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郡奉行の設置

 佐竹義和の政治改革のもう一つの特徴は、農政の刷新である。農政というよりも、農村支配の仕組みそのものを抜本的に改革しようとしたといったほうがよいかもしれない。寛政7年(1795)の郡奉行設置に始まる改革がそれである。私は、この郡奉行の設置によって作り上げられた農村支配の仕組みを「郡方こおりかた支配」と呼ぶことにした。要点は、郡奉行の下に郡方吟味役・郡方見廻役などの郡方役人が配置され、一郡に1〜2か所に置かれた役屋に常時詰める体制がとられたこと、それまでの親郷おやごう寄郷よりごうの制度を、この郡方役人の役屋定番制に機能的に結びつけたこと、在方ざいかた商人を郡方蔵元として取込み、その経済力を郡方備として公的に機能させたことなど、こうした新たにつくりだされた要素を総合して郡方支配とよんだのである。
 ここでは、郡奉行の設置を中心に述べてみたい。郡奉行については、すでに他の機会に触れたかもしれないが、従来、地方知行制を形骸化するために設置されたものとされてきた。そうではない、というのが私の考え方である。7割以上の給人知行をやめ、すべて蔵米支給にすることが藩の経済事情からみて非現実的であることについては、すでに述べた。それでも上記のように郡奉行が評価されてきたのは、その設置を領内に知らせる法令の中で、「郡村に関わることはすべて郡奉行の支配とするので、所預の支配所であっても、以来高持ちの者(すなわち農民―注金森)はすべて郡奉行の支配に属するものとする」という一文があるためである(『秋田藩町触集・中』)。この解釈については、これまで何度も書いてきたのであらためて述べることはしない。ただ、この郡奉行の設置が、最初は代官制度の改革として行われたことは案外知られていない。
 県庁の地下書庫に長く保存され、現在県公文書館の所蔵となっている「御用留書」という史料には、郡奉行設置に対する代官の不安・疑問が述べられた口上書が載っている。この史料は、寛政7年から同11年までに発令された、郡奉行設置にかかわる諸法度を収録したもので、郡奉行という役職を知る上で欠かせない基本史料である。全部で70項目からなるが、代官の口上書はその一部分である。
 郡奉行設置之段階では、実質的に農民の支配にあたっていたのは代官であった。したがって、代官からみれば、郡奉行の設置という改革は、自分たちの上に新しい中間管理職が置かれるということである。とうぜん、自分たちの職務はどうなるのか、という疑問が生じたであろう。当時22名の代官が領内に置かれていたが、彼らは今後の自分たちの職務や郡奉行との関係について、10項目からなる質問書を藩に提出している。その細部については、拙著を参照してもらいたいが、たとえば、郡奉行は一郡単位で支配権を持つのに対して、代官の支配管轄は「あつかい」と称され、郡よりも範囲がせまかった。郡奉行の支配下に属するということは、これまでの「扱」という自分たちの管轄が相対化されることである。要点のみいえば、代官たちは、郡奉行の設置によって従来の自分たちの支配権限に重大な変更が生ずることに(あるいは既得権益を否定されることに)、強い危機感を抱いたのである。この点について、代官たちは新たに自分たちの疑問を込めた上申書を藩に提出している。
 このような動きに対して、藩は、代官22名の全員を更迭し、その日のうちに新たな22名の代官を任命した。代官からの上申書が呈出されたのが10月2日、代官の更迭が同7日である。実際に更迭されたのは8名で、14名は継続勤務となったのであるが、あえて全員をいったん解任する措置をとったことは重要である。そして、寛政10年2月には、代官にかわって郡方吟味役が置かれることになる。ここにおいて、郡奉行の設置に対して抵抗的な姿勢を示した代官はなくなり、郡奉行に忠実な下級官僚としての郡方役人が誕生することになる。このように、郡奉行の設置を、代官制度の改革という視点でとらえ直してみると、松平定信によって断行された、幕府代官制度の抜本的改革を想起させる。定信は、代官による恣意的な農民支配をなくすために、幕領の代官を、自分の眼鏡にかなう人物と入れ替えた。その結果、名代官といわれる人物が多数生まれたといわれる。「寛政の三博士」の一人として著名な岡田寒泉かんせんは、その退任時に農民の側から留任運動が起きたということで知られている。私は、秋田藩の郡奉行の設置は、こうした幕府の農政に学びつつ、それに藩なりのオリジナリティを加えた政策であると考える。
