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「秋田風俗問状答」翻刻版の不思議

 最近、無明舎出版のあんばいさんからの依頼で、『翻刻ほんこく・現代語訳 秋田風俗問状答』を上梓することができた。当初は、細かい注釈は一般の読者にとってはじゃまになるものと考えてつけないつもりであったが、現代語訳していくと、どうしても語句そのものを生かさなければ、原文のニュアンスが伝わらず、かといってそのままでは意味がよくわからないところがあって、結局注を加えることになった。レイアウトの関係で、文字が小さく読みづらくなってしまったのではないかと思う。
 さて、依頼をいただいたことは光栄であったが、とくにこのことについて詳しく研究したことがなく、また民俗学的なことは素人同然であったから、当初解題は、内容を簡単に解説した程度の、通り一遍のものになるはずだった。この時点で、私の手元にあった諸本は、秋田県公文書館所蔵のもの(秋田県立秋田図書館旧蔵)、大館市立中央図書館の真崎文庫本、そしてあんばいさんから渡された内閣文庫本(乾・坤からなる2冊本)の3点だった。ところが、調べていくと内閣文庫には附図1冊を含む5冊本があることがわかった。私はこれを見ていなかった。しかし、私は週3日仕事をもっており、また能代市史の仕事もあったので、当初はこれを見ることは諦めていた。というよりも、内容はほとんどかわらないものと安易に考えていたのである。
 ところが、翻刻・現代語訳を終えて解題も書き、あんばいさんからの了解を得た後、妙にこの5冊本が気になりだした(以下、便宜上、2冊本の方をA、5冊本の方をBと表記していく)。というのは、「秋田風俗問状答」の編者とされる那珂通博の跋文(あとがき)があるのは、このBだけだからである。これを見ないで解題を書くのは、嘘を書くわけではないにしても、なにか誠意に欠けることのように思えたのである。第1回目の校正原稿を読んでいて、その思いはますます強まった。そこで、思い切って現物を見に行くことにした。内閣文庫は、現在国立公文書館にあり、建物は竹橋にある。現物をみないことにはなんともいえないが、通常であれば1日で作業(写真撮影)は終わるはずである。上京した日は懐かしい高田馬場のホテルで一泊し、その界隈で一杯やり、次の日朝一番で公文書館に入り、作業を終えて"こまち"で帰ることにして出かけた。その結果、このBだけが、他の諸本と異なるところが多いことがわかった。しかし、すでに校正段階に入っていたから、全面的な書直しはできない。ページ数を増やさないという条件で、一節だけ全面的に書き直したのが、このたびの拙著の巻頭に載っている解題である。
 というわけで、もっと書かなければならないことがあったのだが、最低限のところで収めてある。要は、多く流布している諸本や写本と比較すると、表現方法がBのみ著しく異なるのである。その要点は、拙著の解題に記した。ここでは、違った観点から問題点を指摘したい。AとBの最も違う点は、「三月 雛祭の事」という項目の、能代における「傾城けいせい調べ」という部分の記述である。この部分を以下にあげて比較してみよう。
 まずAから(カタカナの部分はひらがなにかえ、濁点を補う)。
  
  この日能代の津の傾城年礼にあるくなり、是は此津の飯盛ともは、九月の節句までにてそれより引こもり居、この日より出ることに候[来舶のために置く事故舟間は禁る也]。柳町とてこれらの居る町を年礼つとむるにて候。四日には傾城しらべとて住吉の社の境内にある長床とて、池に臨みし広らかなる亭へ町々の庄屋・町役人も出て、遊女どもこゝはれと出たち居、こぼるゝまで集り、三弦ひきてうたふ。これを三役ふるまひとて酒肴を具す。そのうたふうたは、まがき・とつか・きゃらぶしとて三曲あり。
    声はすれども姿は見へぬ 籠の鳥やらうらめしや
    紅葉山にて鳴鹿よりも しつか心のうらめしや
    さえつおさへつうけさかつきに ともによろこぶふしもよし

