宮城県内
◇鳴子から古川へ
 三月九日は、笹森(前回の注10参照)から五里の鳴子(注1)に宿泊した。ここには温泉があり、三、四十軒ほどの家がある。家の造りはどこも立派に見える。湯壺は二つあり、滝もあった。湯治客でにぎわっていて、高橋多七の宿にした。新庄から鳴子までは馬道が整備されているが、山坂がある。
 三月十日、鳴子から三里半の岩出山(注2)へ。ここは小さな城下町で、一万三千石の伊達将監様(注3)の家中七百軒があり、岩出山の古城跡だという。鳴子の村々のうち、名生定村(注4)はこの古城跡にある。大きな川(江合川)の中に見つか小島(注5)が見え、松の木がある。
 霞せず見つか小島や松の景(保紅)

 十日の泊まりは、岩出山から五里の古川(注6)である。町家造りの宿、菊屋権十郎方へ(1人)百十文で泊まった。ここに来るまでの間に、松ヶ崎で渡し舟があった。

 ◇松島へ
十一日は、古川から三里半の松山(注7)へ行った。ここは(伊達家の重臣)茂庭主水様(注8)一万三千石の小城下で、町並みは二百軒ほどあるが、あまりよろしくない。
 そこから二里、松島の富山(注9)には大仰寺観音堂があり、本堂の右の境内から松島の島々が見えるはずなのに、この日は昼から雨で曇り空のため、遠くの島々は見えず、近くの島を一見しただけだった。
 十一日の泊まりは、富山から二里半の松島だった。宿屋は扇屋弥右衛門方に上がった。
 
 三月十二日、松島の五大堂(注10)へ。ここは延喜(西暦901〜923)の頃、征夷将軍田村公(坂上田村麻呂)が開闢(かいびゃく)し、引き続き寛永(1624〜44)以来、(伊達氏によって)堅く守られて来た所だ。何か違反する者があれば、すぐさまお上に通報される。
  格子唐天上(注11)の、同じく松島の瑞岩寺(注12)は、寺領二百七十石で、御本尊の観音は弘法大師の作である。その伽藍のすばらしさは書き尽くせないほどで、伊達のお屋形様がおいでになった時、玄関には左甚五郎の彫り物細工があり、そのほか座敷という座敷には狩野元信(注13)の描いた墨絵、人形画があり、そのほかのふすまは極彩色で彩られている。
 女性がこれを拝見できるのは毎月の一日、三日、四日、七日、八日、十一日、十二日、十五日、十八日、十九日、二十日、二十三日、二十四日、二十六日、二十八日と決められている。ただし、春と秋の彼岸中と、七月の末日は女性が拝見してもよい。
 円通寺には、殉死した七人の方々の御霊屋(注14)があり、その方々の絵もある。寺領七貫の伽藍である。
 同じく松島の陽徳院(注15)は、政宗公の正室、田村御前の御霊屋である。政宗公の奥方の絵があり、寺領は十五貫。
同じく松島の天麟院は、御西楯様と申して(注16)、政宗公の姫君の御霊屋である。
 松島の五大堂は、むかし秀平(注17)の五人の男子の起請文を納めた所だ。慈学大師(注18)がお作りになった不動尊がご本尊で、五地ノ如来(注19)もある。
 松島には、黒塗りの御船が三艘あった。
 ここから松島の島々を巡る船に乗った。十三人乗りで、一人五十五文ずつ払ったほかに、(船頭に)酒肴を出した。湾内の航路は一里半の間に四十八の島を見る。第一に訪ねた雄島(注20)は、島の中にお堂も庵もあり、芭蕉翁の碑(注21)もあった。そこには「朝よさをただ松島の片こころ」と刻まれていた。
 福浦島(注22)には庵があり、弁慶の守り本尊の不動尊があり、洞水和尚(注23)の座禅石があり、この島に立ち並ぶ松の木々は色濃く、極彩色を見るようだった。
 十二日の泊りは、太田屋友八郎の宿。
 
 ◇塩竃神社は奥州一ノ宮
(翌日は)松島から五里の塩竃(注24)へ。塩竃神社は第二代の綏靖(すいぜい)天皇が開闢(かいびゃく)した六社大明神であり、その構えは奥州一ノ宮である。正面の右側は香取大明神、左側は鹿嶋大明神(注25)で、この神々は、塩竃大明神様が塩焼きする際にお手伝いに来られた神であるという。
 その御堂を塩竃大明神といい、六社とは言うが三社である。
 境内の左の方には南蛮鉄の金灯籠がある。(藤原秀衡の三男)和泉三郎忠衡が寄進したものだ。
 拝殿の左右には、タラヨウ(多羅葉)という中国から来た樹木がある。
 別当寺は真言宗法蓮寺(注26)で、寺領は三十貫である。
 神職は淡路守である。
 塩竃の町には家が数千軒あり、毎年十月中には、お上(伊達家)より千八石のお金が塩竃下中に下しおかれる。
 ご神事の時には、二振りの幟が立ち、そこには「深川親和七十二歳の筆」と書かれていて、幟の地紋は龍である。
 塩を煮詰める釜(注27)は本町の角に四つある。七月六日には「まかきが島」から運んだ水を入れ替えるという。
 三月十二日の朝、松島で泊まった扇屋の二階から島々を見渡すと春雨で、笑いが隠れているのを具して
 松島や笑いこらえへし春の雨(保紅)
  十二日に船から松島の風景を見渡して
 松島や長閑(のどか)な波に遊ぶ船(保紅)

