訪ね、出羽の秋田の黄金の山に分け入り、庄内酒田、鶴岡から越後、越前、美濃、尾張、さらには京の都まで登ろうと思いついたのでございます。
 これは、その道中記でございます。いにしえの鴨長明かものちょうめい大人<うし/rt>の見分、そのほか(橘南谿の)「東遊記」や「西遊記」などの紀行に比べるほどのものではございませんが、ただ、その国の人が語り教えてくださったことをそのまま書きつけて、居ながらにして名所を知ろうという人の助けにでもなればと思うものでございます。
 また、所々で口ずさんだ下手な歌も、ここまで杖をついて旅して来た証拠にと思って書きつけ、「道の枝折」(しおり=道しるべ)と名をつけることにしました。十返舎一九の「膝栗毛」ではありませんが、金のわらじの緒を締めて、喜多八ではなく妻を友とし、弥次郎兵衛にも負けない江戸っ子気質かたぎは身の内に控えさせ、行く先々の風雅の道をもてあそんで、滑稽の道を好まれる皆々様の御厚情を力として、いつまでに、どこへいう定めもない、にわか雲水となった私は……
 東都落語滑稽の作者 先の疝遊亭扇橋こと 滑稽舎 語佛 誌
天保十二年 丑年 神無月
解説(前書きに代えて)
◇二代目扇橋という人
 筆者は、江戸の落語家、二代目船遊亭扇橋という人である。没年は不明だが、嘉永元年(1848)に六十三歳という記録があるので、「奥のしをり」の旅をした天保十二年(1841)には五十六歳だったことになる。
 出自は初代扇橋の弟、あるいは麻布の茶漬茶屋の息子と二つの説がある。落語家としては初代扇橋の弟子として新橋から始まり、扇蝶、扇蔵と順次昇格して改名し、最後に師匠の名を継いだ。期待していた柳橋が若死にしたので三代目を継がせたという入船扇蔵は、現在の落語界で言えば二つ目時代の語佛自身の芸名である。
 ただし、初代は落語の合間に短い唄を聞かせる音曲咄おんぎょくばなしの元祖とされていて、冒頭に名のある都々逸坊扇歌もその弟子の一人だったから、これを自分の弟子のように書いていることには疑問の余地がある。
 都々逸は「ドドイツ、ドイドイ、浮世はサクサク」という囃子言葉に由来する俗曲で、名古屋が発祥の地である。それが江戸に伝わり、天保の初めごろ、都々逸坊扇歌が寄席で謎解きの芸にして大評判となった。吉川英史の『日本音楽の歴史』には、こんな謎解きが紹介されている。
 「壇ノ浦の平家」という客からの出題に対し、即座に「壇ノ浦の平家とかけて、何と解きましょうか、ああ、四文銭を天ぷらにして、三文で売ると解くわいな。解きましたその心、波をあげて一もんを、損するではないかいな」というぐあいに、謡いながら頓智頓才を発揮する。これが非常に受けたのである。
 つまり都々逸坊扇歌は、まったく新しい寄席芸を創始したわけで、初代扇橋の音曲咄の系譜ではあっても、滑稽落語の二代目扇橋(語佛)の門下とは考えにくい。
 そしてもう一つ、研究者によると、二代目扇橋は狂言作者(歌舞伎の台本作者)並木五瓶の名を継いで二代目になったと自身が述べているという。二代目並木五瓶は別人が継いだことがはっきりしていて、語佛師匠は三代目だとの説もあるが、自分で二代目と言っているあたりの事情はよくわからない。三代目並木五瓶の作という歌舞伎は記録があるので、落語家と狂言作者を両立させていたとも推測される。が、「奥のしおり」では、狂言作者の顔は全く見せていない。
 冒頭は、旅に出た経緯と、この旅行記に込めた思いを書き綴っている。
 読んですぐ気づくのは、扇橋改め語佛という人がかなりの教養人であることだ。滑稽落語という笑い話の創作者の顔から、現代のお笑いタレントのギャグを想像してはいけない。世の中の風刺やおかしみである狂歌、川柳もたしなむ一方で、芭蕉の風雅の根底にある和歌の伝統的世界にも深い造詣を見せていることに注目したい。
 それは、すらすらと並べた「歌枕」を見ただけでわかる。
 「歌枕」を簡単に言えば、古来の和歌に詠まれた地名、景物のことだが、みちのくの「歌枕」は、実際に見ることが難しい京の都の歌人たちにとっては憧れでもあった。芭蕉の『奥のほそみち』も、自分の足で歌枕を訪ねる旅だった。語佛師匠も、芭蕉と同じ気持ちだったのだろう。生半可な思い入れではない。

