

原稿用紙を用いず、ダイレクトにパソコンを打っていくと、かならずミスをしてしまう。なんどか見ているつもりであるが、必ずある。HPに出てからだと直せない。したがって、読んでくださっている皆さんには本当に失礼ですが、訂正はその次の回ということになってしまいます。前回ありましたので訂正します。1頁4行目「藩中」は「範疇」、2頁12行目「そり影響」は「その影響」です。申しわけありません。さて、今回は藩校のはなしです。懲りずにお付き合いください。
藩校(明道館、のち明徳館と改められた)は、現在のキャッスルホテルあたりに建てられた。ちょうど城に向かう中土橋あたりからみて正面やや右手である。教師陣としては、下位から、教授・助教・文学という役職で構成され、トップに祭酒という、現在でいえば学長にあたるポストがあった。トップが祭酒という、ややなじみのない役職名であるのは、どこの藩校にもかならず孔子を祀った講堂があって、釈奠とよばれる儀式が行われ、それを司ったからである。
文学の地位にあった野上国佐という人物が、その日記の中で、「学館(藩校)で成績のよかった者は、藩校の教師になるだけでなく、いろいろな役職に転出していくから重要な役割をもっているのだ」とはっきり書いている。したがって、下級の諸士にとってはチャンスをつかみとる場所でもあった。実際、ここから巣立っていく者たちは、各部所の吟味役から評定奉行・郡奉行・町奉行・勘定奉行など、藩の政策を現実に左右する役職に進出したものが少なくなかった。なかには、中安主典のように、微禄の出身でありながら一代宿老格を得、家老職にまで出世した者もいる。これまで家格だけで選抜されていた家老職の中に、下級官僚のなかから一人でもこのような人物が出れば、下と上とのつながりにも変化が生じるだろう。現場で働く下級官僚たちの意見が反映されやすくなるからである。
さて、彼らを輩出した藩校は、どのような教育の場だったのだろうか。実際のカリキュラムの細目は不明な部分が多いのだが、わかる範囲でまとめてみる。まず、正式な学生は「勤学」、蔵書の閲覧を許可された者は「参学」、かれらより若年で出入を許可された者を「読書生」とよんだらしい。しかし、参学にも読書生にもかなり厳しい課題が課せられている。たとえば、読書生に対しては、学習すべきテキストが、『大学』『中庸』『論語』から『五経』(儒学で尊重する五つの書。『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)へと段階的に設定され、「復習会で忘れた者は、覚えるまで何回も読み直させること」など、知識定着の徹底化がはかられている。出欠についても、厳しくチェックされている。参学や勤学生に対しては、白文(返り点のついていない原文)を渡して、句点をつける作業を行わせ、優秀な者にはそれを暗誦させるとしている。その場合も、「『大学』『中庸』を学んでいる者は1行くらい(20字ほど)、『論語』を学んでいる者は2行くらい(40字ほど)、『書経』『詩経』を学んでいる者は4 〜5行から1頁くらい(200字ほど)」と、こまかく定めている。初級から上級までの力の差違を考慮して、課題の量に違いを設けるという気の配りようである。このほか、詩文会というものがあり、学生は文学・教授より題を与えられ、それにあわせた詩作をし、それを提出して添削を受けるという学習もあった。もちろん、教師陣の購釈もあり、定期の授業もあった。さらに『史記』『左史伝』などをテーマとした、学生の自主的な勉強会もあったことが確認できる。
しかし、藩校の大きな特徴として特筆しなければならないのは、議論を重視したことである。学習形態としては、輪読・会読などの形態をとっていたが、これは、現在でいえば、大学のゼミである。大学のゼミでは、1人の指導者に数人の学生がつき、順次テキストにしたがって、読み、自分の意見を表明する。それに対して、他の学生から質問、異見が出され、担当者はそれに一々答えていかなければならない。厳しい指導者につくと、理解の甘さや理論の不備をつかれ再起不能のようになることも多い。ある著名な東大の先生は、学生が発表している間居眠りを続け、終って隣にすわった学生におこされると、まじめな顔で「たいへんな力作でした」と評したという(もちろんこれは嫌味です。すぐれた発表の時は眠らないのだから)。この先生のゼミの場合、居眠りが始まった段階で、その発表に対する評価が出されているわけである。ただし、この形態の授業を行うと、注入主義的な講義では得られない力がつく(もちろん挫折してしまう学生も多い)。それは、議論する力である。
藩校ではどうだったか。寛政12年(1800)に、教授に対して次のような通達が出ている。
