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地方知行制について

 今回は、地方知行制じかたちぎょうせいについて書いてみたい。地方知行制とは、家臣団の給与を土地で支給する制度のことである。この家臣団に与えられた土地を給地きゅうちといい、その給地の所有者を給人きゅうにんという。これに対して、藩が直接支配する土地を蔵入地くらいれちという。秋田藩は、給地と蔵入地の割合が、だいたい7:3の割合であった。秋田藩に限らず、中央から比較的遠い地に領国を持つ旧族大名には、地方知行制をとる事例が多いといわれる。
地方知行の場合、原則として年貢収納の権利は給人が持つ。ただし、実際にはなかなか複雑で、秋田藩の場合、「相給あいきゅう」といって、一つの村に複数の家臣の知行地が混在しているのが一般的であった。逆に言えば、広い地域にわたって、あるいは一つの村を丸ごと一人の家臣が給地として持つということは、限られた大身の家臣しかなかった。たとえば、一門や引渡ひきわたし回座まわりざなどには、数千石の知行地を持つ者もいたが、多くの家臣は相給の状態にあった。
 地方知行がなぜ問題になるかというと、幕藩体制という特徴的な封建制度の仕組みの中にあって、どのような意義をもつかということと関わるからである。たとえば、中央集権化という問題と関連させて考えてみればわかりやすい。もし大名が、一地域の中で中央集権的な支配を築こうとすれば、もっともよいのは、家臣と農地の関係を消滅させ、完全な官僚としてしまうことである。そして、すべての農地・農民を自己の直接支配のもとに置くことである。かつての研究も、そのような観点から行われた。つまり、近世大名(藩)のなかにみられる地方知行の存在は、中世的な、たとえば土豪と農民の関係を残したような過去の残滓ざんしであり、それを払拭できない段階の藩は、まだ完全な藩体制を確立していないと考えた。だから、地方知行が、蔵米知行(藩が直接米で給与を与える)に変化していったり、地方知行が残っても、形だけのものであって、実質的支配権は失われた状態になることが、藩体制の確立だと考えられたのである。秋田藩に関する研究でもこうした考え方が強く、例えば昭和40年に刊行された『秋田県史・近世編』などはこうした視点を一貫させている。
 しかし、現在では、多少の見解の違いはあれ、地方知行制こそ、むしろ幕藩体制を特質づける要素だと考え、その意義を問い直す研究が多くなっている。私も、大分昔に「『郡方』支配考」(『秋大史学』)などという気取った題目の小論を書いてそうした観点に立った藩制史の構想を示していた。最近、秋田藩の地方知行制の開始はいつからかというような問題関心にたった文を読む機会があったが、こうした課題の設定はナンセンスであるように思われる。なぜならば、秋田藩は、いわゆる"征服軍"として出羽の地に移封されたのである。新しい領主を迎える地には、まだ完全に兵農分離へいのうぶんりしていない抵抗勢力が多く残存していた可能性があるわけで、新たにその地に領主として臨む立場からすれば、まず軍事的要所々々に家臣団を配置し、抵抗的な動きを封じ込める必要があるのであり、地方知行制以外取りうる方法はなかったのである。領内7か所に置かれた所預ところあずかりなどはその典型である。だから、いつ頃からこうした地方知行が形骸化していくのか、という問いならばありうるけれども、その逆の問題設定は意味がない。
 それでは、『秋田県史』はどのように説明しているかというと、享保きょうほう年間に家老今宮義透がその解消を図るがうまくいかず、寛政7年(1795)の郡奉行こおりぶぎょうの設置に至ってようやく、完成に近い形となった、というような説明になっている。いや、ちょっとまってほしい、というのが、先にあげた私の駄文であった。というのは、秋田藩制が開始されたのが出羽移封からだと解釈して1602年、その間200年近くもその問題に取り組んでいると考えるのはどうなんだろう、むしろ藩にとって、地方知行制はじゃまなものでもなんでもなくて、支配の障害となる部分があったとしても必要悪として認めざるを得ないものとして考えた方が合理的なのではないか、と思ったのである。要するに、藩制と地方知行を対立的にとらえる考え方に誤りがあるのではないか、というのが私の言い分であった。実際に、組代くみだいという百姓を通して給人が農民から年貢を取っている事実も明らかにされているし、第3回目でとりあげた「向高むけだか」にしても、給人の知行地に対する権利があればこそなしうる行為である。したがって、郡奉行設置以降も、実質的に地方知行制は存続したことは否定できない事実である。
