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日本海海運と秋田湊(2)

 前回、何十艘もの船が土崎湊に停泊するのは困難という意味のことを述べたが、その理由はスペースだけのことに限らない。県立博物館所有の「秋田風俗絵巻」、千秋美術館が所有する「秋田街道絵巻」には土崎湊が描かれているが、これを見るとわかるように、当時の土崎湊には、中洲が形成されている。つまり、遠浅で、砂が溜まりやすい地形だったのである。これでは、千石船などは岸によりつけなかったであろう。「秋田風俗絵巻」には、一艘、かなり大きな船が描かれているが、これは、吹き流しなどの飾りが付けられているところを見ると、建造されたばかりの船なのだろう。むしろ、遠景に描かれた沖合を見ると、廻船と思われる船が何艘も描かれ、それを目指して、米俵を積んだたくさんの長船ながぶねが、岸を離れて沖へ向かっている。つまり、多くの場合、入湊した廻船は沖合に停泊し、人や物資の移送は、付船つけぶねが利用されたのである。これは、能代湊でも事情は同じであった。
 付船は、本船と海岸をつなぐ役割をはたす重要な存在で、土崎では仲間組合が形成されていた。しかし、独立して営業できる存在ではなく、制度上は、その湊の廻船問屋の支配に属していた。この業者が、自分の扱った廻船の船主・船籍(その船の出発先)・船頭・大きさなどを記録したのが「付船帳」や「客船帳」とよばれる史料である。近世海運の研究に大きな業績を残した柚木學氏によれば、上記の項目のほか、積荷も記載されるとされるが、実際、他の地域の「客船帳」を見ても、記載されたりされなかったりである(記載されていないケースの方が多い)。このような史料についての調査が完全になされているわけではないが、現在唯一秋田湊に関する「客船帳」として見ることができるのが、秋田県立博物館が所蔵する「土崎湊歳々入船帳」である。
 この史料の記載は宝暦10年(1760)から明治期におよんでおり、類似史料が現在のところみつかっていないことを考えると、たいへん貴重な史料といえる。なお、柚木氏によれば、「入船帳」とは、船番所とか沖ノ口番所とかで入港船をチェックし、諸税を徴収するために権力機関が作成したものと説明されているが、この「土崎湊歳々入船帳」は、明らかに付船業者が作成したものである。この史料の貴重な点は、大坂を中心として、土崎を訪れた船を、その船籍の地域別にまとめていることである。本当はすべてを表示できればよいのだが、かなり複雑で大きなスペースをとるために、ここでは地域を大きくとり、5年きざみでまとめてみた。5年に特別な意味はない。@は関西地方で、具体的には大坂・堺・西宮・神戸・兵庫、Aは中国・瀬戸内地域で、淡路島・播州・伊予・芸州・長州、Bは九州で豊前・豊後・肥前・肥後、Cは北陸で、越前・佐渡・能登・越中・越後(なお、( )内は特に越後船を示す)、Dは酒田・本庄・能代などの近隣の湊、Eは津軽・南部・仙台などの東北地方、Fは、松前・江差・箱館の蝦夷地をまとめてある。このほか、武州・遠州・尾州など太平洋側の関東、ならびにそれ以南の地方の船の入港もあるが、表示はしていない。地域だけ見れば、日本全国におよぶ。
 このように、魅力的な要素をもつ「客船帳」(「土崎湊歳々入船帳」)であるが、難点もある。それは、ここにあらわれる数値が全体のごく一部を示すにすぎないということである。先にも書いたように、付船仲間は廻船問屋の支配下にある。この帳簿を作成した付船業者(長浜屋家)もいずれかの廻船問屋の差配下にあったはずである(その問屋名は不明)。廻船問屋の扱う廻船も、その湊に入る廻船の一部であるが、その配下にある付船業者が扱う廻船は、さらにその一部ということになる。つまり、ここからは、土崎湊の全体相はみえてこない。また、積荷の内容も、記載されているケースはかならずしも多くない。それでも、子細に見ていくことによって、一定の傾向は読みとることができるところもある。
年   号西  暦@ABCDEF