 ◇多賀城に数々の歌枕
八幡(注28)へ。この間(塩竃から八幡)には紅葉山があり、小さな山だが古城の跡という。その左に阿部の宗任(注29)が待っていたという橋があり、山と橋の間には野田の玉川(注30)がある。
 この八幡村の中に、(歌枕の)沖ノ石(注31)がある。本当に目を驚かせるもので見物したが、昔の古い歌の姿、心情が我が目にもとどまるほどだった。ただし、沖ノ石辺りは池になっていて潮の満ち引きがある。ちょうど潮の引きぎわが見えた。その後がどうなるのかも見物すべき所である。
 そこからほどなく、(やはり歌枕の)末の松山(注32)がある。ここも古歌の姿情が思い出される。沖ノ石から寺のわきを通って行く場所である。
 市川村(注33)の後ろに、(歌枕の)つぼの石碑(注34)がある。ただし文字には道のりが書きしるされている。
 (次の原町まで行く)この間に今市村があり、轟の橋(注35)がある。
 原町(注36)から宮城野萩(注37)を一見した。それから釈迦堂に参詣し、桜の馬場(注38)へ行くと、桜はそろそろ咲き始めていて、見物の人でにぎわっていた。馬場では、お殿様の乗馬を拝見した。

 ◇仙台城下に到着
三月十三日、五里の道を歩いて仙台城下の国分町(注39)に着いた。宿は大幡屋太兵衛方で、三日間逗留した。
 十四日には、東照宮(注40)の御霊屋を拝見した。朱塗りの橋があり、橋の前には石造りの鳥居があった。本堂は結構な造りであった。
 同じく十四日、八幡宮(注41)を拝見した。本殿回りの彫り物はけっこうなもので、しかも古めいている。
 それから、お城の大手門の前(注42)を拝見した。大手門の前には大きな橋があり、橋の内側へは他国の者は入ることができない定めになっている。
 仙台の大念寺御霊屋(注43)は、黄檗宗である。
同じ日、愛宕山(注44)へ。ここからは城下も城に近い内町も、ともに見下ろすことができる。
 三月十六日に出立するまで、十三日、十四日、十五日と三夜泊まった。
 十六日に仙台を出立し、一里半の長町(注45)へ。ここは城下からの町続きである。
 そこから一里の中田(注46)へ。
 増田(注47)までは三十一丁。この間に、小さな村があった。
 岩沼(注48)までは二里。ここに正一位竹駒明神宮(注49)があり、ここで昼飯にした。後ろに「二木(ふたぎ)の松」(注49)があり、左手に阿武川という大河がある。
 槻ノ木(注50)まで一里二十九丁。
 船(ふな)迫(はさま)(注51)まで一里十四丁。
 大川原(注52)へ一里十二丁。
 泊まりは村上屋善治郎の宿で、宿賃は四十文と白米一升だが、合わせて五十文払った。
 
 十七日、金か瀬(注53)へ三十丁。
 ミや(注54)へ一里十二丁。
 白石(注55)へ一里二十三丁。片倉小十郎様のご城下の町並みである。一万七千石の領地だが、三万石の格式だという。
 才川(注56)へ一里十六丁。
 越河(こすごう)(注57)へ同じく一里十六丁。この間にあぶみ坂(注57)という難所がある。ここに関所があり、尿前でいただいた御手判を納めて通った。
 

注1 鳴子=現在の地名は大崎市鳴子温泉。JR陸羽東線・鳴子温泉駅から南の山にある温泉神社は延喜式内社で、はるかな昔から知られていた温泉だ。駅から1.5キロほど西に、仙台藩の関所だった「尿前の関」跡がある。安倍五郎兵衛一行の足跡に従うと、新庄藩最後の集落である堺田の「封人の家」から尿前の関までは8キロほどで、県境から尿前の関までは文化庁が「歴史の道」を整備復元しているので、散策を楽しむことができる。そして尿前の関跡には、自然石に芭蕉の「蚤虱馬の尿する枕もと」の句を刻んだ明和5年(1768)の碑がある。五郎兵衛の旅の時には、すでに句碑があったはずだが、「道中記」には記されていない。

注2 岩出山=旧玉造郡岩出山町(現在は大崎市)。豊臣秀吉による奥州仕置きによって、会津黒川城(会津若松市)を没収された伊達政宗は、一時、米沢に退いた後、天正十九年(1591)岩出山城を居城とした。政宗が慶長6年(1601)仙台の青葉城に入るまで、岩出山が伊達領国の本城だった。JR陸羽東線・岩出山駅のすぐ西側の山が城跡だ。本丸跡からは大崎平野が一望できる。

注3 伊達将監様=政宗が仙台へ居城を移した後、政宗の4男、宗泰(むねやす)が岩出山城に入り、以来、伊達一門の岩出山伊達氏として明治維新まで続く。ただし石高は1万3000石ではなく、1万4640石。五郎兵衛一行が通過した時の当主は、6代村通(むらみち)。

注4 名生定村=「みょうさだ」村と読む。旧岩出山町に近い旧鳴子町の集落だが、岩出山城跡までは10キロ以上あり、五郎兵衛が名生定村を「この古城跡にある」と書いている根拠がわからない。

注5 見つか小島=名生定の少し先にある歌枕の地で、「美豆の小島」と書くのが通例。古今和歌集の東歌に「小黒崎みつの小島の人ならば都のつとにいさと言はましを」がある。新潮日本古典集成「古今和歌集」(奥村恆哉校注)では「小黒崎のみつの小島は実に美しいものだ。もしそれが人であるなら、京へ帰るのに、さあ、一緒に行こうと、誘っていきたいところだ」と現代語訳している。しかしその場所については「宮城県内と考えられるが、未詳」だという。たぶん校注者は「奥のほそみち」で芭蕉がここを通った時の「小黒崎、美豆の小島を過ぎて、鳴子の湯より尿前の関にかかりて」という一節を知らなかったのだろう。芭蕉に同行した弟子、曽良の日記には「川の中央に岩の島があり、松が三本、その他小木が生え、川の右岸と陸続き」と、美豆の小島の風景が描写されている。街道はこの付近では、江合川(荒雄川)の左岸を通っていた。
五郎兵衛も松の木を見たが、その後の河川氾濫などで風景は一変し、松の木も明治43年(1910)に流出して失われた。地元でも長い間ここが絶景の地で、歌枕であることも忘れられていた。しかし2008年から宮城県、大崎市、そして地元の人たちによって周辺の環境整備が始まり、草に覆われていた小島は復元され、国道47号の案内板に従って河原に下りると、古今和歌集の歌碑や「奥のほそみち」の案内板などがあって、新たな観光スポットになっている。
なお、「伊勢物語」14段に「栗原のあねはの松の人ならば都のつとにいざといはましを」と、古今集・東歌にそっくりの歌があることを補足しておく。宮城県栗原市に金成姉歯(旧金成町)という集落があり、集落のはずれの山の中にこの歌の歌碑と松の木がある。「伊勢物語」の歌は古今集を本歌として創作されたと推測される。しかし「伊勢物語」は作者も、成立年代も厳密にはわかっていない。後世、「伊勢物語」の歌から「姉歯の松」もよく知られた歌枕となった。

