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農民の撫育

 「郡方支配」下における農村政策の実態については、湊曽兵衛という人物が書き残した勤中日記を読み込むことによって、かなりのことがわかる。湊曽兵衛は、文政7年から郡方見廻役、同吟味役を勤め、天保5年以降は郡奉行に就任している。郡奉行時代にもその勤中日記を残しているが、農村政策の特徴をより具体的に知るうえでは、実際に農村に在番し、農民と直接交渉する機会が多かった見廻役・吟味役時代の日記の方が、その実情をよく伝えてくれる(いずれも遣公文書館に寄託されている)。
 彼の残した日記をみていくと、まず印象に残るのは、いかにして農村の疲弊を防ぎ、農民をあるべき姿のものとして生活させていくのかということに、大きな関心をよせていることである。一つには、「御撫育料」の支給がある。文政7年12月の記事であるが、「御撫育料」の拝領について、「定式のお手当は、銭2貫文に米9斗を1人につき与える」と出てくる。これは、御撫育を受けることが決まった農民についての初年度の規定で、次年度が米6斗、3年目が米3斗と、3年間の支給が認められた。この間、農民としての生活基盤を立て直す機会としたことがわかる。もちろんこれは、農民全員に対して行われたものではなく、経済的な困窮が絶対条件であるが、捨子の養育や出産・育児に対しても優先的に実施された。雄勝郡川連村肝煎であった関喜内の日記の、文化元年2月の部分には、
  「六郡の村々は年を追うごとに逼迫し、水呑百姓や経済力の弱い百姓、または村内の貧困の農民の夫婦などで生まれた子供の養育ができず、捨てたり間引きしたりすることがあると聞く。このように天道に反し、人情を失った行為をせざるを得ない事態を気の毒に思われ(藩主が―注金森)、このたび格別の思いをもって、近々そのための御撫育料を設定し、御慈愛の趣旨を広めるつもりである。」
という法度が出されたことが記載されている。経済的困窮はもちろんであるが、子捨てや間引きなどの行為がなされていること、そこには出産したこどもを育てていけないという農民の現状があることを、藩が認識していることがわかる。
 これとならんで、郡方役人の機動力を用いて領内の妊婦と出産の実態の調査も行っている。文政7年の雄勝郡の事例では次のようにある。
  
  ・惣妊婦合1,361人
    内  581人出生
    内  344人男
    同  267人女
    同  255人、病死・半産死
    残  525人、いまだ出産の届なし

 「半産」とは流産である。現代的にみれば厳しい出生率といえよう。しかも約半数が届なしとあるから、子捨て・間引きなどのケースが多数含まれている可能性がある。郡方役人たちは、単に調査結果をまとめるだけでなく、出産の実態を調査し、その後の動静の把握に努めている。村に対して、村内に懐妊した女性がいた場合はそのことの報告を義務づけ、その届がなく死産などの情報があった場合は、郡方役人が自ら現地に足を運び、関係者の報告書のほかに、医師による遺体検分書まで提出させている。
 病気の流行にも気を配っている。疫病などが流行すれば、農村部や在町に居を置いている医師を動員してその治療にあたらせ、また藩のお抱え医師が調合した薬を、役人を通して村々の肝煎や長百姓に与え、施薬させている。文政10年には、疱瘡の流行がみられ、平鹿郡だけでも7,200人を超える農民が罹患している。この時には、岩崎村在住の元慎という民間の医師を特別に御用掛として任用し、治療にあたらせている。この際、「人参30両を渡すので、これまでお役屋に備えていた分は横堀村の肝煎に渡し、困窮の農民たちで困っている者にあたえ、その名前を記録しておくように」と指示している。この場合の「両」とは、重さを示す単位で、30両は、1,125グラムほどの量である。
 ちなみに、秋田藩が医学方附属の御薬園を設置したのは文政3年であるから、かならずしも早いとはいえない。この時藩は、江戸や大坂から数百種類の薬草を取寄せてその栽培を試み、六郡全体でもその土地の具合を考えてその栽培を広くすすめたという。また多くの医師たちが、平素目にすることも用いることもない中国産の薬草にも慣れさせ、施薬治療できるようにという思いもあった。要は、「諸民の病苦御救いなしおかれたく、随って田畑不足の沢々窮民の御救いのため」であるという。さらには、領内で自生した薬草を藩が買い上げ、上方に送り、「唐薬」と引き替え、これを用いることができるようにということも言っている(県公文書館「御学館日記抜書・多奈部養仙聞書」)。領内での朝鮮人参の栽培は順調であったらしく、天保3年の記録によると、507斤(およそ304キログラム)を大坂に送り、残りを領内での「御払い用」としている。この内318斤は、角館で栽培されたものであった(同「御薬園方備忘」)。
 また、このほか藩がその栽培に意をはらったのは、甘草かんぞうである。甘草は、漢方では、咳や腹痛・胃潰瘍などに用いられた。文政年間、薬園方の役人は、六郡の地勢を調査し、栽培の意志のある武士や農民に対して、指導を加えたうえでその苗を貸与して、栽培の活性化をはかっている。文政10年を例にとれば、4/1神宮寺村藤井宇佐右衛門に100本、4/4八沢木守屋氏に30本、4/6六郷村久米利三郎に50本、4/7横沢村肝煎に30本、4/11西明寺村農民たちに65本、といったような具合である。そして、時期をずらして貸与した甘草の育成具合を確認し、思わしくない場合は「地方あい合わず候よう相見え候ゆえ、以来相渡し候事相ならず」というように、その貸与をうち切ったりしている。これも指導の一環だったのであろう。
 以上のように、藩が領民の健康に意をはらったのは、現在の私たちの感覚からすればそれほど不思議なこととも思えないが、江戸時代に関する限り、領主と領民との間には重要な認識があったことを前提としなければならない。それは、「仁政じんせい」という理念、考え方の存在である。15回に述べた、学館祭酒野上が、藩主義厚に語った為政者のあるべき姿を思い出してほしい。為政者には、つねに領民を守らなければならない務めがある。何から守らなければならないかといえば、それは、貧困・飢え・病などからであり、守るべきものは最終的には命である。その役割をもってこの世に生を受けたのが君主であり、それを現実に執行するのが、君主の逃れられない義務であった。この、領民に対して君主のなすべき政治が「仁政」である。近世史研究者として多くの実績をもつ深谷克巳氏は、この「仁政」という理念を、領主と民衆の双方で共有される「合意」(社会的約定)であるとしている(『深谷克巳近世史論集第一巻』)。また、より具体的にいえば、水林彪氏のように、「水利土木から困窮者のための助成米金にいたるまで、さまざまな社会的・公共的職務遂行、福祉行政を内容とするもの」とする理解もある(『封建制の再編と日本的社会の成立』)。このような理解を前提とすれば、全国各地におこる百姓一揆における農民側の理念も、容易に理解することができる。要は、自分たちを支配している為政者が、「仁政」を執行しているか否かが評価の分岐点となる。秋田藩の「郡方支配」が、まず、農民の生命の保全という側面に大きな関心をよせたのは、封建国家において支配的立ち位置にある者としては当然の対応であったのである。