前回、改革派官僚の1人として介川東馬という人物を紹介したが、この連載を読んでくださっているという方から、江戸や大坂の屋敷での暮らしはどうだったのかというご質問が以前からあったらしい(安倍さんからの連絡です)。そこで、前回の続編というかたちで、介川が大坂詰であった時の暮らしぶりを書いてみようと思う。江戸藩邸については、不勉強なのでまたの機会にということにしたい。
前回も書いたが、大坂の場合、藩邸というよりも蔵屋敷が詰所(藩の役所)であり、雑賀屋という商人の屋敷地・建物を借用していた。江戸藩邸は、隔年で藩主が入り、あるいはその細君や子供たちが暮らす場所であり、家老もいるが、大坂の場合それがない。この点が大きく違う。したがって、詰めている役人の人数も限られる。介川の日記を見る限り、藩から交代で派遣される勘定奉行(多い時でも2人)のほか、勘定吟味役(1〜2人)、同 しかし、なんといっても重要なのは、館入たちとのつながりをしっかりとしたものに保つことであった。近世後期になると、上方商人からの借金がない大名は皆無であるといってよい。秋田藩もまた、多額の負債を抱えていた。本来、大坂に廻送されてくる物品が入金のもとなのだが、やがて数年先の、あくまでも予定としての廻送品を引き当てにした借金が始まると、際限なく増大していく。この商人たちに愛想をつかされれば、江戸藩邸の生活も、国許の藩士への給与も成り立たなくなるのである。したがって、この商人たちとの"絆"をしっかりとしたものにしておくこと、そして必要な時にはそこからできるだけカネを引き出す能力が、もっとも必要とされたものなのである。前回の介川の動きを見ても、相当にストレスのたまる役職であったことは疑いない。そのためには、今でいえば"接待ゴルフ"のようなことまでやらなければならないこともあった。とにかく、酒が飲めなければ仕事にならない。これは、日本人の悪しき伝統であろうかと思うくらいである。次に、介川の日記から、いわゆる"飲み会"に関する記述を、ある一定の時期を無作為にとりあげて、一覧にして示す。年代は天保4年、東北が大飢饉に見舞われた年である。 1.1 年始の客、御館入多数来訪。書院・勝手にて盃事 1.4 御蔵開につき御蔵元など来訪。わた屋にて酒席 1.5 御蔵開につき旧家御館入来訪。浜方御館入とも住吉屋にて酒席 1.9 三家の主催にて戎参詣。帰り冨田屋にて酒宴。夜五つ頃帰宅 1.14 内々の相談につき住吉屋。塩屋平蔵を招く 1.14 船初見分。暮より住吉屋へ参る。山下八郎右衛門・奥山甚右衛門・奥山仁兵衛・山下惣右衛門 1.17 三家へ調達金の依頼申し渡し。その後住吉屋にて振舞 1.18 辰巳屋へ調達金の依頼。その後わた屋にて振舞 1.19 鴻池庄兵衛へ調達金の依頼。その後住吉屋にて振舞 1.29 三家、調達金御請。わた屋にて振舞。 2.4 初午につき屋敷稲荷神事あり。茶・飯出し、その後わた屋にて酒席。山中新十郎・梶川惣十郎・同市之助・辰巳屋猪之助・加嶋屋三郎兵衛・鴻池庄兵衛・鴻池清八・同幸八・塩屋平蔵・同茂助・加嶋屋弥十郎・辰巳屋長兵衛・山崎屋与七郎・近江屋次八・加嶋屋彦七 2.5 初午につき、旧家御館入・浜方など招く。住吉屋にて酒席。高岡吉右衛門・大坂屋孫右衛門・長浜屋源左衛門・伊勢屋藤四郎・炭屋次郎右衛門 2.7 堺御館入酢屋利兵衛・宗十郎、同支配人仁兵衛へ調達の依頼。住吉屋にて振舞 2.12 浜方御館入をわた屋へ招き振舞。室谷次郎助・升屋源左衛門・播磨屋権之助・播磨屋源左衛門・吉文字屋久米蔵 2.14 調達出精の礼として芝居を振舞う。料理も入念に申し付ける。山中新十郎・梶川惣十郎・同市之助・辰巳屋猪之助・鴻池庄兵衛・鴻池清八・鴻池幸八・塩屋平蔵・同茂助・加嶋屋弥十郎・同要助・辰巳屋長兵衛・鴻池太蔵・山崎屋与七郎 2.17 三家の主催にて「万度会」。住吉社へ廻船の無事を祈願。社参以前軽き酒。参殿拝礼、神楽奉納。伊丹屋にて酒席。七つ半頃帰る、途中冨田屋にて酒宴。夜九つ頃帰宅 3.11 昨年の廻船の無事着船を祝う。伊丹屋。座敷貸切。芸子17人をあげて大騒ぎ。梶川惣十郎・同市之助・辰巳屋猪之助・山下八郎右衛門・奥田仁右衛門・高岡吉右衛門・大坂屋初太郎・室谷次郎助・加嶋屋三郎兵衛・伊勢屋藤四郎・酢屋利兵衛・同宗十郎・鴻池清八・同幸八・塩屋平蔵・同茂助・加嶋屋弥十郎・同要助・辰巳屋助七・近江屋次八・千草屋甚五郎・播磨屋権之助・加嶋屋彦七・鴻池太蔵。山中新十郎と鴻池庄兵衛は上京のため不参 4.4 山下惣右衛門らの招きにて清水より祇園へ参る(上京中) 4.13 冨田屋別荘にて、鴻池庄兵衛・太蔵へ酒振舞う 4.16 池田屋別荘にて講の会合。暮よりわた屋にて酒席。鴻池清八・同幸八・塩屋平蔵・茂助・加嶋屋定八・同要助・辰巳屋佐助・同長兵衛・山崎屋与七郎・鴻池太蔵・吉文字屋久米蔵 どうでしょうか。「わた屋」「住吉屋」というのが、いきつけの茶屋だったようである。この前も、あとにもまたまだあるのである。国許がたいへんな時に、いったい何をやっているのかと思うだろう。 天保3年3月に行われた着船祝いでは、仲仕や人足を含めて180人の大宴会となっている。場所は住吉社近くの「伊丹屋」という料亭である。人数が多いので、座敷は貸切である。ここは午後4時頃に引き揚げ、そのまま「住吉屋」という茶屋に場所を移して、"二次会"である。ここでは芸子を17人呼んでいる。日記には、「いつれも歓を極め、けいこなとをどふにあけおおさわき也」とある。下線部は、「芸子などを胴にあげて大騒ぎ」である。もちろん、これは介川が目にした光景を記したもので、介川がこうした行為をしているのではない(と思いたい)。 借金の相談をしても、最後は酒席である。もちろん、相手は全国を代表するような商人たちであるから、たんなる飲み会ばかりではない。大坂編はこれで終わりにするつもりであったが、書いていて楽しくなってきた。あと1回だけ、次回は、道頓堀の芝居見物と、鴻池の松茸狩りを紹介しよう。 |