「五経(前掲―注金森)と『周礼』『儀礼』は、一つずつ自分のテーマをもたせて指導せよ。ただし複数を修めることをめざしてもかまわない」「会日には怠りのないよう申し含め、1か月におこなった会日をかき出して文学に提出せよ。中止した場合はその理由も添えて提出せよ」。つまり、学生のテーマが『五経』および『周礼』『儀礼』の七科に分けられ、基本的に学生はその一つを自分の中心的なテーマとして、教授の指導を受けるというシステムがとられている。また、会日とは、輪読・会読の行われる日である。そこで、どのような授業が展開されたか、具体的に述べた史料がないので紹介できないが、十二所や檜山に出張指導した野上国佐(教授、のち文学から祭酒)の日記には、「今日より十二所書生来り会読、議論日々也」とか、「今日史記会読始り、下総(多賀谷氏―注金森)出席、議論も相応にこれあり候」という記事があるから、本校である明徳館においても、議論することが重視されたに違いない。洒脱な随筆『伊頭園茶話』を残した石井忠行はそのなかで、祭酒であった瀬谷小太郎を評して、「この人の癖は、もっともな意見であってもまずそれを抑えて異論をさしはさむ。はじめからその通りだと納得してしまっては話がそこで止まってしまう。論を発展させるため異論を出すのである。そうすれば、その問題についてよりしっかりした結論が得られる、と考えるのである」と言っている。いわゆるディベートの重視である。
会読は、同水準の学力を持つ学生が集まって所定の箇所について相互に「義理を討論し、精緻を講読究」し、教官が批判・審判者となり、さらに、輪読会は、同僚同士相互にそれを行なうものであった。(眞壁仁『徳川後期の学問と政治』。名古屋大学出版会)
もちろんその弊害もでてくる。文政12年(1829)の史料に、近年の学生の風を評して、「もっぱら言葉の細部にこだわり、異論や奇説を好んで論をなし、大言空論をなすことを豪傑と勘違いする輩がいる」「一つの説を研究して、それをもとにして言い募る議論するのはまだよい方で、よく真の意味も理解できていないくせに諸家の説を雑駁に用いて銘々の意見を言うような風潮は嘆かわしい」と批判している。しかし、この批判は、一面で藩校における議論重視の教育の在り方を傍証するものであるともいえる。学問の成果とは、知識の習得にとどまらないで、知識を用いて自らの論を組み立て、主張するところにある。藩校は、そのような人材を育てたのである。
文政8年、社家大頭(おおがしら)の役職をつとめた大友直枝の提言をきっかけに、藩校内に和学方という部門がつくられた。これは国学的思想を学ぶ部所であった。儒学中心の藩校にこのような分野を専門とするクループを造るというのは、それ自体面白い問題で一考を要するが、それについては機会があれば、ということにしたい。ここで問題にしたいのは、後年、その和学方の学生から、待遇改善の要求が出され、そこで述べられている彼らの意見である。そこで彼らは次のように述べている。
「学問は、それを修めたうえで国家の役にたてるべきものである。自分たちはそのように考えて青雲の志をもって励んできた。しかし、儒学の方はそれぞれいろいろな役にも就いているのに、和学方についてはそのような取り立てがないから、だんだんにその学を修めようとする者が少なくなってきた。取り立ての多い方に人がおもむくのは人情の常である。取り立てがまったくないのでは、何のために時間をかけて努力してきたのか道理がわからなくなる。追々国家のために役立つ者が成長できるよう、お取り立て願いたい」
ここではっきりと、学問をすることが現実の政治に参加できることに直結するのだという認識が示されている(ここで出てくる「国家」は藩)。そして、彼ら自身の思いを、藩校の指導部に対して主張している。そう、何よりも議論の力は、こうした自己主張のあり方にかかわってくる基本である。これも、藩校の教育を経て形成された下級家臣の政治認識といえるだろう。このような下級家臣たちが、現実の政策を担う役職に進出していく。とうぜん、そこには新しい動きが生まれてくるだろう。家格が絶対的な力をもつ武家社会の構造がこれで一気にかわるわけではない。しかし、社会の現実を見る藩全体の視野が広がる。この点で、義和は大きな遺産を遺したといえるだろう。
なお、江戸時代の議論・討論の意義については、前掲眞壁氏の著作と、前田勉『江戸の読書会』(平凡社)をおすすめしたい。前者は純粋な研究所であるが、後者は一般的読者にも配慮した内容であり、価格も手ごろである。とにかく面白い。
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