 郡奉行の藩政機構における特質をみてみよう。設置時に就任した6名中、5名が諸士であり、唯一回座まわりざ格であった岡谷兵馬おかやひょうまも、禄高は94石とそれほど高くはない。代官経験者が3名いる。しかし、特筆すべきなのは、全員が評定ひょうじょう奉行との兼務とされていたことである。評定奉行は、寛政元年に新設された役職で、行政担当職の中核としての役割を担った。義和の寛政改革を象徴するものという意味では、藩校の設置と同様である。そのような意義と役割を持つ評定奉行を兼務するものとして郡奉行が設置されたことは無視できない。つまり、これまで代官の裁量に一任されていた農政業務を、行政の中核である評定奉行のもとに集約し、中央行政の強力な指導のもとに置こうとしたものであると考えられるのである。なお、郡奉行の一人である諸橋文太夫もろはしぶんだゆうは、角館の組下給人である石井家から久保田給人の諸橋家に養子として入り、同家を継いだ人物である。それ以前には、米沢藩で活躍した儒者、細井平洲へいしゅうに師事していたこともあった。諸橋は、その細井平洲から、米沢藩の学政や上杉治憲はるのり(鷹山)の名君ぶりを伝える手紙を受け取ったりしている(小関悠一郎氏)。そう考えれば、秋田藩の郡奉行による農政の実態も、外からの情報を生かしたうえで運営されていくものと理解するほうが適切だろうと思う。
 郡方吟味役はどうだろうか。文政年間に郡方見廻役・同吟味役として勤務した湊曽兵衛みなとそうべえの日記に出てくる範囲でその禄高を調べてみると、岡田清蔵が88石ともっとも高く、跡部惣兵衛あとべそうべえなどは銀70目3人扶持である。平均的には50石前後であり、郡奉行のそれをやや下回る程度である。やはり実務的下級官僚の集団といえるだろう。郡方見廻役については「御用留書」にその設置を伝える法度は出てこない。しかし、国文学研究資料館(東京都立川市)が所蔵する中田家文書のなかの「秋藩分限帳」に、これを寛政9年の創設とする記載があり、郡方吟味役とほぼ同時期の設置と考えてよさそうである。役職上は、吟味役が上司にあたるが、その職務内容や禄高には大きな違いはない。この、郡方吟味役と同見廻役が交替で常時在方におかれた役屋に在番する体制がとられたのである。
 また、郡方蔵元であるが、これについては、湊曽兵衛の日記の中に、雄勝郡については数名その名が出てくる。石川平兵衛(岩崎村)・内藤久兵衛(増田村)・藤屋多三郎(西馬音内前郷村)・小川長右衛門(湯沢町)・藤木平兵衛・近間又吉らである。4名については所在と性格もはっきりしているので、この6名は、在方商人と考えてよい。彼らは、もともと農村を拠点として多くの農民に対して金銭の貸与を行なっていた。この彼らが、村に対して発給した「郡方御備米御物成受取証文」とよぶべき史料が多数存在している。その場合、発給者である彼らの肩書は「御蔵本」である。つまり、藩の正式な役職として発給している。そして、先の6名は、その御備銭の管理をまかされた者たちでもあった。秋田の近世史研究に大きな足跡を残された柴田(しばた)次(つぎ)雄(お)氏が紹介された史料に、角館の在方商人小林治右衛門の口上書があるが、そのなかに次のような一文がある。
 「親の治右衛門の代から郡方御蔵元の御用を仰せつかり、御威光をもって今年迄勤めてまいりました。仙北郡奥北浦の川原村・山谷川崎村・小勝田村などで、百姓18人に銭1,000貫文ほど貸付け、その田地の世話を引き受けております。年々その田地から米510俵ずつ作徳米として受け取っておりますが、その出米を、今年からむこう15年間、御役屋の御備米として献上したいと思います」
 ここでわかるように、彼らの金融活動と郡方御蔵元という地位は不可分に結びついている。つまり、藩は、もともと私的に行われていた在方商人の金融活動を、彼らを郡方御蔵元という藩農政の一翼を担う役職に組み込むことで、その金融活動をも公的なものにしたのである。いいかえると、郡方御備からの支出は、表向きは公的なものであるが、それをささえる蔵元らの経済力は私的な部分によっており、藩はそれを利用したということである。このような要素を含めて、私は「郡方支配」という概念で理解しようとした。彼らの経済力は、新たな農政を進めていくうえで、欠かすことのできない力となったのである。