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「御亀鑑」編さんの意義

 今回はもう一度「御亀鑑」の問題をとりあげたい。これまで、佐竹義和の人材登用策の意義を述べてきたが、そのことを確認したうえでこの問題を考え直してみたいと思う。
 義和は、文化12年(1815)7月に没した。40歳である。人材の育成には時間がかかる。ようやくその成果が見え始めてきた時といえる。この時、「国典類抄」の編さん事業が進められていが、まだ完成にいたっていなかった。「国典類抄」はよく"修史事業"といわれるが、この言葉は必ずしも史料の本質を言い当てているとは言えない。藩の編さん物でありながら、「国典類抄」のすごさは、徹底して実史料主義に徹しているところにある。これは、古記録の類さんというべきもので、「梅津政景日記」をはじめとして、500点以上におよぶ日記類を、「吉・凶・賓・嘉・軍・雑」の六項目にわけてそれぞれの記述を抜粋し、編集している。武家社会は、伝統を重視する社会であるから、先例が重要であった。その場合、それまでの記録類や日記を確認することは欠かすことができない。現在放映中の『真田丸』で、石田治部や大谷刑部が、書庫らしき所で書類をめくっている場面がよく出てくるが、そのような形で、古い史料が生かされるのである。しかし、これはけっこう手間がかかる。目的の記述を見つけるのは大変である。この問題を、「国典類抄」は解決した。各項目を見ることによって、過去の事例を容易に確認できるようになったのである。たとえば、いろいろな場合の音信贈答などの品も、各日記に一つひとつあたらなくとも、各部をみれば容易にわかるようにしたのである。江戸屋敷において能を行なおうとする場合も、その招待客をどの範囲にするかなどは、「賓」部をみればわかる。しかも、さまざまな記録・日記が編年されているから、その変化もわかる。さらに、その記述を抄録した最後にはかならず出典を記した。
 これはまた、事務処理に効果を発揮するというだけでなく、ほかにも重要な意義をもっていた。たとえば「賓」の部には「御饗応」という項目がたてられているが、そこにはさまざまの会合で同席する諸大名の名前が列記されており、それによって佐竹氏の名族としての来歴を顕彰する役割をはたしている。「吉」の部に収められている歴代藩主の「任官」の事実も同じような役割をはたすであろう。そして、義和の代にこの事業が起こされ、完成された(没後ではあるが)ということは、藩政の歴史に一つの区切りが設けられたことでもある。義和はそのはざまに位置している。
 ここで、同時代の人間、とりわけ政治の実務を担当する下級官僚たちの、義和に対する評価を推測してみよう。あくまでも推測である。彼らは、義和の人材育成によって現在の立ち位置を得たという思いがあったであろう。一方では下級官僚の登用を快く思わない勢力があるものの、それに対しては藩主によるサポートが壁になっている。義和の没後、彼らの日記や記録を見ると、「天樹院公の御遺志」という言葉が頻繁に出てくる。ここからもわかるように、彼ら下級官僚の推進する政策の正統性は、先君義和の「御遺志」であった。しかし、言葉だけではいかにも弱い。その正統性を、かたちを持ったものにしなければならない。ここに、藩政中興の祖としての義和のイメージが形成される必然性があった、と私は考える。それにはどのような方法がありうるか。
 たとえば、一つには他の権威をかりる方法がある。義和が推進していたもう一つのプロジェクトに、中国の学者人名辞典とでも呼ぶべき書物の編さんがあった。義和の号をとって「如不及斎別号録」と名付けられたこの書物の巻頭におかれたのは、幕府の寛政改革を主導した松平定信の序文であった。そこには、次のように記されている。

  つねに予と言論反復せるは、道を修め義を明らかにし、民をやすんじ俗をよくすることにあらざるはなし

 ここでは、義和が幕府を主導した人物と親しくかつ対等の関係にあることが、定信自身によって語られている。定信も、白川藩主時代は、天明飢饉において一人も餓死者を出さなかった名君として知られていた。そのことによって、我君主義和も「名君」の列に連なるという主張が隠れている。
 さて、「御亀鑑」である。第2回に書いたように、「御亀鑑」は義和の「家譜」を編さんするために用いられた実資料を集めて編集されたものであった。基本的には、藩で日々記載された「御日記」と他の日記、記録類である。これらの要所要所を抜粋し、時系列で編さんしたものが「御亀鑑」である。「御日記」以外のものについては、典拠を示すことも忘れていない。掲載された史料は事実を伝える文献であり、客観性が強い。故人となった藩主を顕彰しようとする「家譜」とそこが異なる。しかし、義和が「名君」であることは、「家譜」でも主張できるであろうし、むしろその方がやりやすかったであろう。だが、「家譜」の編さんにかかわった官僚たちはそれをせず、新たに「御亀鑑」を附録として付した。「亀鑑」とは、後の判例という意味である。つまり、「国典類抄」のまとめられた時代が秋田藩の一つの区切りであり、義和の治世の出来事(「条目」や「被仰渡」など)が、新たな規範として加わるのだという意味が込められている。ここに、「御亀鑑」の政治的意義と本質がある。「国典類抄」の続編でもなければ、単なる引証本でもない。引証本は、「家譜」編さんのために用いられた記録類をいうが、「御亀鑑」は明らかに編さん物である。しかも史料原本主義は「国典類抄」と同じく尊重されている。ただし、「御亀鑑」は、それまでの佐竹家の歴史をかたるものではなく、義和一代の治世を記録し、それを後の判例とする目的をもって作成された(その点で、「義和の一代記」とする『御亀鑑』の解題は誤りではない。ただし、単に「一代記」とするのであれば「義和公家譜」だけでよいのであり、「御亀鑑」編さんの目的がみえなくなる)。こうして、義和の政策によって育てられた下級官僚たちの手によって、秋田藩政の"中興の祖"としての義和像が作り上げられた。そのことに説得性をもたせるためにも、「御亀鑑」の編さんは欠かすことのできない事業だったのである。