注6 古川=旧古川市。大崎平野の中心都市で、現在は大崎市役所がある。

注7 松山=旧志太郡松山町。現在は大崎市。

注8 茂庭主水様=伊達家の重臣。松山の領主で、1万石。伊達氏一門以外で1万石以上は、白石の片倉家と茂庭氏だけ。

注9 松島の富山=とみやま。宮城郡松島町の丘陵の南端で標高117メートル。頂上に臨済宗大仰寺があり、そこからの景観は絶景。富山観音堂は坂上田村麻呂の建立と伝えられ、それが荒廃していたのを伊達政宗の娘、五郎八(いろは)姫が承応三年(1654)修復し、これを管理する別当寺として寛文年中(1661〜72)に大仰寺が建立された。

注10 五大堂=松島湾に突き出るような場所にあるお堂。国の重要文化財。坂上田村麻呂が平安初期の大同2年(807)、蝦夷鎮定の際に毘沙門堂を建て、その後、慈覚大師(注18参照)が勅命で松島に天台宗延福寺(現在の瑞巌寺)を創建した時、不動明王を中心とした五大明王像を安置した。現在の建物は慶長9年(1604)、伊達政宗が建てた桃山様式の建築。

注11 格子唐天上=原書で、瑞巌寺(五郎兵衛は「瑞岩寺」と誤記)の右側にある添え書き。「天上」は「天井」のことかと思われるが、意味不明。瑞巌寺の玄関は、彩色しない白木づくりの唐様(からよう)建築なので、五郎兵衛はそれを言いたかったのかもしれない。

注12 瑞岩寺=「瑞巌寺」が正しい。元々は天長5年(828)、慈覚大師が創建した天台宗の寺院、延福寺。しかし鎌倉時代中期、この寺の戒律が乱れていたのを憂えた執権北条時頼が、鎌倉から兵を差し向けて天台宗徒を追い払い、臨済宗円福寺と改めた。だが円福寺は次第に衰えた。それを再興したのが伊達政宗だ。慶長9年(1604)、政宗自らが縄張りして建設工事が始まり、5年後に完成した。寺院であるが、内実は書院造。それぞれの室内は巧緻な欄間や豪華な襖絵で飾られている。政宗によって再建された瑞巌寺はその後、火災、戦災にも遭わずに創建時の姿をとどめていて、国宝に指定されている。
なお、五郎兵衛は「御本尊の観音は弘法大師の作」と書いているが、弘法大師は真言宗を開いた空海のことで、元々は天台宗だった瑞巌寺に空海の作とされる観音様があるはずはない。

注13 狩野元信=狩野派の祖、狩野正信の子で、狩野派の画風を大成した画家。法眼の位に叙せられ、古法眼と通称された。しかし元信は戦国時代の永禄2年(1559)に没しており、伊達政宗の瑞巌寺再興に寄与するはずはない。瑞巌寺の襖絵に狩野派の絵師が筆を取っているのを、五郎兵衛が確認もせずに「元信」と道中記に書き残したと思われる。

注14  円通寺には、殉死した七人の方々の御霊屋=円通寺ではなく、円通院が正しい。瑞巌寺の南隣にあり、仙台藩2代藩主忠宗の嗣子だった光宗の廟所。光宗が正保二年(1645)十九歳で没した時、七名が殉死した。円通院の裏山に光宗の御霊屋「三慧殿」(さんけいでん)があるが、建物の各所にバラ、ガーベラ、ラン、トランプのスペード、ハートなどが図案化されて描かれており、江戸初期に支倉常長をヨーロッパに派遣した仙台藩らしい西洋文化の影響をみることができ、「バラ寺」の通称もある。三慧殿を取り囲んで、殉死した7人の石碑があるが、そのひとつは靴の形をしている。

注15 陽徳院=瑞巌寺の北隣にある、政宗の正室、愛(めご)姫の菩提寺。愛姫は三春城主(福島県田村郡三春町)田村清顕の娘。田村家はその後断絶したが、仙台藩2代藩主伊達忠宗の庶子、宗良が田村家を相続した。田村宗良は万治3年(1660)、わずか1歳5か月の幼児で仙台藩を継承した4代藩主伊達綱村の後見役を幕府に命じられ、同時に岩沼藩(宮城県)3万石を与えられた。延宝9年(1681)、次の藩主田村右京太夫建顕(たてあき)は一関(現在の岩手県一関市)に国替えとなり、以後、田村家の一関藩は明治維新まで続く。余談だが、田村建顕は幕府の秦者番に登用され、元禄14年(1701)3月14日に起きた江戸城・松の廊下で起きた刃傷事件に遭遇した。たまたま城内にいた秦者番が田村建顕だけだったことから、赤穂藩主浅野内匠頭を預かることになり、その夕刻、現在の東京都港区新橋4丁目の一関藩江戸屋敷で浅野内匠頭は切腹した。

注16 天麟院は、御西楯様と申して=円通院の南隣にある。伊達政宗の長女、五郎八(いろは)姫の廟所。五郎八は徳川家康の六男、松平忠輝(越後高田と信州川中島合わせて45万石の大名)と結婚したが、家康の死後、兄の秀忠(2代将軍)によって忠輝が改易され、同時に五郎八は離縁されて仙台に移り、仙台城本丸の西館を与えられた。美しく、聡明な女性と言われ、弟の二代藩主忠宗にも信頼されていたが、忠宗が死去した後、落飾して天麟院と号した。
 松平忠輝は幼児の時から容貌魁偉で、家康に嫌われ、剛毅な性格で粗暴な振る舞いが多かったと伝えられている。大坂夏の陣に遅参し、軍功もあげられなかったことが改易の理由とされているが、はっきりしていない。岳父である伊達政宗を徳川将軍家が警戒していたから、という説もある。松平忠輝については、隆慶一郎の最後の長編小説『捨て童子・松平忠輝』を一読されることをお勧めする。

