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門閥VS 改革派官僚

 まずもって前回の訂正からです。2頁19行「購釈」⇒「講釈」、最後から2行目「研究所」⇒「研究書」です。申しわけありませんでした。
 さて連載も5回を過ぎたところで、安倍さんを通して、読者の方からの質問をいくつかいただいています。できるだけ応えてほしいというのが安倍さんのお気持ちのようです。私も読んでくださっている方たちのお気持ちにはお応えしようとは思うのですが、なかなか困難です。というのは、私はこの連載のタイトル通り、自分の研究を通して知り得たことや考えていることを中心に書いているからです。ですから、かならず根拠となる史料をもとにして書いています。他の方の発言や著作の孫引きはしないようにしています。いま、いただいているご質問に急いで応えようとすると、この孫引きになってしまいます。「たとえば秋田に石敢当が多いのはなぜか」というご質問がありましたが、私にはわかりません。知人に民俗に詳しい人もいますので聞いて応えることはできますが、それはこのレポートではしたくないのです。「江戸や大坂の藩邸での暮らしはどうだったか」という質問の、大坂関係についてはできます。このあと、何回目かの分としてすでに原稿を出しています。それは、私自身が大坂詰留守居役の研究をしたことがあるからです。江戸に関しては、重要な問題であるにもかかわらず、これといった研究が秋田藩についてはないようです。それはおそらく、江戸詰の役人の詳しい史料がないからです。また、江戸は、詰めている役人が大坂と比較にならないくらい多く、たとえば日記があってもその役職によって書かれていることが大きく異なるでしょう。そうすると、これが江戸藩邸の暮らしだ、というような決定的なことを言うのは、なかなか難しいということになります。しかし、これは追々自分の関心のある所ですから、できれば研究と並行して書いていければ、と思います。「下野の支配はどうなっているか」というご質問もありましたが、これについては、私大学院時代からの友人が、『南河内町史』という本で詳しく説明してくれていますので、いずれそれによって私自身が勉強し、書いてみたいと思っています。ご質問を寄せて下さった方がた、ありがとうございます。
 前置きが長くなってしまいました。以下が、今回のレポートです。

 4回目で、佐竹義和よしまさの人材登用政策によって、藩校の教育を通じてたくさんの下級官僚が登場したことを述べた。私は、このような下級官僚を、義和の改革政策を忠実に実現していこうとする存在という意味で、「改革派官僚」と呼んでいる。その代表的な人物をあげるならば、養蚕方による殖産政策を主導した金易右衛門こんやすえもん、藩校の教諭から祭酒となり、また町奉行や評定奉行として藩政にかかわった野上国佐のがみくにすけ、大坂詰勘定奉行として、大坂大商人を相手に多額の経済援助を実現させた介川東馬すけがわとうまなどである。この3人は、残されている史料を見る限り、かなり個性的であり、自己主張の強い人物であったらしい。このことについては、いずれ触れようと思っている。
 これに対して、彼ら下級諸士あがりの役人を快く思わない門閥家臣の代表が、義和から義厚よしひろの時代御相手番おあいてばんを勤めた渋江和光まさみつである。秋田藩には、その成立当初より、一門・引渡ひきわたし回(廻)座まわりざとよばれる家格が存在したが、彼らは禄高も高い大身であり、座格においても諸士とは一線を隔する存在であった。渋江家は、回座に属し、禄高3,000石をもつ大身であり、家老も多く輩出している。しかし、和光が勤めていた御相手番という役職は、藩主の「御相手」をするという意味では、家老に準ずる格の高い役職であるが、実際のところは、登城して同僚と世間ばなしをして時間を過ごすような閑職であった。ただし、家老に昇進できるポストでもあった。しかし、彼は家老になれなかった。その影響もあったかもしれない。和光は、格下から政治に参加できる役職に進出し、時には家老たちに対して諌言することも辞さない下級官僚たちが嫌いであった。
 彼は、その日記に書いている(『渋江和光日記』)。まず、書き下し文を紹介する。

