今回は、
地方知行の場合、原則として年貢収納の権利は給人が持つ。ただし、実際にはなかなか複雑で、秋田藩の場合、「 地方知行がなぜ問題になるかというと、幕藩体制という特徴的な封建制度の仕組みの中にあって、どのような意義をもつかということと関わるからである。たとえば、中央集権化という問題と関連させて考えてみればわかりやすい。もし大名が、一地域の中で中央集権的な支配を築こうとすれば、もっともよいのは、家臣と農地の関係を消滅させ、完全な官僚としてしまうことである。そして、すべての農地・農民を自己の直接支配のもとに置くことである。かつての研究も、そのような観点から行われた。つまり、近世大名(藩)のなかにみられる地方知行の存在は、中世的な、たとえば土豪と農民の関係を残したような過去の しかし、現在では、多少の見解の違いはあれ、地方知行制こそ、むしろ幕藩体制を特質づける要素だと考え、その意義を問い直す研究が多くなっている。私も、大分昔に「『郡方』支配考」(『秋大史学』)などという気取った題目の小論を書いてそうした観点に立った藩制史の構想を示していた。最近、秋田藩の地方知行制の開始はいつからかというような問題関心にたった文を読む機会があったが、こうした課題の設定はナンセンスであるように思われる。なぜならば、秋田藩は、いわゆる"征服軍"として出羽の地に移封されたのである。新しい領主を迎える地には、まだ完全に それでは、『秋田県史』はどのように説明しているかというと、 確かに、藩は、地方知行制における給人の勝手な支配を統制しようとする法令を頻繁に出しているし、寛政7年の郡奉行設置では、「これからは農村のことは、すべて郡奉行が行うから、給人は勝手なことはしないように」というような意味のことを言っている。また、この政策に対しては、いわゆる所預たちから批判が噴出したことをもって、そのねらいを地方知行制の形骸化にあったと説く人もいた(今もいる?)。しかし、「明君」論のところでも書いたように、所預や門閥大身などは、いわば小姑的存在であり、大きな変化を好まない。だから、郡奉行の設置で強い態度に出られると、まず反発するのが常である。それは、所預、あるいは門閥としてのアイデンティティを否定されたように感じるからである。実際には、年貢決定権(収納権ではない)は藩が握っていたし、所預の権限は、支配領域の警察権に限られていた。その警察権も、農民の生死にかかわるようなケースでは藩から検使が派遣されたし、農民同士の出入に関するようなことに口を出すことは制限されていた。実際、角館の所預である北家においても、密通現場で妻と同衾していた男をその場で殺害した夫に縄を打ち、久保田まで送り届けている。また、管轄区域内での芝居興行の許可なども、藩に対して伺いを立てている。重要事項の詮議は藩にあったのである。また河川普請や打ち直し検地などのような、より高次な権力の発動は藩が握っていた。むしろ、農民の撫育や普請の指導などを藩が行なってくれることは、農村を支えることになり、ひいては個々の給地を支えることになる。給人の恣意的な給地支配を制限しようとする法令にしても、要は、給人・農民の対立、矛盾の激化を抑えるためのものと考えればなんの問題もない。 それでは、地方知行制をとり続けることにどのような意義があったのか。それは、大きく言えば、家臣団の維持にあったと言わざるを得ない。藩は、財政難の対策として、延宝年間から絶え間なく また、いったん軍事動員が行われた場合、給地農民を人足などとして徴用することができた。 そのもっともよい例が、文化4年(1807)の箱館(函館)出兵である。ロシア人によるエトロフなどでの事件に対応するために秋田藩にも軍事動員がかかったのであるが、この時、実際に、給地百姓に対して給人が軍用金を賦課したり、人足を動員した例がみられる。もちろん、こうした軍役負担は、藩制初期に 以上のように、地方知行制は、秋田藩制が維持されていくうえで、必要不可欠なものであったし、藩もそれを全面的に否定したり、形骸化する意図などなかったと私は考える。ただ、必要以上の、給地百姓とのつながりと、給人による恣意的支配を制限しようとしたのである。地方知行制についての残された課題は、藩制成立期の給地のあり方が、確立期にかけてどのように変化していくか、具体的に言えば、一円的なものから分散化したものへどのようなかたちで移行していくかを具体的に明らかにすることだと思う。現実の知行宛行状や知行目録を見ると、1人の給人の知行地は複数におよび、そのうち1か所はある程度の石高でまとまっている(それでも1か村まるごとというのはない)が、他は本当にわずかな高の寄せ集めのようになっている。そこに、藩の一程度の政策の反映が読みとれると思うのだが、それがどのような方法でなされたのかを明らかにする必要があると思うのである。 |