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「向高」ということ

 今回は、「向高」ということについてお話したい。農村史料を見ていると「向高証文」という史料に出会うことがある。これは、給人の知行権にかかわる問題を含んでいる、面白い文書である。結論からいえば、これは給地の質入れである。
 以下に、「向高証文」を2通紹介する(現代文に直し、数値の部分は横書きであることにあわせてアラビア数字を用いる)。

(A)     向高証文
  調銭25貫文、利足月2歩半にて借用しますことに間違いありません。返済については、仙北郡高関上郷村、当高18石の内10石をあなた様に差し向け、その物成(ものなり)・小役銀(こやくぎん)とも百姓たちより、当年の暮から返済がすむまで間違いなく上納いたさせます。もっともこの先、この高を藩への差上高などにはいたしません。そのため、百姓たちの方からも別紙で連判の証文を出させます。よって一筆差し上げます。
    明和9年辰3月16日                 奈良武助
      高関下郷村 斎藤勘左衛門殿

(B)    証文の事
  調銭20(マヽ)貫文、ただいま借用しますことに間違いありません。右銭は、御地頭(給人―注金森)奈良武助様に納める年貢の先納(せんのう)分として使います。返済については、別紙の通り、今年より当高10石の物成・小役銀を、返済するまで毎年あなた様へ上納いたします。もし滞ることがあれば、百姓たちでお支払します。そのため一筆認めます。
    明和9年辰3月17日             高関上郷村 七郎右衛門(印)
                            (以下5名連印)
     高関下郷村 斎藤勘左衛門殿
(以上、斎藤頼太郎家史料、秋田県立博物館寄託資料)
この二つが対になっていることは、内容と日付を見ればおわかりいただけると思う。借用額に違いがあるが、どちらかの記載ミスかと思われる。奈良武助は、高関上郷(たかせきかみごう)村(現大仙市)に給地をもつ給人であり、斎藤勘左衛門は、高関下郷村の在郷商人である。Bの七郎右衛門以下の百姓は、奈良武助の知行地百姓であろう。
 この二通の証文から、次のことが言える。実質的に借用額を手にするのは、百姓ではなく奈良武助である。その返済は、高関上郷村に持つ給地の一部の年貢をあてるとしているが、これは単年度で済むのではなく、返済がすべて終わるまで続くと言っているのであるから、実質的には給地の質入れである。そして、借用の担保として「当高18石の内10石をそこもとに差し向け」るとあるから、これは、「むかいだか」ではなく「むけだか」と読むのが正しい。
 もう一通紹介しよう。やや長文であるが、内容が面白いので、がまんしてお付き合いください。

(C)         向高証文の事
 一 調銭463貫文也
  右の通りただいまたしかに受取り、借用したことに間違いありません。今回の借用の訳は、御地頭(給人−注金森)守屋肇様から、必要なことがあって銭の調達を依頼されたのですが、私たちの手にはおよびかねるので、あなた様にお願いし、借用させていただく次第です。この返済については、当村に守屋様がお持ちの給地、当高10石3斗3升5合の分の物成や役銀でお支払することになりますが、来年から20か年、そちらさまにお向けいたしますので、毎年右の銀穀ともに相違なくあなた様へお渡しいたします。20年目に、お借りした元銭463貫文お渡ししたうえで、この高をお返しいただくという契約でしたが、特別のお計らいをもって、この元銭の半額をご容赦下さり、残り231貫500文を返済すれば、この高の銀穀をお返しいただけることとなりました。しかしながら、この231貫500文をお渡ししない内は、何年であってもこの高の銀穀をお受け取りいただきます。毎年11月を限りにお渡ししますので、もしお支払が滞るような場合は、催促人をお付けいただいても結構です。その場合は、その賄い費用として1日100文ずつ差し上げます。また、御地頭様よりこのことについてどのようなことを申し出てきても、私たちが連印してこの証文をお出しするうえは、あなた様には決して迷惑をおかけすることはありません。よって、肝煎・長百姓が連印し、なお平山文一郎様より裏判をいただいて一札を差上げる以上は、右年季中いっさい相違のないようにいたします。後日のため証文を差上げます。
   文政5年午11月
     角間川村吉右衛門様      新角間川村百姓 小左衛門(印)
                        同村肝煎    長五郎(印)
                        同長百姓    惣右衛門(印)
(「本郷家文書」、国文学研究資料館所蔵資料)

 こちらの方がより給地の質入れとしての性格が明確にあらわれている。差出人は農民だが、上納が滞った場合、催促人をつけてもよいとしている。年貢の催促人を給地に派遣することは、給人が自己の給地に対して行った行為であり、藩はしばしばそれを禁止している。ある意味、法は禁じているが、隠れた給人の権利であるともいえる。これを債権者に譲っているのである。宛名の角間川村(かくまがわむら)吉右衛門は、同村の在郷商人で、明治にかけて大地主に成長する本郷(ほんごう)家の当主である。給人守屋肇(もりやはじめ)が、何らかの必要があって463貫文を本郷家から借用した。その担保として20年季で、その給地10石3斗余の権利を本郷家に預けたのである。終りの方に出てくる平山文一郎(ひらやまぶんいちろう)は、郡方吟味役である。その平山が、裏判までしてこの貸借関係を保証しているのはどうしたことだろうか。
 藩は財政難を理由に、すでに17世紀後半から借知(しゃくち)政策を行なっていた。通常で半知借上(はんちかりあげ)、ひどいときには、給人の収入の6割を借り上げた。給人の経済的逼迫には、藩も大きな責任を負っていたのである。給地は、藩主からいただいたもの(預かったもの)であり、とうぜん質入などしてよいものではない。しかし、その他の方法といえば、違法に農民を収奪するしかない。それをしすぎると、農民との間に軋轢がおこる。そこで考え出されたのがこの方法である。ここでは、藩の役人も、タテマエとホンネを使い分けている。結論をいえば、向高は、たんに支払いに困った際に年貢で支払ったというものではなく、給地の質入れなのである。そのような行為がほぼ恒常的に行われ、藩もそれを黙認せざるを得ない段階にきているところに、藩、ひいては幕藩体制の矛盾が深刻化していると考えるべきなのである。
 この向高証文は、それほどめずらしいものではない。農村史料にあたっていけば、めぐりあうチャンスは多い。先日、ある会でこのことをお話したら、それを聞いてくださった方が、ボランテアで史料整理をしていて、偶然「向ヶ高証文」と、「ケ」の送り仮名のついた史料をみつけたと教えて下さった。自分が話したことが、自分とかかわりのないところで確認されるほど嬉しいことはない。