  扨々此度の御巡行恐入候えども、御威厳軽く相成候事と存じたてまつり候、御役人より申し上げ候ての事と相聞こえ候、御役人どもも大体をしらぬ故と存ぜられ候
 
 これは、天保5年(1834)の3月に、仙北郡の北浦地域で打ちこわしをともなう一揆が起った際、その後の対応策として、藩主義厚がその地方を巡行することになったことへの批判である。「今回の御屋形様の御巡行は、たいへん恐れ多いことだが、御威厳をおとしめることになった。役人たちの上申によって実現したことと聞いているが、役人たちはなにが大切かを知っていない」というぐらいの意味である。また、藩の財政がひっ迫し、藩主自らが御家に伝わった重宝を売却して不足分にあてるという通達が出たときには、「胸一はいに相なり、落涙」し、「(このような事態になったのは)皆もって役々の馬鹿より起り申し候事にこれあり候」と憤慨している。ここで和光が「御役人」「役々」と表現しているのが、奉行以下のクラスの行政官僚たちである。江戸時代の武士の日記に「馬鹿」と出てくるのはめずらしいが、和光は、これを特定の個人に対しても用いている。その対象になったのが、改革派官僚の一人、野上国佐であった。「かような事もみなもって祭酒の馬鹿野上国佐がいたし候事」、「国佐は大不孝、その上祭酒など相勤め候にはこれなく候」という具合である。後者は、「国佐は大なる不忠不孝の者で、藩校の祭酒など勤めるに値しない人物だ」ということであろう。
 さて、なぜ渋江和光はこれほど野上を嫌ったのか。
 じつは、藩校を中心にした教学政策に原因があった。寛政4年(1792)に藩校が創設されて以降、同12年まで、藩は領内の7か所に郷校を設置し、その教学政策の徹底化を図った。それがおかれたのは、いずれも大身家臣が本拠をおく所であった。「郷校のことは、いずれも置かれた地域は大迷惑で、御学館によって組親の権限が侵害されるために、いずれの所も大嫌いなのだが、表向きは学問の事だから、だれも反対ができないのだ」と和光は述べている。ここで「組親の権限が侵害される」とある点に注意したい。郷校が置かれた7か所というのは、いずれも給人を軍事的に指揮する権限を持つ大身(これを所預ところあずかりといった)であった。この場合、所預の下に配置される給人を「組下くみした」という。所預でなくとも、門閥のなかには配下に組下を持つ者がいた。これを組下持ちという。渋江和光もその1人で、じつは刈和野に組下を抱えていたのである。問題は、この組下は、軍事編成上組下持ちの下に配属されているが、藩主との関係でいえば、組下持ちと同じく直臣なのである。つまり、組下持ちと組下との間には、主従関係はない(もちろん家格の差はある)。あくまでも軍事動員を想定した編成のなかの上下関係でしかないのである。つまり、刈和野の給人たちは、軍事上の問題が発生すれば、渋江和光を与力として従うが、その家来であるわけではない。ちょっと長くなったが、これが前提である。
 天保5年、藩は、刈和野に郷校を建設することを計画した。そして、刈和野給人の現地リーダー(組頭)である簗隼人やなはやと(早人とも)の屋敷地がその建設予定地となったのである。当然、簗はそこを退くことになる。簗は、知行地の20石を冥加みょうがとして藩校に献上することを願い出、それによって渋江の組下を抜け、久保田在住を許可されたのである。ところが、この経過を渋江が知ったのは事後であった。ここにおいて渋江の憤懣が爆発した。
 ここで、渋江和光は、二つの対抗手段に訴えた。まず、まだ久保田での簗の屋敷地が決定しないうちに、簗の屋敷を召し上げた。さらに、自ら簗との絶交を宣言して、他の組下にも簗との絶交を促したのである。屋敷地の召し上げについての渋江の理屈は、「すでに組下を抜けることが決定している以上、自らがその土地を返上するのが道理であるのに、いまだそれが行われる様子がないから、支配をまかされている自分が召し上げるのに、何の不都合もないはずだ」というのである。簗との絶交については、「天英様(初代佐竹義宣)のおぼしめしをもって、渋江家初代の政光様が刈和野へ引越を仰せつけられた重い家柄であるにもかかわらず、旧恩に背いて本務を忘れるのは不届きであるから、当家への出入りを差し止める」というのである。渋江政光は、藩政成立期に、佐竹義宣の片腕として活躍した人物であり、大坂冬の陣で戦死している。
 ところが、今度はこのことを、藩校に出入りしていた簗の子賢蔵が、野上国佐に訴え出たのである。藩の上層部は、事を荒立てず、渋江と簗の個人的な問題として穏便に収めようとした。しかし野上は、「上より吟味して理を判断すればすむこと」とし、問題の究明を主張した。そのため藩も、渋江に対して説明を求め、結果、屋敷地については「久保田に引っ越さないうちは、簗に所属するもの」という決定を下した。組下たちの絶交問題については、渋江は「自分は強制していない。組下たちが自分を『上』同様に心得た故の行いである」と強弁しようとした。しかし、渋江家の家臣らはこれをいさめ、組下たちの絶交を取り下げる文面を提出した。しかし、渋江和光自身の本音は、「以前からの重き家柄であることが表現されておらず、私の思いにかなっていない。なんでも穏便に解決しようとする家老たち(渋江家の家老の意―注金森)の言い分は納得できない」というものであった。
 これに対して、野上の論はこうである。「簗が天英様の思いをないがしろにしたというのであれば、そのことを正式に訴え出て審議を仰げば問題は解決されたはず。それを狭い自分の感情から、配下にある組下たちに対しても簗との交際を禁止するなど、これは私意というべきであり、組下を預かる重要な地位にある者としてはふさわしくない行為である。このことは、評議にかけるべきである」と。また、「いくら組下たちが自主的に絶交したのだと言い張っても、指揮する立場にある自分が一方的に絶縁し、そのことをわざわざ組下らにふれとして通達したら、他の組下もそれにならわざる得ないだろう」とも言っている。
 結局この一件は、渋江が、刈和野の簗の屋敷地に郷校を建設することを認める請書うけがきを藩に提出することで決着をみる。藩首脳部も、渋江の家柄と面子めんつを考えてか、それ以上の追及はしていない。だが、この一件は、二人の個人的なエピソードにとどまるものではない。門閥の雄である渋江は、藩祖の義宣との関係から説き起こして自分の家柄の重要性を主張し、自分と「上」とは同じであるとまで言っている。それに対して下級官僚である野上は、それを「私意」であると切り捨て、組織人としてあるまじき行いであると断罪して、一歩もあとに引かなかった。儀礼の場では、引渡・回座などの門閥と諸士は、座席などで明確に区別された。同席を許されないことも少なくなかった。それが、武家家社会本来のあり方である。それを思う時、義和の人材登用策の中で育成され、政治運営のなかに参加してくる改革派官僚の存在は大きな時代の画期をなしている。すなわち、一つの伝統として了解されていた家臣団秩序のあり方が、彼らの登場と活躍によって相対化されていく事実を、この一件は示しているといえる。