道中心得ノ事
 一つ 朝は早くに宿を出立し、泊まる宿に早く着くようにしなければならない。あまりに大きな宿はよろしくないものだ。物事に不自由することがある。
 一つ 宿の客引きには、何も約束してはならない。それで後悔することがある。
 一つ 同じ宿に泊まり合わせた者に、油断するな。
 一つ 泊まる宿は、その前に泊まった宿で、評判をよく聞いてから決めるべし。
 一つ 旅の途中では、知らない人に薬を与えてはいけないし、薬をもらってもいけない。
 一つ くたびれたからと言って、船に乗ってはいけない。もし乗るのなら、よくよく空模様を確かめてからにすべし。
 一つ 旅をするうちは、十分足をいたわってやらねばならない。吐き気や咳を止め、熱を取る粒半夏(つぶはんげ、カラスビシャクという植物)の粉を携行し、こまめに、早めに灸をすえ、気を付けてワラジをしょっちゅうこしらえるべし。
 一つ 難所の山、あるいは砂浜の距離を調べ、道のりが遠い場合は必ず馬か、駕籠(かご)に乗った方が良い。
 一つ 何事も、道中は油断してはいけない。どこかを見物する際には気を付けることが第一である。

                道中記 
 三月五日出立。町の人々がたくさん見送ってくれた。
                              太々講中

≪解説≫
 道中記の最初は「道中心得ノ事」。9か条に及ぶ「旅の注意点」である。半年以上に及ぶ旅から帰国した五郎兵衛が、後進のために「反省点」をまとめたものだろう。
 江戸時代の旅については、『旅行用心集』(八隅蘆菴著、文化7年=1810、現代語訳は八坂書房刊)など、旅行中の注意を喚起する本が何冊か出版されているが、五郎兵衛のこの「道中心得ノ事」はその先駆と言ってよい。その意味でも、貴重な史料と言えるだろう。
 ◇朝は早く宿を出て、次の宿泊地に早く着くようにする=これは夜道を避けるためだ。『旅行用心集』でも、「熊や狼などのけものに出合うのは、決まって夜道だ」と注意している。それに途中でどんな不測の事態が起きるかわからないから、道中にゆとりを持つためにも早立ちが肝心なのである。
 『旅行用心集』では、夜のうちに荷造りし、朝は自分で早起きして、「草鞋さえ履けばいいまでに身支度してから朝食を食べればよい」と、懇切丁寧に注意している。
 ただし五郎兵衛が「あまりに大きな宿はよくない。物事に不自由することがある」と言うの理由は、具体的にはよくわからない。『旅行用心集』では「なるべく造りが立派でにぎやかな宿に泊まるのがよい。少しばかり値段が高くとも、それなりにいいことがあるものだ」と、五郎兵衛とは相反する意見を述べている。
 次の「客引き」への注意は、現代にも通じるだろう。繁華街の飲食店の呼び込みの甘言に乗せられて入店し、法外な料金を請求されるようなことはしばしば耳にすることだ。
 次は、同宿する人たちへの用心。江戸時代の宿は部屋に鍵などないし、見知らぬ人と相部屋になることもよくあったから、同宿人に用心することは当たり前である。泥棒がいるかもしれないし、荷物を取り違えてトラブルになることもあっただろう。
 次の宿は、出発前に評判を聞いておくのがいいと言う。隣り合った宿場町では、お互いに宿の評判は通じているからだ。
 次の「薬のやりとり」については、『旅行用心集』でもことこまかに注意していて、薬がもし必要になったら薬屋で調合してもらえと言っている。同じ宿屋に泊まった客が「これは妙薬」と売りつけようとすることもあったようだ。
 乗ってはいけないという船は、川の渡し舟ではなく、ある程度の距離の海を走る船のことだ。天候が急変して難破する心配があった。
 江戸時代の旅は、基本的には徒歩だったので、足をいたわることは最も大事な注意点だろう。特に旅の初めのころは気がはやって頑張りたくなるもので、足を痛めやすい。草鞋は何足も用意して、履く前にたたいて柔らかくし、履く際にはきつすぎず、逆に緩すぎないよう緒を調節する。それでも一日歩けば足がくたびれる。宿に着いたら、ひざ下の「三里」というツボや、ふくらはぎなどに灸をすえると痛みが取れるそうだ。
 ここで携行薬として推奨されているカラスビシャク(文中では粒半夏)は、サトイモ科の草で、田畑に生えると駆除しにくい雑草だ。根元に小さな球茎ができ、これが妊娠時のつわりの妙薬とされていたという。この「道中記」では「吐き気や咳を止め、熱を取る」と書いているから、効能の多い薬だったのだろう。
 「道のりが遠い場合は必ず馬か、駕籠」というのも、次の「何事も、道中は油断してはいけない」というのも、よくわかる「旅の心得」だ。

◇「太々講中」について
末尾の「太々講中」の「太々」は、伊勢神宮に奉納する太々神楽(だいだいかぐら)のこと。通常、一般的な参詣人が奉納するのは太神楽だが、特別に大がかりな神楽を「太々神楽」という。つまり、現代の伊勢参りのように「二礼二拍手一礼」でおしまいではなく、江戸時代に遠くから伊勢神宮に詣でる人たちは、神楽を奉納して初めてお参りが完了したのだ。
これには費用もかさむので、多額の資金を積み立てなければならない。そのために結成した仲間組織が「講中」だ。仲間内で参宮の順番を決めておくか、くじ引きで決めて旅に出る。この「道中記」には実際、驚くほどの高額な金を払ったことが記録されている。


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