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男鹿民衆の蝦夷地稼ぎと移住

 すでに拙著で書いたことだが、『伊頭園茶話』のなかに、幕末期における男鹿民衆の蝦夷地稼ぎにかんする記事が見える。重要な内容なので、ここでも引用しておく。

  近年男鹿より西蝦夷地の諸場所、奥はリイシリ辺までも行きて鱈を釣る船追々殖えて、元治元年には九十三艘行きて、正月より五月迄の間に金七千両程の漁をせしとぞ。一艘六人乗とぞ。鱈は皆その場所にて運上家へ売る法なり。

 筆者の石井忠行は、秋田藩きっての"蝦夷通"であり、自身も慶応元年から翌年にかけてマシケ詰を経験している。当時の蝦夷地についての知識は豊富であった。上の記述で「諸場所」とあるのは、たんに「いろいろな所」という意味ではなく、蝦夷地に進出した和人商人が漁場を経営するところ、いわゆる場所請負人の漁場をさす。最後の部分で、獲った鱈はその「場所にて運上家へ売る」とあるが、この運上家が場所請負人である。つまり、おそらく出漁する男鹿漁民は、特定の場所請負人との契約関係の中で鱈漁にかかわっていると推測できる。西蝦夷地とあるが、おそらく、マシケ周辺からソウヤにかけての地域が推測される。この地域は、安政2年の第2次蝦夷地幕領化にともない、秋田藩の警備地となった地域であり、マシケやリイシリ・レブンシリは、同6年の蝦夷地分領化にともなって秋田藩領とされた所である。おそらく、ここでいう運上家は、マシケやリイシリを場所として経営していた伊達林右衛門だてりんえもん家であろう。鱈漁の季節となれば、伊達家のもとでの鱈漁に参加するために出漁し、それを金銭に代えて帰国する。その獲得金額は、5か月の間に7,000両ほどになるという。
 このような動向に対して、藩も無関心ではいられなかったらしく、慶応元年、蝦夷地に出漁する男鹿民衆に対して、藩が役銀を賦課する法令を出した。要点は、次のようである。

 ・男鹿の村々から近年蝦夷地へ出稼ぎに出る鱈釣船についてはこれまで禁止してきたが、少なからず余勢にもなることなので、格別のとりはからいで100艘に限って許可する。ただし、1人につき、役銀128匁を申しつける。
 ・出漁する際の積荷については、戸賀・船川で川方本締役・見廻役の調べを受けること。
 ・食糧米は、1艘につき10石まで積込みを認める。その役銀は両湊の半額とする。
 ・御禁制の品物などを積込んだ場合は厳重な処分を下す。

出漁にかかる役銀が1人128匁というのは、幕府の公定相場でいえば約2両にあたり、決して軽いものとはいえない。つまり、男鹿民衆の蝦夷地での鱈漁は、それだけの負担を支払ってもなお手元に利益を残すものだったということになる。
 男鹿の人びとと蝦夷地のかかわりは、史料が少ないためあまり明確ではないが、かなり密接なものであったと推測される。『利尻町史』に、明治4年の段階で同島に永住出稼人として居住している人びとの人数を記した史料がのっている。それを見ると、松前・津軽の出身者とならんで、「秋田男鹿」と記された者が多いのである。史料は、出身地・人名の次に、その人物とともに移住したと思われる人数が記載されているが、その人数を含めると、男鹿出身者は82人におよぶ。これは同史料に記載された出稼者全体の中で見ると役12%であるから高い割合ともいえないが、松前・津軽出身者以外が男鹿出身であることに関心をひかれた。『利尻町史』が載せた史料は、北海道立文書館が所蔵する「天塩国山口・水戸藩書類」(明治4年)という簿冊に収録されているものであった。明治2年になって、蝦夷地は「北海道」となり、マシケとリイシリは、それぞれ山口藩と水戸藩に預けられた。これはその頃に作成された簿冊史料である。
 先に書いたように、リイシリ島は一時秋田藩の管轄下にあった。また、同島を経済的に支配していた場所商人は伊達林右衛門家である。そのようなことから同島に男鹿出身者が多いのだとすると、秋田藩の本陣屋が置かれ、伊達林右衛門家の場所経営の中心であったマシケについて、この史料から重要なデータが得られるのではないかと考えた。『利尻町史』は、当然のことながら同島に関する部分より掲載していない。これは、「天塩国山口・水戸藩書類」という史料を見るために札幌まで行く必要がある。私は、買ったばかりのデジカメをもって札幌まで出かけ、待望の「天塩国山口・水戸藩書類」を手にした。予測した通り、この簿冊にはマシケ部分の永住出稼者名簿も収録されていた。ところが、である。なんと、出身地の記載がいっさいないのである?
つまり、マシケを管轄した山口藩の役人は、この調査をした時、各出稼者の出身地を記入していなかったのである。ここには、リイシリの出稼者の数をはるかにこえた夥しい人数が記載されていたが、私が求めていたデータはなかったのである。ひどい脱力感におそわれたが、少なくない旅費をかけて調査にきたのだから、脱力してばかりもしていられない。
 そこで、私は、水戸藩部分を見直すことにした。すると、『利尻町史』が収録した部分のほかに、同藩の管轄下にあった苫前郡に関する出稼者の名簿があった。そしてそこに、かなりの数の男鹿半島出身者を確認することができたのである。
 これによると男鹿出身者は170人におよび、当時この地を管轄した水戸藩から動員されたと思われる人数をわずかだが超えている。全体に占める割合は36.6%と、高い割合を示している。これは、冒頭に引用した『伊頭園茶話』の事実を傍証するデータといえる。むしろ逆に、追い鱈漁というかたちで幕末から蝦夷地との関係を強く形成してきたことが、明治初年の出稼移住率の高さに結びついているのだといえるのかもしれない。苫前郡はマシケに隣接する西沿岸部である。とすれば、出身地の記載はないものの、私が推測するように、増毛郡に記載された多数の出稼移住者の多くが男鹿出身者であったことは間違いないように思われる。出身地の記載がない増毛分の出稼者の人数を記した史料は今も持っているが、いまだにうまくテータとしての処理ができずにいる。
 なお、前半でふれた男鹿の蝦夷地鱈漁に役銀を賦課したという史料は、男鹿の地域研究に大きな足跡を残した磯村朝次郎氏から紹介していただいたものである。氏が、亡くなられる前に共通の知人を通してコピーを下さったのだが、その所蔵者については確認できずに今に至っている。もし心当たりのある方がおられたら、ご教示いただければ幸いである。