 確かに、藩は、地方知行制における給人の勝手な支配を統制しようとする法令を頻繁に出しているし、寛政7年の郡奉行設置では、「これからは農村のことは、すべて郡奉行が行うから、給人は勝手なことはしないように」というような意味のことを言っている。また、この政策に対しては、いわゆる所預たちから批判が噴出したことをもって、そのねらいを地方知行制の形骸化にあったと説く人もいた(今もいる?)。しかし、「明君」論のところでも書いたように、所預や門閥大身などは、いわば小姑的存在であり、大きな変化を好まない。だから、郡奉行の設置で強い態度に出られると、まず反発するのが常である。それは、所預、あるいは門閥としてのアイデンティティを否定されたように感じるからである。実際には、年貢決定権(収納権ではない)は藩が握っていたし、所預の権限は、支配領域の警察権に限られていた。その警察権も、農民の生死にかかわるようなケースでは藩から検使が派遣されたし、農民同士の出入に関するようなことに口を出すことは制限されていた。実際、角館の所預である北家においても、密通現場で妻と同衾していた男をその場で殺害した夫に縄を打ち、久保田まで送り届けている。また、管轄区域内での芝居興行の許可なども、藩に対して伺いを立てている。重要事項の詮議は藩にあったのである。また河川普請や打ち直し検地などのような、より高次な権力の発動は藩が握っていた。むしろ、農民の撫育や普請の指導などを藩が行なってくれることは、農村を支えることになり、ひいては個々の給地を支えることになる。給人の恣意的な給地支配を制限しようとする法令にしても、要は、給人・農民の対立、矛盾の激化を抑えるためのものと考えればなんの問題もない。
 それでは、地方知行制をとり続けることにどのような意義があったのか。それは、大きく言えば、家臣団の維持にあったと言わざるを得ない。藩は、財政難の対策として、延宝年間から絶え間なく借知しゃくち政策(給人の知行を借り上げること)を取り続けた。借知とは、簡単に言えば給人の給与を削減することであり、その割合は、半知借上はんちかりあげといって5割、ひどいときには六四といって6割にもおよんだが、このような厳しい借知政策に耐えられたのは、地方知行制であったことが大きい。かりに、家臣団への給与がすべて蔵米で支給される体制であったなら、藩はこのような政策をとることはできなかっただろう。給料袋の中味が半減するようなものなのだから。地方知行制であることによって、給人は農民に対して、年貢の先納せんのう要求(何年も先の年貢を納めさせること)もできたし、借米もできた。
 また、いったん軍事動員が行われた場合、給地農民を人足などとして徴用することができた。
そのもっともよい例が、文化4年(1807)の箱館(函館)出兵である。ロシア人によるエトロフなどでの事件に対応するために秋田藩にも軍事動員がかかったのであるが、この時、実際に、給地百姓に対して給人が軍用金を賦課したり、人足を動員した例がみられる。もちろん、こうした軍役負担は、藩制初期に五斗米ごとまい代銀や小役銀などのように代納化されているから、藩はそのような農民使用を禁止しているが、現実には行われたし、それがなければ個々の給人も対応は不可能であったろう。藩の統制も、原則論をふまえ、給人がやりすぎないように、と釘をさしているものといってよい。
 以上のように、地方知行制は、秋田藩制が維持されていくうえで、必要不可欠なものであったし、藩もそれを全面的に否定したり、形骸化する意図などなかったと私は考える。ただ、必要以上の、給地百姓とのつながりと、給人による恣意的支配を制限しようとしたのである。地方知行制についての残された課題は、藩制成立期の給地のあり方が、確立期にかけてどのように変化していくか、具体的に言えば、一円的なものから分散化したものへどのようなかたちで移行していくかを具体的に明らかにすることだと思う。現実の知行宛行状や知行目録を見ると、1人の給人の知行地は複数におよび、そのうち1か所はある程度の石高でまとまっている(それでも1か村まるごとというのはない)が、他は本当にわずかな高の寄せ集めのようになっている。そこに、藩の一程度の政策の反映が読みとれると思うのだが、それがどのような方法でなされたのかを明らかにする必要があると思うのである。