 ◇冒頭に登場する「歌枕」
【勿来の関】
 江戸から水戸を通り、太平洋岸を岩沼(宮城県岩沼市)まで行って奥州街道に合流する「江戸浜街道」の関門が、福島県いわき市に史跡がある勿来の関だ。白河の関(福島県白河市)、鼠ヶ関(山形県鶴岡市)と並ぶ奥羽三関のひとつである。「勿来」とは「来るなかれ」、つまり来てはならないという意味だ。
 吹く風をなこその関と思へども道も背に散る山桜かな 八幡太郎源義家
(これから奥州に入る私に向かって吹いてくる風も、来るなかれという関だからと思うものの、来て見ればこの道を進む私の背に散りかかる山桜の見事なことよ)
 勿来の関を詠んだ歌はほかにもあるが、前九年の役に際してみちのくに足を踏み入れた源義家が、その第一歩であるこの地で詠んだというこの歌(『千載集』)によって、広く知られている。

【松島】
 日本三景のひとつである松島は、奥羽第一の歌枕とされた。芭蕉も『奥のほそみち』の冒頭、「松島の月まづ心にかかりて」と、抑えきれない旅心を述べている。『源氏物語』にも、『枕草子』にも松島が登場するように、平安の歌人たちも大いにあこがれた場所であった。
 松島や雄島が磯による浪の月の氷に千鳥なくなり 俊成女(俊成卿女集)
(松島のすばらしさよ、その中の雄島の磯に寄せ来る波が氷のように輝く月明かりに映えて、多くの鳥が鳴いていることよ)
 音に聞く松が浦嶋今日ぞ見るむべも心ある蟹はすみけり 素性(後撰集)
(うわさに聞いていた松島の海を念願かなって見てみると、なるほど蟹さえも風雅の心を持って住み暮らしているようだ)

【末の松山】
 都から来た男と夫婦になった女が「末の松山を波が越えたらお別れです」と言った直後、白鷺の一群が波のように松山を越えて行った。その途端、女の姿が消えてしまったという悲恋物語にちなむ歌枕である。
 君をおきてあだし心をわが持たば末の松山浪も越えなむ 『古今集』東歌
(あなたがいるというのに、もしも私が浮気心を持ったなら、末の松山を波が越えてあなたが消えてしまうことでしょう、私にはあなたしかいません)

 契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは 『百人一首』清原元輔
(あなたとは固く誓い合いましたね、お互いに泣きぬれながら、まさか末の松山を波が越えてあなたが消え去ることなどないと私は信じています)

 実は、「末の松山」は二カ所ある。一カ所は宮城県多賀城市だが、語佛師匠は「南部」と言っているので、岩手県二戸郡一戸町の浪打峠のことだ。ここは海から遠く離れているが、奥州街道沿いの浪打峠には、波が打ち寄せるさまを連想させる美しい縞模様の地層が露出している。「末の松山層」と呼ばれる地層で、国の天然記念物に指定されている。