注17 秀平=「秀平」は藤原秀衡のこと。起請文は、神仏に誓いを立て、自分の行為・言説に偽りのない旨を記した文書。

注18 慈学大師=慈覚大師の誤記。平安初期の天台座主、円仁のこと。最澄に師事して、唐で天台密教を学び、比叡山興隆の基礎を築いた。
 
注19 五地ノ如来=「五地ノ如来」は、五智如来が正しい。密教で五智のおのおのを成就した五如来――大日(だいにち)、阿?(あしゅく)、宝生(ほうしょう)、阿弥陀(あみだ)、不空成就(ふくうじょうじゅ)を言う。

注20 雄島=「おじま」と読む。JR仙石線・松島海岸駅からすぐ南にある小島。現在は橋で渡ることができる。慈覚大師が天台宗延福寺(現在の瑞巌寺)を創建した後、僧侶などの修行場となり、仏像などが彫られた岩窟がある。雄島は歌枕であり、西行や芭蕉など文人墨客が多数訪れている。
松島や雄島の磯にあさりせし海人(あま)の袖こそかくは濡れしか 源重之(後拾遺集)
歌枕は都の歌人にとっては知識としてあるだけだが、清和天皇のひ孫である源重之は実際に雄島を訪ねてこの歌を詠んだ。しかし、彼は都に帰ることなく陸奥の地で没した。重之の歌を本歌として、百人一首にもある殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)の歌が詠まれた。
見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず(千載集)

注21 芭蕉翁の碑「朝よさをただ松島の片こころ」=『奥のほそみち』の旅より前の延宝4年(1676)に建立された句碑。山本健吉の『芭蕉全発句』(川出書房新社)では、この句を「朝よさを誰(たれ)まつしまぞ片ごころ」としていて、五郎兵衛は「たれ」を「ただ」と誤記しているほかにいくつか相違がある。「朝に夕に誰を待つのか片思いのように」というような意味合いだが、「待つ」と「松」を掛けて歌枕の「松島」を詠み込んだだけの句。山本健吉は、芭蕉の弟子である服部土芳が編纂した『蕉翁句集』の貞享5年(1688)の作品の最後にあるこの句を「この年の句ではないであろう」、つまりもっと前に作られたと推測している。そして、やはり芭蕉の弟子の八十村路通が、芭蕉一門の俳句を選んだ「桃舐集」(ももねぶりしゅう)にある「鼻紙のはしにかかれし句を、むなしく捨てがたく」という一文を引用して、「残すつもりもなかった芭蕉の駄句が弟子たちの手で残され、いろいろ理屈をつけられた一例」と、厳しく批評している。だいいち、この句には季語がない。そんな駄句でも、芭蕉の作品だというだけでありがたがり、松島の雄島に碑を建てた人がいたのだ。

注22 福浦島=五大堂の東、3百メートルの沖合に浮かぶ島。現在はここも船ではなく、福浦橋で渡ることができる。東北地方では珍しい温暖地域の植物が多く、宮城県立自然公園に指定されている。かつては海岸の塩田の守護神として政宗が建てた弁才天が、昭和32年に移築されているが、五郎兵衛が書いている「庵」、「弁慶の不動尊」などは所在がわからない。
なお、福浦島には弥生時代初期の貝塚がある。実は松島湾一帯には縄文時代からの貝塚が、主なものだけでも60か所以上発見されていて、考古学の世界では重要な地域だ。

注23 洞水和尚=瑞巌寺100世の住職。松島町富山の大仰寺(注9)、瑞巌寺の南隣にある円通院(注14)は洞水和尚の開山。

注24 塩竃=塩竃市(鉄道の駅名などは塩釜と書くが、塩竃市の正式表記はこの字)。松島湾が最も奥深く湾入したのが塩竃湾で、松島湾を含めた一帯を「塩竃の浦」、別名「千賀の浦」とも呼んだ歌枕の地。最初にこの地が詠まれたのは、『古今集』東歌の「陸奥はいづくにはあれど塩釜の浦漕ぐ舟の綱手かなしも」である。しかし、塩竃を有名にしたのは、左大臣源融(みなもとのとおる)が京の六条河原に豪壮な邸宅を建て、そこの塩竃の浦の景色を再現したという広大な庭を造ったのが都の人たちに大評判となったためだ。それで源融は河原の左大臣と呼ばれた。
塩竃は、古代は陸奥国府・多賀城の海の玄関口として、江戸時代は奥州一宮・塩竃神社の門前町として栄えた。確かに大きな町だが、五郎兵衛が「家が数千軒」と書いているのは多すぎる。五郎兵衛より少し後の天保12年(1841)に塩竃を通った江戸の落語家、2代目船遊亭扇橋の旅日記『奥のしをり』(加藤貞仁現代語訳、無明舎出版)には、塩竃を「家の数二百四、五十軒」とある。それでも仙台藩領有数の都市で、ここには同藩で唯一、遊女屋が公認されていたから、仙台辺りから遊山に訪れる人も多かった。

注25 右側は香取大明神、左側は鹿嶋大明神=塩竃神社は9世紀初めの記録が最古で、五郎兵衛のいう、神話時代の第2代綏靖天皇が開いたというのは、あまりにも古すぎる。江戸時代は、そういう言い伝えがあったのかもしれない。祭神は香取神宮(千葉県香取市)に祀られる経津主神(フツヌシノカミ)と、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)に祀られる武甕槌神(タケミカヅチノカミ)。

注26 真言宗法蓮寺=塩竃神社の別当寺。天正年間(1573〜92)に創建され、神社の裏参道一帯に12の支院を持って、社務のすべてを支配した。しかし、江戸時代末期に焼失し、明治の廃仏毀釈で姿を消した。現在は書院だけが保存されている。