宝暦10〜明和1年1760〜64362718
明和2〜明和6年1765〜69
明和7〜安永3年1770〜74
安永4〜安永8年1775〜79
安永9〜天明4年1780〜8412423
天明5〜寛政1年1785〜8922168
寛政2〜寛政6年1790〜9426237
寛政7〜寛政11年1795〜9912112
寛政12〜文化1年1800〜048107(5)
文化2〜文化6年1805〜0913125114
文化7〜文化11年1810〜1415126(2)
文化12〜文政2年1815〜19512146(38)34
文政3〜文政7年1820〜24761655(54)42
文政8〜文政12年1825〜29422716(11)3
天保1〜天保5年1830〜341626760(52)68
天保6〜天保10年1835〜3910220(9)15
天保11〜弘化1年1840〜4439341329(12)7510
弘化2〜嘉永2年1845〜493411164(59)12612
嘉永3〜安政1年1850〜54147249(40)251519
安政2〜安政6年1855〜592810484(64)30719
万延1〜元治1年1860〜6495560(48)69811
慶応1〜明治2年1865〜69951232804642
 まず、関西地域からの廻船は、全時期にわたってみられるが、やはり近世後期に多くなる。全時期にわたってみられるといっても、大坂の場合、明和元年(1764)から天明9年(1788)までの17年間、1船もない。これは、長浜屋家が扱った大坂船がなかったのであり、この間大坂からの土崎湊への入港が全くなかったのではない。たとえば、文政6年、長浜屋家が扱った廻船は22艘である。前回紹介した入船数の表では、同年の総数は752艘である。「客船帳」にあらわれる数値はごく一部だというのは、このようなことである。とはいえ、同史料の数字の極端な変化は、やはり日本海海運の変化を反映しているといえるだろう。また、関西や瀬戸内の廻船の場合、「御用船」が多いということが指摘できる。御用船とは、秋田藩が公式に雇った船ということで、蔵米と長崎御用銅を運んだ。「歳々入船帳」では、御用船の場合、粗雑ではあるが、佐竹家の家紋である「五本骨扇」を記しているのでそれがわかる。したがってこれらは北前船ではない。御用銅は能代からの出荷が多いが、土崎からの出荷もある。だが、積荷として記載されているのは米である。
 表中のもっとも大きな変化は、19世紀の初頭以降、北陸地方の廻船が一気に増加することである。( )内の数字でわかるように、とりわけ越後船が増加するのであるが、時期によっては能登の船も少なくない。この表のデータだけですべてを判断することはできないが、柚木學氏の研究を援用するならば、北陸地方の船持衆が、近江の大商人が支配する運賃積の船主・船頭から、買積船の船主・船頭へ自立していく傾向が顕著になったことと、それと並行して蝦夷地産物の流通機構の変化があったことを反映していると考えられる。それは、日本海海運をめぐる大きな変化であった。
 さらに天保期をすぎると、蝦夷地からの入港も増加する。津軽船などを加えると、この段階でもう一つの流通構造の変化があっと読みとることができる。これらの船々は、いたって小規模であるが、北前船などそれまでの流通構造を離れた立ち位置から、東北地方への産物流通を意図しているように思われる。能代市史の通史を担当している関係上、その内容とかぶる事項については述べることを控えなければならないが、幕末における蝦夷地との交易には、能代船も少なからず独自の動きをみせている。それについては、同市史の通史編のなかでふれたので、刊行されたらぜひ読んでみてほしい。なお、今回はやや推測を広げすぎたかもしれない。ただ、このような貴重な史料が、近世秋田の湊を語る史料として残されていることを紹介したかったのである。同史料は、秋田県立博物館の常設展示室に展示されている。ぜひご覧になって、その一端にふれていただきたいと思う。