次は、Bである。書出しはほとんどかわらない。「四日…」以降が異なる。

  四日には三役振舞とて住吉の社の境内にある長床とて池に臨みし広らかなる亭へ、庄屋・宿老・町代の三役出て酒肴を具す。遊女どもこゝはれと出たち居、こぼるゝまで集り、三弦ひきてうたふそのうた、とつか・まがき・いろかの三曲あり。
    四海なみ風おさまる御代は さゝれいはほにかめあそふ
    いつの月日に逢なれそめて 今はおもひの種とれる
    野こへ山こへ里うち過て 来るはたれゆへそさまゆへ
    紅葉山にてなく鹿よりも しつかこゝろのうらめしや
    逢た見たさはとびたつばかり 籠のとりやらうらめしや

 「傾城」というのは遊女のこと。能代の柳町やなぎまちは、同地で唯一遊女屋の経営が許されていたところで、天保13年(1842)年に能代を訪れた上方の落語家船遊亭扇橋は、8軒の遊女屋があり、三階造りの建物もあったと書いている(「奥のしをり」)。
ところで、現在流布している諸本は、管見の限りではすべてAの記載になっている。これまで「問状答」を翻刻した主な刊行本をあげると、
@ 田中俊次『風俗問状答』(大正13年−1924−、郷土趣味社)
A 中山太郎『校註諸国風俗問状答』(昭和17年−1942−、東洋堂)
B 『日本庶民生活史料集成』第9巻(1969年−昭和44−、三一書房)
C 『秋田叢書』第4巻(昭和5年−1930−、秋田叢書刊行会)
以上である。なお、『新秋田叢書』第4巻が所収する「問状答」はCを底本としたものである。さて、@は、柳田國男を含む複数の人の手を経た筆写本を底本としたもので、原本となる史料にはあたっていないようである。Aは、その解説のなかで、「幸ひ通博の自筆本〔本文四冊、外に附図一冊〕が内閣文庫本に存在するので、それを底本とする」とはっきり書いている。したがって、翻刻文の中には、那珂通博の「跋文」も載せている。Bは、平山敏治郎氏の解説であるが、「秋田図書館本により、内閣文庫本によって校訂増補した」とある。ここでいう「秋田図書館本」とは、現在県公文書館が所蔵するもので、那珂の跋文はない。ところが、Bには那珂の跋文が乗せられているから、「増補」というのがそれにあたるのだろう。Cは、底本を「秋田図書館本」としている。当然、那珂の跋文はない。
 さて、不思議なのは、筆写本を底本とした@、および「秋田図書館本」を底本としたCは別として、Bを底本としたAと、それによって「増補」したはずのBが、いずれも「雛祭」の項ではAの文をを載せているのである。繰り返すが、那珂の跋文は、Bにしか存在しない。同じ内閣文庫本でも、Aにはないのである。しかし、Bを底本として用いたのであれば、AもBも、「三月雛祭」にはBの文章が入っていなければおかしい。とくに、Aははっきり内閣文庫の5冊本を底本としたとしているのであるから、Bの文章が出てこなければおかしいのだが、Aの文章が入っている。Bにも問題はある。Bは、底本を「秋田図書館本」とし、内閣文庫本で補ったとしているので、那珂の跋文がそれにあたるのだな、と了解しかかるのだが、那珂の跋文を含む史料が内閣文庫本に存在しいるにもかかわらず、なぜ底本をわざわざ秋田図書館本にしたのだろうか。もしかすれば、秋田図書館本を底本としたとはしているものの、実際には原本を見ず、Cを「底本」としたのではないかと推測したくなる。
 ところが、このCも、問題なのである。それは、拙著の無明社版『秋田風俗問状答』の解題でふれているが、「秋田図書館本」(現県公文書館本)には、2か所、書写の際のミスと思われる誤記があるのである。Cは、この2か所の誤記を、内閣文庫にあわせて直しているのである。すると、Cも内閣文庫本にあたっていたはずであるが、跋文を載せず、また文もAとなっている。私は、Cが誤記を訂正する根拠としたのは、内閣文庫本の原本ではなく、Aではなかったかと推測する。すると、Aは、内閣文庫の5冊本を底本としたはずなのに、なぜ、「雛祭」の文章がAとなっているのか、という疑問がやはり最終的に残るのである。
 拙著の解題でふれたように、内閣文庫AとBの表現には、他にも違いが多い。私は、もっとも違いがわかりやすい「雛祭」の記載で確認しただけなのであるが、Aが本当に5冊本を底本としているのかどうかは、他の部分を比較すればなにかヒントが得られるかもしれない。まだそれをせず、とりあえず気になっていたことを書いてみた。