【外ヶ浜】
 日本最北の歌枕の地。陸奥湾に面した津軽半島東海岸一帯のことだが、地名だけが平安歌人に伝えられていたと推測される。
 陸奥みちのくの奥ゆかしくぞ思ほゆる壺の碑そとの濱風 西行
(みちのおくと言うが、またその奥を見たいものだ、とりわけ壺のいしぶみと外ヶ浜の風の景色を)
「そとの濱風」が「外ヶ浜」のことだが、西行が実際にこの地に足跡を残したとは思えない。この歌枕を詠んだ歌は非常に少ない。

善知鳥うとう
 弘前藩(津軽氏、十万石)が江戸時代になって青森に新たな港を造るまで、現在の青森市は善知鳥村という漁村に過ぎなかった。この地名のもとになったのは、陸奥に流された宇頭うとう大納言安方やすかたが外ヶ浜で生涯を終えた時に、親子の鳥が現れて、親鳥が「うとう」と鳴くと、子鳥は「やすかた」と答えたという伝説である。村人が建てた善知鳥神社は、今も青森市内にある。室町時代の寛正六年(1465)、この伝説を基にした謡曲「善知鳥」が足利将軍の前で演じられた。この能楽で、シテは
 みちのくの外ヶ浜なる呼子鳥鳴くなる声はうとうやすかた
――と謡う。謡曲「善知鳥」は、生前に「善知鳥」を殺傷していた猟師の亡霊が、あの世に行ってみると、「善知鳥」は鉄のくちばし、銅の爪で罪人の目玉をつかみ、肉を割くという怪鳥になっていたという、恐ろしい物語である。

 ◇語佛師匠の読書量
 この冒頭には、先人の紀行文も登場する。
「鴨長明大人の見分」と現代語訳した原文は、「鴨の長明うしの見物車」で、見物車とは高貴な人が乗る牛車のこと。これで都を見物したことからそう言われる。鴨長明は随筆『方丈記』で知られるが、『新古今集』に多数の歌が採られた歌人であり、歌論集『無名抄』を書き残している。しかしここで、なぜ鴨長明の名を出したのだろうか。
 長明は伊勢・熊野に旅したことがあり、「伊勢記」という紀行文を残したという。しかしこれは、今では散逸してしまい、そこから引用した他の文献で旅の様子を類推するしかない。あるいは語佛師匠の頃は、この書物が現存していたのかもしれない。
 「東遊記」と「西遊記」は、伊勢の人で、医師の橘南谿たちばななんけいの旅行記。「西遊記」は西日本の旅だが、「東遊記」は天明五年(1785)秋から翌年夏にかけて北陸、越後、奥羽をめぐり、寛政七年(1795)に五巻が出版され、四年後に後編五巻が出た。南谿は新潟から鶴岡、酒田を経て秋田、津軽に入り、津軽半島の先端竜飛崎に近い三厩みんまやまで行っている。そこから青森、野辺地、七戸、盛岡と歩き、奥州街道を仙台、福島とたどって江戸へ帰った。物見遊山ではなく、医者の目で各地の風土を記録している。
 前編五巻、後編五巻が出版されたということは、かなり売れたのである。語佛師匠も若い頃、読んでいたに違いない。
 十返舎一九の「膝栗毛」は、言うまでもなく弥次さん、喜多さんの珍道中『東海道中膝栗毛』に始まる「膝栗毛シリーズ」で、江戸時代のベストセラーだ。伊勢参りをはじめとして、庶民の旅行が盛んになった江戸後期の世相がよく表されている。滑稽落語の創作者としては、必見の書であったはずだ。
 と言っても、「奥のしをり」で語佛師匠は決して「珍道中」を演じていない。「居ながらにして名所を知ろうという人の助けにでもなれば」という謙虚な言葉の中に、この旅日記の深慮がうかがえる。

◇現代語訳にあたって
 今回の現代語訳は、三一書房の『日本常民生活資料叢書 第九巻』(一九七二年刊)を底本とした。逐語訳でわかりにくい部分は意訳し、語順を入れ替えたところもある。江戸時代の文章にはない句点も、適宜書き入れたことをお断りしておく。
backnumber