注27 塩を煮詰める釜=塩竃神社の末社のひとつに、御釜社がある。祭神は、日本の製塩の元祖とされる塩土老翁(シオツチノオキナ)だ。「注25」の経津主神と武甕槌神の2神より、こちらの方が塩竃という名にふさわしい神様と言える。御釜社では、海水を煮詰めて塩を得る4つの釜を御神体としている。海水を入れる容器が「釜」で、その釜を据えた場所が「竃」である。御釜社では毎年7月の例祭で、「藻塩焼き」の神事を執り行っている。全国で唯一、奈良時代の製塩技術をそのままの形で伝える行事だ。

注28 八幡=「はちまん」ではなく「やわた」と読む。多賀城市のJR仙石線・多賀城駅の南を流れる砂押川を越えた一帯が、多賀城市八幡。

注29 阿部の宗任=「安倍」の誤記。安倍宗任(あべのむねとう)は、11世紀中期、陸奥守源頼義と争った前九年の役(その年次には諸説あり)で敗れた陸奥の豪族、安倍頼時の子で、貞任の弟。父と兄は戦死したが、宗任は源義家に降伏して、最初は伊予(愛媛県)に、次に筑前宗像(福岡県宗像市)に流罪となり、77歳で没した。この道中記の「宗任が待つ橋」(原文は「宗任待橋」)はどの橋かわからない。多賀城市内に入った野田の玉川に、西行の歌「踏まま憂き紅葉の錦散りしきて人も通はぬおもわくの橋」にちなむ「おもわくの橋」があるので、五郎兵衛が記した紅葉山は、あるいはこの辺りかもしれない。ただし西行の歌はここではなく、もっと南の岩沼から名取への道筋で詠まれた。「おもわくの橋」については、安倍宗任が捕虜となって都へ送られる時、彼の妻がこの橋まで追って来て別れの涙を流したという言い伝えもある。

注30 野田の玉川=歌枕。塩竃市から南へ流れ、多賀城市のJR仙石線・多賀城駅前、八幡橋付近で砂押川に流れ込む小さな川が「野田の玉川」とされている。能因法師の「夕されば汐風越してみちのくの野田の玉川千鳥なくなり」(新古今集)で、この歌枕が知られた。JR東北本線・塩釜駅の裏に、この歌碑があるが、その案内板には「野田の玉川はコンクリートの溝渠と化した」と書かれており、どこに川があるのかわからないのが現状。下流の多賀城市に入ると、能因法師当時の川は幅が10メートルほどあったと推測されるが、現在は両岸をコンクリートで固めて蛇行する川幅2メートルの人工河川に変貌している。

注31 沖ノ石=歌枕「沖ノ石」は、現在の多賀城市八幡2丁目にある。それが歌枕になったのは、二条院讃岐の「我が袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らぬ乾く間もなし」(千載集)によるが、「沖の石」とは潮が引いても姿を見せない沖合の石のことで、「その石のように誰も気がつかないけれど、あの人を思って涙にぬれる私の袖は乾く間もありません」という歌である。ところが多賀城市の「沖の石」は今、住宅街に囲まれた池の中にあるごつごつした岩だ。これは4代藩主伊達綱村の時代、仙台藩が古来の歌枕を「ここが、そうだ」と藩内各地に定めた中のひとつなのである。しかし海からはかなりの距離があり、五郎兵衛が「沖ノ石辺りは池になっていて潮の満ち引きがある。ちょうど潮の引きぎわが見えた」と書いていることには、首をかしげざるを得ない。

注32 末の松山=『古今集』東歌の「きみをおきてあだし心をわがもたば末の松山波も越えなむ」――「あなたがいるのに、もしほかの人に心を移すようなことがあれば、どんなに海が荒れても波が来ないという末の松山をさえ波が越すでしょう」、つまりそんなことはあり得ないという恋心の歌によってできた歌枕。しかし「末の松山」を有名にしたのは、清少納言の父である清原元輔(きよはらのもとすけ)の「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」(後拾遺集)のおかげだ。『古今集』を本歌とした清原元輔の歌は、百人一首にも選ばれている。
現在の多賀城市八幡2丁目の宝国寺裏の高台が、その「末の松山」とされている。臨済宗の寺院である宝国寺の山号は、末松山という。ここを歌枕の地としたのも、伊達綱村の時代の仙台藩だ。この山を南に下って行くと、歌枕「沖の石」がある。

注33 市川村=多賀城市市川。奈良時代の陸奥国府である多賀城跡がある。昭和38年から始まった発掘調査で、多賀城は軍事拠点ではなく行政府だったことがわかっている。多賀城跡は国の特別史跡。

注34 つぼの石碑=つぼの石碑(いしぶみ)は、わけのわからない歌枕だ。これを有名にしたのは、西行の「陸奥(みちのく)の奥ゆかしくぞおもほゆる壺の碑(いしぶみ)外の濱風」(山家集)だ。「広いみちのくをもっと知りたいものだ。たとえば壺のいしぶみとか外の浜風とか」というような意味の歌で、「外の浜」というのは青森県の陸奥湾に面した津軽半島東海岸一帯のことだ。しかし一方の「壺のいしぶみ」は、平安時代の学者、顕昭が書いた研究書『袖中抄』に、「陸奥の奥につぼのいしぶみがあって、征夷代将軍坂上田村麻呂が陸奥に遠征した時、弓の端で石の表面に日本の中央と書いた」というのが唯一の手がかりだ。それは「つぼ」という地名の場所にあるという。『袖中抄』は、『万葉集』以来の歌集に出て来る難解な言葉の解説書。つまり、すでに平安時代に「壺のいしぶみ」は解説を必要とする言葉となっていた。
ところが、万治・寛文(1658〜1673)の頃、多賀城跡の南側の丘陵から、巨大な石碑が発見された。これを「壺のいしぶみ」と考えたのは、水戸光圀だという。芭蕉が『奥のほそみち』の旅でここを訪れたのは、石碑発見から間もない頃で、興味津々だった芭蕉は碑文を書き写しただけでなく、石碑の寸法まで書き留めている。しかし石碑に刻まれていたのは、奈良の都や常陸、下野などからの距離、築城者と建設年、それを修復した人の名前など、明らかに古代の多賀城の記録である。それで現在、この石碑は「多賀城碑」と呼ばれて保存されている。
では、歌枕の「壺のいしぶみ」はどこにあるのか。意外なことに、昭和24年、青森県上北郡東北町の石文という集落で「日本中央」と書かれた、高さ1・5メートルほどの自然石が見つかった。天間林(てんまばやし)村の隣接地は「坪」と言い、この辺りは古代、「都母」(つぼ)と呼ばれていた。坂上田村麻呂の後任、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が弘仁2年(811)、「都母村に進撃した」との記録があり、「日本中央」と書いたのはこの人らしい。東北町ではこの石を町の有形文化財に指定し、「日本中央の碑歴史公園」内に「つぼのいしぶみ保存館」を建てて公開している。公園には、戦後に活躍した歌人、近藤好美の「日本中央とみちのくに碑を残す壺の石ぶみ何かを知らず」の歌碑もある。いずれにしろ、多賀城碑よりはこちらの方が、西行が「見たいが見に行けない」と詠じた「壺のいしぶみ」らしく思われる。

注35 今市村、轟の橋=今市は、仙台城下から金華山へ向かう金華山街道(別名松原街道)の宿場。松島から仙台城下へ向かう五郎兵衛の道順では、塩竃の次の宿場になる。現在の住居表示では仙台市宮城野区岩切今市で、県道の「今市東交差点」などに「今市」が表示されている。
そこにある「轟の橋」は、平安の女流歌人、相模の「あやうしと見ゆるとだえの丸木橋まつほどかかるもの思ふらん」(後拾遺集)により、「とだえの橋」という歌枕になったが、現地の人たちは「轟の橋」と呼んでいたそうだ。研究者によると、現在の多賀城市と宮城郡利府町に近い仙台市宮城野区を流れる七北田(ななきた)川にかかる「今市橋」が、かつての「轟の橋」(とだえの橋)だという。

注36 原町=「はらのまち」。仙台城下からの金華山街道で最初の宿場。仙台市宮城野区。

注37 宮城野萩=JR仙台駅から東に位置する仙台市宮城野区は広い平野で、古くから宮城野と呼ばれた歌枕の地だ。その最初は『古今集』の2首の歌である。
宮城野のもとあらの小萩露を重み風を待つごと君をこそ待て(よみ人知らず)
みさぶらひ御笠と申せ宮城野の木の下露は雨にまされり(東歌)
「宮城野と言えば萩」と言われるほど萩が群生していたが、ほかにも各種の草花が原野をいろどり、仙台藩では世話役を配置して自然の保護に努めていた。それは、ここが古代から多賀城へ向かう交通の要衝だったからでもある。ついでに言うと、歌枕がそのまま県名になったのは、宮城県だけだ。
付け加えると、「ミヤギノハギ」は園芸品種にある。野草である「ヤマハギ」の花は秋が盛りだが、「ミヤギノハギ」は別名を夏萩といい、夏のうちから美しい紅紫色の花を咲かせる。

注38 釈迦堂、桜の馬場=仙台藩4代藩主、伊達綱村が元禄8年(1695)、生母の三沢初子を追善するため宮城野原を望む榴ヶ岡(つつじがおか)の丘陵に釈迦堂を建てると同時に、南側の隣接地に馬場と弓場を設けた。その際、周囲に枝垂桜、松、楓など千本を植樹し、馬場は「桜の馬場」と称されるようになった。
馬場は明治35年(1902)、宮城県が榴ヶ岡公園として整備し、枝垂桜を中心に4百本近い桜の木が植えられた。この桜並木の中には綱村の時代の白や薄紅色の枝垂桜も残っていて、「仙台枝垂桜」とも呼ばれている。一方の釈迦堂は昭和42年(1967)、ここに宮城県立図書館を建設するため、初子の菩提寺である日蓮宗孝勝寺(仙台市宮城野区榴岡4丁目)境内に移築された。
補足すると、三沢初子は3代藩主綱宗の側室。21歳の綱宗が不行跡を理由に幕府から隠居を命じられ、初子の産んだ亀千代がわずか2歳で跡目を継いだ。それが4代綱村だが、この幼君の後見役となった伊達兵部宗勝が藩主をないがしろにし、藩政を私物化し始めたことから、家臣団が対立するお家騒動に発展した。それが歌舞伎で知られる伊達騒動だ。一説には、伊達兵部は仙台藩を押領しようとしたとも言われている。

注39 仙台城下の国分町=奥州街道と金華山街道が合流する宿駅。JR仙台駅から青葉通りを進むと、繁華街の一角に国分町(1〜3丁目)がある(仙台市役所は国分町3丁目)。五郎兵衛たち伊勢詣での一行が松島、塩竃からたどった街道の終着点で、大幡屋に3泊した五郎兵衛一行はこの後、奥州街道を南下することになる。

注40 東照宮=慶安2年(1649)から5年の歳月をかけて仙台藩2代藩主、伊達忠宗が建立した。寛永14年(1637)、仙台は大水害に見舞われ、その復旧のために幕府から銀5千貫を借り受けたお礼として、徳川家康を祀る東照宮の建立を願い出た経緯がある。仙台市青葉区東照宮1丁目(JR仙山線東照宮駅から徒歩2分)にあるが、ここは、天正19年(1591)の葛西・大崎大一揆の際、督戦に来た徳川家康がその帰途、伊達政宗の案内で宿陣した場所だという。参道の石鳥居、華麗な唐門、荘重な造りの本殿は国の重要文化財。

注41 八幡宮=仙台城(青葉城)の西には伊達政宗が崇拝したという亀岡八幡神社(江戸時代の社殿は太平洋戦争の空襲で焼失)もあるが、東照宮からお城までの道順を考えると、現在の仙台市青葉区八幡4丁目にある大崎八幡神社と思われる。岩出山から仙台に移ることになった伊達政宗は、城下の鎮護として慶長9年(1604)から3年をかけて大崎八幡神社を建てた。桃山文化の粋を凝らした社殿は国宝。五郎兵衛が「本殿回りの彫り物はけっこうなもので」と書いているように、見事な彫刻が随所に施されていて、棟札などの確証はないが左甚五郎の作もあるという。

注42 お城の大手門の前=JR仙台駅から青葉通りをそのまま進み、広瀬川に架かる大橋を渡って直進した坂の上に仙台城(青葉山に築かれたので青葉城という通称の方が親しまれている)の大手門があった。肥前(佐賀県)名護屋城の城門を、伊達政宗が豊臣秀吉からもらい受けて移築した、雄大で豪華絢爛な門だった。しかし、昭和20年7月の仙台空襲で焼失。現在は、門に付属した隅櫓だけが復元されている。他国人は橋を渡れないと五郎兵衛は書いているので、大橋の向こうの大手門前広場を見たのだろう。

注43 大念寺御霊屋=「大年寺」の誤記。明治初期まで仙台市太白区茂ヶ崎1丁目にあった黄檗宗の寺院。伊達氏は代々、臨済宗を信奉していたが、4代藩主綱村は黄檗宗に帰依し、元禄8年(1695)から2年をかけて、広瀬川を見下ろす茂ヶ崎山に大年寺の大伽藍を建立した。以後、多くの藩主が大年寺を菩提寺としたが、明治になって伊達氏が神道に変わったため庇護を失った大年寺は衰退した。しかし、土塁に囲まれた墓域「無尽灯廟」(奥の御廟)は、今も残っている(ただし墓域に入ることはできない)。整然と並ぶ墓石の中央が綱村の墓だ。その左側には5代吉村夫妻、12代斉邦(なりくに)夫妻、右側には10代斉宗(なりむね)夫妻の墓が並んでいる。5代吉村は、奥方の墓を隣に置いた最初の藩主で、以後、伊達家当主は代々、夫婦墓が慣例となった。この山には、6代宗村夫妻や、幕末の13代慶邦(よしくに)夫妻らの墓が並ぶ「宝華林廟」もある。
ところで仙台藩初代政宗には瑞宝殿、2代忠宗には感仙殿、3代綱宗には善応殿と、それぞれ豪華絢爛な御霊屋がある。これは、広瀬川を隔てて青葉城と向かい合う経ヶ峰丘陵にあり、仙台空襲で焼失したが再建され、現在は経ヶ峰歴史公園として整備されている。ところが大年寺を建立した4代綱村は、「霊屋は造らず、墓石だけにせよ」と遺言した。歴代に御霊屋を建てたのでは藩財政がもたない、との配慮からだった。だから五郎兵衛が「大念寺御霊屋」と書いているのは間違いだ。伊達家の墓所に他国人が近づくことはできなかったはずだから、五郎兵衛は墓所の話を聞いて、多くの大名と同じように霊屋があると想像したのだろう。

注44 愛宕山=愛宕山は仙台市太白区向山4丁目、広瀬川右岸にある標高88メートル前後の小山で、城下を眺めるには絶好の場所。

注45 長町=仙台の国分町から南下する奥州街道の、最初の宿場。広瀬川に架かる広瀬橋を渡ればすぐで、五郎兵衛が「城下からの町続き」と書いているように、繁華な宿場だった。現在の仙台市太白区長町。

注46 中田=長町から南下し、名取川を越えた奥州街道の宿場。仙台市太白区中田町。

注47 増田=中田の次の奥州街道の宿場。宮城県名取市増田で、市役所がある。

注48 岩沼=岩沼市。奥州街道と江戸浜街道(太平洋岸を通る、別名岩城相馬街道)の合流する宿場。現在も国道4号と6号の合流点であり、JR東北本線と常磐線が合流する交通の要衝であり、仙台空港は岩沼市と名取市にまたがっている。また、福島県中央部を流れ下る阿武隈川が太平洋に出る直前の左岸に位置し、江戸時代は舟運でも栄えた。岩沼の中心部の町並みには今も、随所に宿場の往時を彷彿とさせる建物が残っている。

注49 正一位竹駒明神宮、二木(ふたぎ)の松=竹駒神社は平安時代初期、陸奥国府鎮護のために創建されたという古社。日本三稲荷のひとつとされる。五郎兵衛たちは、仙台藩5代藩主、伊達吉村が造営した社殿を参拝したはずだが、拝殿・幣殿・本殿が一体となっていたこの社殿は平成2年(1990)、過激派の放火で焼失した。平成5年に再建された武隈神社は、農業の神様として信仰されている。
JR岩沼駅を出て右折し、5百メートルほど行くと武隈神社だが、その手前に「二木の松史跡公園」があり、幹が根元から2本に分かれた松の木がある。その姿から「二木の松」と言われるのだが、岩沼地方が古くは武隈(たけくま)の里と呼ばれたことから、この木は「武隈の松」という歌枕になっている。が、その珍しい姿が注目されたのではない。
最初の歌は藤原元善(もとよし)の「うゑし時ちぎりやしけむたけくまの松をふたたびあひ見つるかな」(後撰集)で、「私がこの松を植えた時約束したように、武隈の松に再び会うことのできたうれしさよ」という意味だ。陸奥守となった元善は、ここに珍しい姿の松があると聞いていたのに、来てみたら松の木が枯れていたので、新しい松を植樹した。その後、元善は再び陸奥守に任じられて陸奥国府(多賀城)へ下って来た時、自分が植えた松に再会することができたのである。つまり、この歌の松は2代目の「二木の松」だった。ところが能因法師は「後拾遺集」で、この松は跡形もないと詠っている。元善の2代目の松は野火で焼けたという。それで源満仲が3代目を植え、さらに橘道貞が4代目を植えた。しかし4代目の松の木は名取川に橋を架ける時にその木材として切り倒され、西行が文治2年(1186)にこの地を通った時には「松なき宿の武隈は」(山家集)と詠んでいる。それから165年後、南朝の年号である正平6年(1351)に「武隈の松」の記録があるので、誰かが5代目を植えたことがわかる。芭蕉が『奥のほそみち』で「桜より松は二木(ふたき)を三月(みつき)越し」と詠んだのは、この南北朝時代に植えた松だった。「二木の松史跡公園」には、芭蕉のこの句碑がある。
と、ここまで長々と紹介して来たように「武隈の松」はその姿ではなく、「代々植え継がれて来た松」と詠まれた歌枕なのである。そして、芭蕉来訪の少し後、また松の木は枯れた。それで仙台藩7代藩主、伊達重村の命で6代目が植えられた。天明3年(1783)の伊勢参りで、五郎兵衛たちが見た「二木の松」は、この6代目である。
ところが話はそれで終わらない。6代目は幕末の文久2年(1862)、強風で倒れてしまった。それで岩沼の呉服屋、作間屋万吉が7代目を植えた。それが現在の史跡公園にある「二木の松」だ。

注50 槻ノ木=柴田郡柴田町槻木。奥州街道の宿場。JR東北本線・槻木駅がある。鉄道は南下して白石川を越えるが、奥州街道は川の左岸を西へ進む。

注51 船迫=「ふなはざま」は、現在の柴田町西船迫と本船迫にまたがる奥州街道の宿場。白石川対岸の船岡に柴田町役場があり、役場の西の小高い山には鎌倉時代から城があった。江戸時代は仙台平野への入口を守る船岡要害と呼ばれ、仙台藩の重臣が所領した。
伊達騒動の歌舞伎で悪役とされる原田甲斐宗資(むねすけ)は寛文11年(1671)3月、伊達騒動の尋問が行われた幕府大老酒井忠清の江戸屋敷で、当時の藩政を牛耳っていた伊達兵部の「悪行」を幕府に訴えた伊達安芸を切り殺し、自らも居合わせた人たちに切られて死んだが、この事件の時、原田甲斐は船岡領主だった。

注52 大川原=大河原が正しい。奥州街道の宿場。現在の柴田郡大河原町中心部。大河原町から柴田町へかけての白石川両岸には今、約8キロにわたって桜並木があり、「一目千本桜」と呼ばれて、すぐわきを通る東北本線の列車はその季節になると、スピードを落として通過する。

注53 金か瀬=奥州街道の宿場。柴田郡大河原町金ケ瀬。宿場の西端に、式内社・大高山神社がある。

注54 ミや=「ミや」は刈田郡蔵王町宮。奥州街道の宿場。奥羽山脈の笹谷峠を越えて山形へ至る笹谷街道の分岐点だった。現在はこのルートにほぼ重なるように高速道路の東北自動車道・山形自動車道が通っている。

注55 白石=白石市。片倉小十郎家、1万8千石の城下町であり、奥州街道の宿場だった。白石城は、仙台藩内で仙台城以外に唯一、「城」として認められていて、幕府からも片倉家は「城主」として扱われていた。戊辰戦争に際しては、奥羽諸藩の代表が白石城に集まり、後の奥羽列藩同盟につながった歴史の舞台でもある。

注56 才川=白石市斎川。奥州街道の宿場。宿の南端の田村神社には、源義経の忠臣、佐藤継信・忠信兄弟の妻の、武者姿の木像を納める甲冑堂という六角堂がある。戦死した佐藤兄弟の母が嘆き悲しむのを、妻たちが亡夫の甲冑を着て慰めたという伝承にちなむ。甲冑堂も木像も明治初期に焼失したが、その後再建された。

注57 越河=「こすごう」と読む。白石市越河。奥州街道で仙台藩南端の宿場町であり、藩境の番所があった。仙台藩では「境目足軽」を配置して、人や荷物の往来を検閲し、藩主の参勤交代の時は重臣がここまで送り迎えしていたという。

注58 あぶみ坂=斎川宿の南はずれにある坂。源義経が馬で通った時、鐙(あぶみ)を山肌にこすりながら通過したという狭い道だった。「奥のほそみち」には「鐙摺」と書いてある。


≪解説≫
 宮城県内の五郎兵衛一行の足跡は、おおよそ芭蕉の『奥のほそみち』を逆にたどっている。五郎兵衛の懐中に『奥のほそみち』があったのではないか、と思わせるほどだ。そして芭蕉に負けないくらい「歌枕」に詳しい。
 日本文学の研究者、ドナルド・キーンは芭蕉を論じた『百代の過客』(朝日選書)の中で「彼の旅のおもなる目的は、過去の歌人に霊感を与えた土地をおとなうことによって、己の芸術に、新しい風を入れることであったように思われる」と、『奥のほそみち』が歌枕を訪ねる旅だったことを強調している。五郎兵衛にも同じ気持ちがあったのだろう。
 鳴子から岩出山への途中、「美豆の小島」で五郎兵衛が詠んだ句「霞せず見つか小島や松の景」(保紅)によって、芭蕉の時代にあった松の木を五郎兵衛も見たことがわかる。この松の木は明治43年(1910)に流出して景色が一変し、地元の人たちでさえつい最近まで、ここが歌枕の地であることを忘れていたくらいだから、歌枕と同じ景色を書き残した五郎兵衛の句は貴重な記録だと言える。
 松島での五郎兵衛の句「松島や笑いこらえへし春の雨」(保紅)も、『奥のほそみち』を踏まえている。芭蕉はこの旅の最北の地となった象潟(秋田県にかほ市)の下りで「松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし」と書いている。だから五郎兵衛は「松島」と「笑い」を詠み込んだのだ。
 同じ松島での「松島や長閑(のどか)な波に遊ぶ船」(保紅)は句意明瞭で、説明は不要だろう。「長閑」が春の季語であることだけ補記しておく。
 それにしても、宮城県内の歌枕は非常に多い。これは古代の陸奥国府、多賀城があったために都との人の往来が頻繁だったことと、仙台藩が積極的に歌枕の地を探し出したからだろう。五郎兵衛の道中記には登場しない歌枕もたくさんある。
 歌枕に加えて、五郎兵衛は街道の宿場名と、その間の距離をきちんと書き留めている。それは、自分たちの後に同じ道筋をたどる人々への配慮だ。江戸時代の旅日記に、おおむね共通することでもある。その宿場町は、後世発展した所もあれば、衰退した町並みもある。それが今、どうなっているかを知りたい方は『奥州街道 歴史探訪・全宿場ガイド』(無明舎出版編)と、『東北の街道 道の文化史いまむかし』(渡辺信夫監修、無明舎出版)を座右に置くことをお勧めしたい。


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